イヴの書

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theme: innocent_love

genre: romance

auto_detected_motifs: book, glass, lake, mask

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 高貴を謳う不知火女子学園の図書館最奥部、誰も足を運ばないようなカビ臭いその薄暗がりで、桑山アカネは古びた革表紙の分厚い本を手に取った。表紙に題名はなく、林檎に噛みつく髑髏が描かれている。これはまさに、彼女の探していた学園の秘密、「イヴの書」の特徴であった。

 桑山は嬉々として表紙を捲る。

 その黄ばんだ頁は、初め何も書かれていなかった。しかし、まるで海底から古代エジプトの銅インゴットが引き揚げられるように黒いインクの染みが湧き出し、歪な文字を象った。

【桑山アカネ 使用者登録完了】

 その瞬間、桑山アカネを霧のようなものが包み込んだ。そして彼女は、自らが桑山アカネではなく、万能の力を得た【桑山アカネ】になったことを理解した。【桑山アカネ】は、ウラジーミル・プロップが彼女の傍らに立って、祝福の拍手をしているような気がした。

 桑山が不敵な笑みを浮かべている後ろから、文芸部員、志藤ライカが声を掛けた。

「部長、探し物を見つけたのですか?」

「宮本ヒバリに勝つ方法を見つけました」

「生徒会長のこと、まだ根に持ってらっしゃったのですか。そろそろ仲直りされてもよいと思いますが」

 宮本ヒバリは、桑山にとって不倶戴天の敵である。他方、宮本ヒバリは理事長の娘であり、また全校生徒にとっては品行方正な模範的生徒会長であった。

「部の予算を上げてくれないのなら、実力行使しかありません。志藤さんだって、前時代的な自動筆記ペンより、最新式の自動筆記アンドロイドが欲しいでしょう?」

 志藤は、口をへの字にして丸眼鏡をクイと上げる。

「骨董品も、それはそれでいいものですよ。独りで書きたい時は、アンドロイドが傍にいると落ち着きませんし」

 桑山は鼻をフンと鳴らして、自らの自動筆記ペンを「イヴの書」に載せた。

「【志藤ライカの丸眼鏡は、鳩になる】」

 桑山の声を音声認識した自動筆記ペンが、「イヴの書」へと文字を書き込む。

 次の瞬間、霧に包まれるようにして志藤の丸眼鏡は消失し、代わりに目の前に鳩が現れて飛び去って行った。志藤はよろめいて床に崩れ落ちた。

「きゃっ! 手品ですか⁉」

「言語世界を書き換えただけ」

「言語世界?」

「人間の内側に言語で再構築された世界。人間が知覚を通して受け取っている虚構の世界。そういうもの。言語で成り立っている世界を、言語で書き換えるのが、この『イヴの書』というわけ」

「何の冗談ですか?」

「言語による相互理解は、共通認識で成り立つものでしょう? 例えば、私と志藤さんで『丸眼鏡』という物体を【鳩】という隠語で呼ぶように約束していれば、『丸眼鏡』を【鳩】と呼ぶことができます。つまり言語世界における【鳩】は、『鳩』という生き物と、『丸眼鏡』という物体を両方意味することになる。この時、言語世界に干渉して、【鳩】が『鳩』という生き物だけを意味するように改変すれば、『丸眼鏡』という物体は、【鳩】と呼ばれ、『鳩』として認識され、羽ばたき始める。ただそれだけのことよ」

「ありえません、そんなこと。世界は物質に還元されます。人間の思考は、神経パルス、つまりは膜電位と神経伝達物質の受け渡しです。世界を言語で書き換えられるだなんて、妄言です」

