ダム湖に沈んだ村で、僕は夢を見る
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author_id: NEWIE-17-0000082674972603
theme: innocent_love
genre: romance
auto_detected_motifs: book, glass, lake, mask
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僕は、汗ばんだ手で古地図を握っていた。村役場、駅舎、そこから伸びる線路、村で唯一の商店。何度も見て頭に焼き付いたそれらの場所を、反芻するように確かめる。旧・天風村。今は合併して、飯高町へと名前を変えている。
もうすぐ、もうすぐ会える。そう思っただけで胸が高鳴った。
それからクリップで留めた何枚かの写真を手に取る。どれも図書館の本からコピーして切り抜いたものだ。商店の前に置かれたアイスボックスを、少年が覗き込んでいる写真。駅舎の前で、退職する駅長を囲んで整列する駅員たちの写真。タバコの自動販売機の横に座って、タバコを咥えながらこちらを睨む法被姿の男。
不意に車体が大きく右へ傾いて、頭をぶつけそうになった。
「急ブレーキにお気をつけください」
安値で買ったこの中古の軽自動車は、たまに警告が遅い。自動運転の精度も荒く、迷宮のように曲がりくねった山道を走るにはやや心許ない。しかし僕がハンドルを握れば、谷底へ落ちるのは時間の問題だっただろう。
フロントガラスの外へ目を遣ると、ブナやケヤキの青い葉がトンネルのように頭上を覆い尽くしている。昼間だというのに薄暗い。葉が風に揺られる度に、木漏れ日がシャンデリアのようにアスファルトを照らし出す。
「まもなく目的地です」
ナビの声と共に緑のカーテンが開き、湖面が姿を現した。天風湖である。本来であれば空の青を反射して一面に輝きを放っていたはずのそれは、すっかり様相を違えていた。
森と湖との間に、固まった泥の層が太い帯になって広がっている。湖の面積は、三分の一ほどになっているだろうか。あまり深くもないようで、水底の様子も透けて見える。かつての天風川の跡だと、すぐに分かった。
その川岸に、僕がどうしても見たかった光景が広がっていた。
まず、すぐに分かったのは駅舎だ。線路跡は泥に埋もれているが、堤部分が盛り上がっているのが分かる。南北に伸びた線路の先にコンクリートで作られた建物の基礎が見える。これが駅舎だろう。ホームらしきものも見える。
周りを見回しても、建物自体が残っている場所は無かった。ほとんどの構造物は、流木などが引っ掛からないように事前に取り壊されている。かつて駅舎の脇に生えていた立派なイチョウの木も、根元付近で切り落とされて切り株になっていた
とすると、駅舎と道路を挟んで東向かいにある家屋跡が商店だろう。
「到着しました」
湖岸へと伸びる細道の、「ここから先は立入禁止」と書かれたゲートフェンスの手前で車は静止した。僕は古地図と双眼鏡を持ち、カメラを首に提げて外に出た。茹で上がるような暑さが肌にまとわりつくが、そんなことに構ってはいられない。
これは鈴木家。これは野村家。頭の中の古地図と全てが照合していく。しかし全ての家屋跡が残っている訳ではなかった。特に残念だったのは村役場で、泥の中に痕跡一つ残っていない。
しばらくすると、一台の車が僕の通ってきた道を追うように走ってきた。車の側面には「天風ダム管理事務所」と書かれている。
停まった車から降りてきたのはポロシャツの中年男性で、首からは名札ケースを下げている。白髪交じりの髪を短く刈り揃えており、細いフレームのメガネをかけていた。
「椎名です。今日はどうぞよろしくお願いします、先生」
差し出された名刺を受け取りながら、こちらも名乗る。
「どうも。秋明大学人文科学研究科博士二年の桑山です。お忙しいところすみません」
僕も名刺を渡す。この動作には、まだ慣れない。椎名さんは手にした扇子で顔を一生懸命扇いでいる。
「いやー、しかし暑いですね」
「今日も真夏日だそうですよ」
「車の中も、さっきエアコンつけたばかりだったから、暑くて暑くて。しかも夏になるといつも壊れちゃってかなわねぇんだ、これが」
よく喋る人だなと思いながら、僕は適当に相槌を打った。
「どうです? 研究うまくいきそうですか?」
無遠慮に古地図を覗く椎名さんに、僕は「もちろんです」と答えた。僕の顔は、とろけそうなくらいに綻んでいた。
僕の所属しているゼミのテーマは、大雑把にいうと近代の民俗誌である。初めは学部を卒業したら就職する気でいたのだが、ある時、ダムに沈んだ天風村の話を知り、興味を持った。
湖底へ沈んで忘れ去られた村。泥に覆われた民家の廃墟。かつて路地だった場所に立つ標識。もはや存在しない町内を絵として残した案内板。かつて住んでいた人々の暮らしが目の前に蘇ってくるかのようだった。
しかし現実は甘くなかった。僕は、ダイビングすれば沈んだ遺物について調査できるものだと思っていたのだが、ダム湖でのダイビングは難しいらしい。水が滞留しているので濁っており、水温も冷たい。視界不良の中での作業は、常に危険と隣り合わせとなる。まず僕のような素人では無理な話だった。プロに依頼しようにも、研究費がとても足らない。
そこで僕は、投網をして遺物を収集する調査方法を採用した。ダムの管理事務所と何度も交渉して、どうにか許可をもらえたのだが、これが簡単ではなかった。
網を投げても、かかるのはブラックバスや木の枝ばかり。たまにゴミが引っかかってくるが、年代は新しいものが多い。それでもガラス壜の欠片から、執念でメーカーと年代を特定して、ダム湖に沈む前の物であることを特定することができた。それが僕の修士で唯一の研究成果である。
だがロマンにかける情熱は、いつしか無力感へと変わった。学会で発表しても物珍しい目で見られるだけ。僕の見つけたガラス壜のことを話しても、「潜ったらたくさん拾えるんじゃない?」と言われて終わりだった。
ダムの底と僕の間には、見えない壁があった。
そんな僕に、偶然にも好機が訪れた。この夏の渇水で、天風ダムの水が干上がったのだ。周辺住民にとっては困った話なのだが、僕にとっては願ってもない幸運だった。僕は早速、管理事務所に連絡をした。ダムの中に入るのは危険だから禁止とのことだったが、調査の許可は得られた。外から眺められるだけでも十分である。無為に網を投げるより、ずっと良い。
「んじゃあ、私は車の中で休んでますから。調査が終わったら声をかけてください、桑山先生」
「先生」と呼ばれるのは、どうにもむず痒い。僕は、まだ一介の学生に過ぎないのだ。だがそれを伝えたところで、呼ばれ方が変わったことは一度もない。
あらかたの建物の確認が終わり、この場所からの写真も撮り尽くしたので、別の場所へ移動することにした。椎名さんに伝えようとしたのだが、彼は既に快適な車内でいびきをかいていた。
やれやれと思っていると、遠くからクラクションが聞こえた。振り返ると、黒いバンが僕たちのいる細道に入ろうとしているようだった。僕たちの車を一旦外へどかさないと通れないだろう。
椎名さんを叩き起こし、僕たちの車を細道の手前まで戻すと、黒いバンの運転席にいた金髪の若い男は軽く会釈をして細道へ入っていった。ナンバープレートには品川と書かれている。
「あれ、管理事務所の車じゃないですよね」
「テレビ局ですよ。専門家を連れてきて、ドキュメンタリーを撮るとかなんとか」
「えっ?」
「桑山先生も知ってる人かもしれないですね。ハッハッハッ!」
椎名さんは豪快に笑っているが、僕にとっては笑い事ではない。僕はただの学生かもしれないが、天風村の研究者としては第一人者だという自負があった。そもそも資料が少なく、先行研究も無い。学会でも、天風村のことなんて誰も知らなかった。その誰も見向きもしなかった場所にスポットライトを当てて、足繁く通い、何度も繰り返し網を投げては、見つけたゴミの由来を調べてきたのは、他でもない僕だ。