 苦笑する志藤は、【桑山アカネ】の手にした力をまだ理解できていない。

「なぜ科学者を妄信するのですか? 科学者も言語世界の内側の人間ですよ。完全に客観的な科学などありえません。観測は現象に干渉するのです」

「それでもわたしは、科学を信じます」

「私は宗教の議論をしたいのではありません。もうこの話は止めにしましょう。【志藤ライカは、桑山アカネの言うことを何でも聞く】」

 志藤の動きがピタリと止まる。

「志藤さん、私の足の甲に接吻をなさい」

「はい」

 【桑山アカネ】の言葉に、志藤は従った。志藤の唇が、ローファーを脱いだ桑山の左足の甲に触れる。

「この力さえあれば、【桑山アカネは、宮本ヒバリに土下座させることができる】。【桑山アカネは、宮本ヒバリを我が物にできる】。言語世界は、私に味方したのです!」

 「イヴの書」を手中に収めたことで、【桑山アカネ】は言語世界において宮本ヒバリの属性を書き換える権利を得たのである。必然、【桑山アカネ】の胸は高鳴った。

 【桑山アカネ】は涎を垂れ流して獲物を狙う獣のように、生徒会室へと向かった。

 もはや恐れを知らぬ桑山は、生徒会室のドアをノックもせずに開け放つ。

「宮本会長はどちら?」

「待ちくたびれましたよ、桑山さん」

 宮本ヒバリは、メイドのアンドロイドを一体従えて、革張りの椅子に座していた。メイドアンドロイドは、ベネチアンマスクで顔を隠していた。

「予算案への署名は、あなたが最後です」

「その必要はありません。予算案は新たに作り直されます」

「自信満々ですね。彼女は根回しでもしたのかな、カナデ?」

 メイドは淡々と調査結果を報告した。

「いいえ。桑山様はどなたの協力も取り付けておりません。先刻まで志藤様と一緒に図書館で探し物をされていらっしゃいました」

「署名が終わったら、ヒバリもお手伝いしようかしら」

 行動が全て筒抜けだったことに、桑山は緊張を覚えたが、その緊張さえも桑山にとっては快楽だった。

「探し物は見つかりました」

「本当に? それは残念」

 宮本は、わざとらしく桑山の眼を見据えた。

 挑発されている。桑山はそう読み取った。こちらの手の内を読まれているのかもしれない。しかし桑山は覚悟を決めた。

 桑山は「イヴの書」を開いて、その上に自動筆記ペンを置きながら、絶対的勝利条件を口にする。

「【宮本ヒバリは、桑山アカネの言うことを何でも聞く】」

 「イヴの書」へと自動筆記ペンが文字列を刻み付けていく。桑山の計画はあっけなく達成された。

「さて、宮本会長。言いたいことは山ほどありますが、まずはその生徒会長の椅子から降りて、床に這いつくばりなさい」

 桑山は、口元に溢れる笑みを抑えきれなかった。

 しかし宮本は、一向に立ち上がる素振りを見せない。

「まさか、このヒバリが『イヴの書』の存在も知らずに対策を怠っていたとでも?」

 気が付けば、メイドのカナデが紙に何か文章を記しながら、宮本の耳元で囁いている。

「【宮本ヒバリは、桑山アカネの言うことなど聞かない】」

 桑山は舌打ちをした。

「抗イヴ抗体。開発は完了していないはず」

「カナデはイレギュラー。父の会社が小説を書くアンドロイドを開発する過程で、読み手の言語世界を参照する機能は必要でした。だからカナデは『イヴの書』の干渉を捉え、校正することができる」

「なら、そのポンコツが修正するより速く書き換えればいいだけね」

「そう、時代遅れの自動筆記ペンで」

 桑山は、言葉に全身の力を込めた。

「【宮本ヒバリは、湖へと落ちていく】」

「【宮本ヒバリは、椅子に座って深く腰掛けた】」

「【宮本ヒバリは、ガラスの破片を浴びる】」

「【宮本ヒバリは、シャンデリアの灯りを浴びる】」

「【宮本ヒバリは、全ての知覚を失う】」

「【宮本ヒバリは、普段通り世界を知覚する】」

 やがて二人は、より速く言葉を紡ぐために言語世界へと足を踏み入れていく。文章は実体化し、実体は文章化していた。

 桑山が構えた五文節口径の言語マシンガンは、パーティの開催を祝う言語クラッカーに書き換えられ、桑山が宮本の首元へ突き立てた二十文字の言語ナイフは、色とりどりの単語を散りばめた言語花束へと変容した。

「このポンコツは、パーティでも始めるつもり?」

「ワタシは改変される前の世界へ戻しているだけです。桑山様は、本心を語られるべきではございませんか?」

「わ、私が祝福しようとしているとでも⁉」

「言語世界の中での会話は、ヒバリ様には聞こえておりません。ワタシ達は理解し合えるはずです」

「懐柔しようとしても無駄です」

「桑山様は、幼い頃、よくヒバリ様と一緒に遊んでいたと伺っております」

「その話はやめなさい!」

 しかし桑山の思い出した幼少期の記憶は、心の中で言語化されて、言語世界へ投影された。

 それは二人で庭園の花々を摘んでいる時の記憶だった。ヒバリは草花の隙間から単葉機のように飛び出してきた蜂に驚いて、転んでしまった。

「キャッ!」

「肘を擦りむいてるじゃない、ヒバリ」

 幼い桑山は、大きな手提げカバンから救急箱を取り出した。

 その光景を黙って見つめている桑山の手を、カナデのひんやりとした手が優しく包み込む。

「桑山様は、お転婆なヒバリ様の面倒を見てくれる、良きご友人でした。しかしメイドがヒバリ様のお世話をするようになるにつれ、疎遠になってしまった。桑山様は、ワタシ達にヒバリ様を取られたと感じていらっしゃるのですね」

「嘘よ、そんなの」

「『本当です』と桑山様の心の声は仰っています。安心してください。ヒバリ様は、桑山様のことをずっと待ち続けていらっしゃるのですから」

「……本当に?」

 桑山の両目から、絹糸のような一筋の涙が零れ落ちた。

「はい。本日、ヒバリ様は、桑山様が『イヴの書』を見つけて生徒会室に来てくれるかどうか、心配していらっしゃいました。ヒバリ様は、桑山様とお話をしたくてたまらなかったのです。どうか、本日はもう少し、ヒバリ様とお話してくださいませんか?」

 桑山は大粒の涙を流していた。何度も頷く桑山の口からは、積年の思いが溢れていた。その言葉を、自動筆記ペンは「イヴの書」に淡々と書き記していた。

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