だが無情にも立入禁止のゲートは開き、黒いバンは干上がった湖へと走り去っていった。
僕は彼らを遠くから眺めることしかできなかった。バンからは、ぞろぞろと人が降りていった。カメラクルーと、それから専門家らしき山高帽を被った老人の姿が見えた。乾いた泥の上に、僕ではない人間の足跡が付けられていく。カメラマンは駅舎跡に至近距離まで近付いて撮影していた。山高帽の老人は、ホーム上で身振り手振りを交えて何かを話しているようだ。線路の説明だろうか。その一部始終もカメラマンが捉えていた。
僕はもう、それ以上見ていられなかった。椎名さんに別れの挨拶をして、それでその日の調査は打ち切った。
とはいえ、他にやることもないし、目立った観光名所もない。僕は仕方なく、宿へ向かうことにした。
山の麓にある、飯高町。天風村の住民の多く――といっても当時の全人口は約百人程度――が、この飯高町へ引っ越したという。
飯高町で有名なのは、何と言っても飯高温泉だろう。最盛期には年間約五十万人が訪れたと言われている。しかし湯量の減少により、今では半数以上の旅館が廃業してしまった。
あの手この手で集客を試みているようだが、その成果は芳しくない。地元温泉組合が一念発起して作ったご当地ゆるキャラ「おんせんたまごくん」も、その一つである。テレビの撮影で温泉に浸かったところ着ぐるみが茶色に変色してしまい、以後その姿を見た者はいない。
その鳴かず飛ばずの旅館の内の一つが、いつもお世話になっている大浦旅館である。かつては旅館が軒を連ねていた大通りに位置しているが、一帯はゴーストストリートと化している。
僕は駐車場へ車を停め、スーツケースを転がしながら旅館へ続く道を進んだ。
まだ日が傾いたくらいだったが、階段状に上っていく道を灯籠が煌々と照らし出していた。人が少ないせいで、逆に物語の世界に迷い込んだかのような趣が出ている。
それに見惚れていると、後ろからシャッター音が聞こえた。
振り返ると、そこには一眼レフを構えた着物姿の女性が立っていた。カメラを下ろし、好奇心に満ちた目でこちらを覗く。眉毛が太めで、ぱっと見た印象はオードリー・ヘップバーンに似ている。黒い髪は頭の後ろで束ねられていた。
「こんばんは。なんだか絵になる風景だったので撮っちゃいました」
「どうぞお気になさらず。お久しぶりですね」
宮本礼禰と初めて出会ったのは、三年前、僕が初めてフィールドワークに来た時だ。彼女は大浦旅館の女将の一人娘で、旅館の仕事を手伝っている。だが旅館の女将を引き継ぐつもりは無いらしい。
「お客さん、ウチに泊まってくれたら、サービスしますよ?」
「偶然ですね。ちょうど旅館を探していたところです」
「えっ!? そうだったんですか! これも何かの縁ですね。じゃあ早速、我が家……じゃなくて当旅館までご案内致します」
やけに真面目な口調でお辞儀をしてから、ふっと相好を崩す。
「随分と早いチェックインじゃない?」
「他に暇を潰す場所も無いですし」
「それは同感」
一緒に旅館への道を歩いていた宮本さんが、不意に立ち止まった。
「そうだ! 桑山さんなら……」
「どうかしました?」
「いえ、なんでもないです。ほら、そろそろ着きますよ」
宮本さんはそうはぐらかすと、さっさと石畳の階段を上っていってしまった。その風景がなんとなく気に入った僕はスマートフォンを取り出して、灯籠に照らされた温泉街を駆け上がる彼女の後ろ姿を写真に収めた。それから急いで宮本さんを追いかけた。
宮本さんは旅館の前で僕を待っていた。その建物は、一目で歴史があると分かる。黒味がかった木材で組まれており、軒先に下がった提灯灯籠の中では蝋燭の火が揺らめいていた。
「さ、いらっしゃいませ、お客様」
宮本さんに促されるまま敷居を跨ぐ。すぐに深みのある檜の香りに包まれた。正面に木張りの廊下が伸びており、左手の受付が目に入る。そこから落ち着いた雰囲気の着物の女性が歩み出てきた。
「ようこそいらっしゃいました、桑山さん。本日もご利用頂きましてありがとうございます。どうぞお上がり下さい。……礼禰は失礼なことをしませんでしたか?」
女将は、僕の後ろの宮本さんに目配せをしていた。
「ちょうど外で会ったから案内してあげただけだし」
「本当かしら?」
「ほら、桑山さんは危なっかしいから。前回も躓いて池に落ちたでしょう?」
僕はすかさず訂正した。
「あれは池じゃなくて水溜りです」
「ニシキゴイが泳いでいたのに?」
意地悪そうに、宮本さんが僕の顔を覗いてくる。
「気持ちの問題ですから」
僕がふくれっ面をしてみせるのを、彼女は面白がっていた。そんな姿を見た女将が口を挟む。
「フフフ。私まで笑っちゃってごめんなさいね。でも礼禰だって、小さい頃に庭に咲くアネモネに躓いて転んでましたから。あんなにちっちゃいお花なのに、どうやって足を引っ掛けたんだか」
「余計なこと言わないでよ」
「はいはい。ではお部屋にご案内しますね」
そうして僕は、ようやくひとときの安寧を手に入れた。案内された部屋からは、靄がかかった飯高山を一望することができた。僕は窓辺に置かれた布張りの安楽椅子に腰掛けて、背もたれに体重を預けた。それからしばらく外の景色を眺めながら、頭の中を空っぽにすることに心を尽くした。
太陽が山の稜線に差し掛かり、空に橙色と藍色のグラデーションが描かれた頃、僕はようやく腰を上げて、露天風呂へ向かった。
大浦旅館の露天風呂は岩風呂になっている。湯けむりの下に隠れた湯の色は、ミルクのようにやや白濁している。体を洗ってから湯に浸かると、じんわりと湯の熱さが全身を包み込む。一日の疲れが溶け出していくようだ。
飯高温泉は硫黄泉でpHは8.2。冷え性や高血圧に効果があるという。湯治に来ている訳ではないが、今のうちから浸かっておくに越したことはないだろう。
湯から上がった僕は、手早く浴衣に着替えた。夕飯を済ませたら、寝る前に明日の調査の計画を確認しておきたかった。
男湯を出て自室へ向かう途中で、休憩スペースのソファーに腰掛けて本を読んでいる浴衣の女性と鉢合わせた。髪は腰くらいまで長く垂らしており、濡れた髪の光沢はカラスの羽毛のようである。いつもと雰囲気が違うが、それは宮本さんだった。
「どうしたの、ジロジロ見て」
「宮本さんも温泉に入るんですね」
「実家の風呂なんだから、入っちゃダメなんてことはないでしょ」
宮本さんは本に栞を挟んで立ち上がると、休憩スペースに置かれた自動販売機でコーラの350ml缶を二本買い、一本を僕に差し出した。
「サービスするって言ったからね」
「手厚いサービスどうも」
タブを引っ張って飲み口を開けると、炭酸の泡がもこもこと溢れ出してきた。急いでそれを口に含む。甘ったるいコーラの味が、舌の上で弾けた。そういえば炭酸は苦手だったなと、そこでようやく思い出した。
「そう言えば、何を読んでたんです?」
「これ」
宮本さんが本を両手で持って、表紙を見せてくれた。アーサー・コナン・ドイルの「失われた世界」だった。
「前に来た時に、おすすめした本ですね」
「そうそう。桑山さんの書いた小説、意外と面白かったから、おすすめの本も読んでみようかなって」
「『意外と』は余計ですよ。面白いと言って頂けるのは、ありがたいですけど」
宮本さんには、僕が趣味で小説を書いていることを明かしていた。別に隠す必要はないのだけど、なんとなく気恥ずかしいので友人にもあまり話していない。でも宮本さんは、特段驚くことなく受け入れてくれていた。その時は知らなかったが、どうやら彼女はミステリや歴史に関する本を読むのが好きらしい。だから僕もつい話してしまったのだろう。
「新作はまだなんですか?」
「研究も忙しいので、ちょっと手が止まっています。でもアイディアはあるので、楽しみにしていてください」
「次に来る時は完成させておいてくださいね」
「手厳しいなぁ」
そんな他愛のない会話が、僕にとっては本当に楽しかった。
「今日は何かあったんですか? チェックイン早かったし、なんか落ち込んでるみたいだし」
おっと、見抜かれていたか。少し迷ったが、僕は今日の出来事を話した。
「なんで管理事務所に抗議しなかったんですか!?」
「まあまあ、落ち着いて。波風を立てればいいってものでもないんだから」
「でも桑山さんがずっと研究してたのに、どこの馬の骨だか分からないジジイにだけ調査が許可されるって、おかしいですよ」
「僕の努力が足りなかったのかもしれません」
すると宮本さんは勢いよく立ち上がり、僕の目の前に人差し指を突きつけた。
「そういうの、桑山さんの悪いところですからね? 自覚あります? いい人すぎるんですよ、全く」
「えっと……ごめんなさい?」
「まあいいです。どうせ私が何言っても聞く耳持たないでしょうし、好きにしてください」
そう言うと、彼女はまたソファーに腰掛けた。どうやら諦めたようだ。しかしその表情には明らかに不機嫌さが混じっていた。
宮本さんは気持ちを落ち着けるようにフーッと息を吐いて、それから再び口を開いた。
「あの……ところで、桑山さんに話しておきたいことがあるんですけど、いいですか?」
いつもとは打って変わった真剣な眼差しが、僕に向けられていた。
「何です?」
とんでもない秘密を暴露されるのではないかと、僕は内心ひやひやしていた。
「実はですね、逃げたドローンが近くにいるらしいんですよ」
「『逃げたドローン』?……あぁ、数ヶ月前に東京の研究所から逃げ出したっていう自律型ドローンですか?」
「そうです! こないだ外で写真撮ってたら、たまたま映っちゃったみたいで。これなんですけど」
宮本さんは、クラウド写真共有アプリ でスマートフォンの画面に写真を表示させた。
そこには確かに、扁平な小型ドローンが映っていた。機体はややグレー寄りの黒色をしていて、鈍い光沢を放っている。ニュースで紹介されていたドローンに、よく似ている。画像がやや不鮮明ではあったが、ドローンの側面に「京臨研」の文字が見える。ドローンが逃げ出した国立京浜臨海研究所の略称だ。
ただ、前方と思われる部分に赤い物体が付いているのが気になった。そのような特徴があるとの情報は、今まで見たことがなかった。
「確かに逃げたドローンっぽいですね。でも、この赤い部品みたいなものが気になります」
「それなんですけどね」
宮本さんも気になっていたらしく、画面をフリックすると拡大した画像に切り替わった。
「実は他にも目撃した人がいるんですが、その人が言うには『ドローンは仮面をしていた』らしいんです」
「仮面?」
「赤い仮面です。鼻が長くなかったので天狗面ではなかったそうなのですが、何の仮面かは分からなくて」
確かに拡大画像を観察してみると、仮面らしきものを被っているように見えなくもない。見えなくもないのだが、仮面なんか被っているはずがないだろう。風で飛んできた赤い褌が引っかかって仮面みたいに見えたとか、そんなオチではないだろうか。
「確かに興味深いですね」
とりあえず表向きは研究者らしくふるまっておこう。そう思ってはいたのだが、「赤い仮面」というキーワードが妙に気になっていた。どこかでそれらしいことを聞いたことがあるような、ないような。何か重要なことを忘れている気がした。だが思い出せないということは、大して重要ではなかったのかもしれない。どこかの小さな学会のポスター発表でチラリと仮面の地域比較を見かけたとか、そんな程度だろう。
「それでですね、私なりに図書館で調べたんですけど、旧・天風村の風習に『アカンダ様』というものがあるらしくて――」
「アカンダ様!!!」
僕は思わず大きな声を上げて、膝を思い切り叩いた。掌が痛い。ジーンとする。
「よく調べましたね。僕もその可能性を検討していたところです」
うまく誤魔化せただろうか。あまり自信はない。
アカンダ様についての記録は、ほとんど残されていない。天風村が湖の底に沈む前に月一回発行されていた村の広報誌「広報あまかぜ」の歴史欄「あまかぜの歩み」第34回にのみ、その名前は登場する。
アカンダ様は、旧暦12月1日に行われていた年中行事である。赤ら顔の男の仮面を付けたアカンダ様が、その年に生まれた赤ちゃんがいる家を訪問し、無病息災を願って赤ちゃんの周りで舞を披露するらしい。この演舞は「オシラの舞」と呼ばれており、伎楽や猿楽との関連性が指摘されている。しかし正確な由来は不明で、少なくとも江戸時代中頃には行われていたようである。「アカンダ」という名前は、「赤肌」や「赤ん坊」が転訛したのではないかと考察されていた。その記事が書かれた当時、既にアカンダ様の風習は途絶えていたため、村の古老に話を聞いて回ったそうだ。映像はもちろん、写真も一切残っていない。
「やっぱり、これってアカンダ様の仮面なんですか?」
「その可能性はあると思います。実物が記録に残っていないので確証はありませんが」
「へぇーっ、もし本物だったらすごいですね。でもなんでドローンが仮面なんか……あ! もしかして顔を知られたくないとか?」
「指名手配犯みたいに変装してるってことですか? 脱走したというシチュエーション的には正しいですが、逆に目立っているように見えますけどね」
「鋭い。さすがプロですね」
「僕は犯罪心理学のプロではないですよ」
「じゃあ他にどんな理由があるんですかね?」
宮本さんはコーラを飲み干してしまっていて、空になった缶を手で弄びながら難しい顔をしていた。
「そもそも仮面というのは、神様や精霊といった他の何かになるための道具です。そこから派生して匿名化の手段としても使われたりはしますが、基本は変身なんだと思っています。だから『見る・見られる』の関係があるんですよね。例え他者に見られないとしても、その変身した姿を自分で『見る』ことがあるのなら変身することはあるんだと思います」
「コスプレイヤーが自宅でコスプレして自撮りするのと同じですね」
「そうそう。それと、逃げ出したのは作家ドローンらしいじゃないですか。それって恐らく関係してると思うんですよね。作家って、世界を俯瞰して覗き見ている存在なので、自分の心の中では自分自身すら客観的に『見ている』んですよ」
「分かる。桑山さんの小説って、そんな感じですもんね」
宮本さんの悪戯っぽい視線が、僕に容赦なく注がれた。
「それって褒め言葉です?……ともかく、そういう視点で考えてみると、ドローンは小説を書くために変装しているんじゃないかと僕は思います」
「キャラクターになりきって、その体験を小説にする、みたいなことですか?」
「端的に言えば、そういうことですね。ほら、『自分の体験したことじゃないと小説にできない』っていう作家さんいるじゃないですか。体験したことによって得られる経験値が小説をより小説らしくするんだということに、ドローンが気付いたのかもしれません」
「仮面を被ることで書きたい小説って、何なんですかね?」
「『13日の金曜日』とか?」
「私は『V・フォー・ヴェンデッタ』を推します」
「そういえばヒーローものって、敵味方問わず仮面つけてるキャラクター多いですよね。バットマンとかダースベイダーとか赤い彗星とか」
「確かに。英雄譚が書きたいのかな、ドローンも」
「物語の基本形は英雄譚と言われていますからね。そういう意味では、当然の帰結なのかもしれません」
「ふぅん。ドローンが書いた小説も読んでみたいな」
僕は、ちょっとだけドローンに嫉妬した。
「桑山さんはどうするんです? 仮面探しに行きます?」
「うーん、確かに興味はあるけど、本当にアカンダ様の仮面か分からないし、そもそもドローンどこにいるか分からないじゃないですか? 明日やらないといけない調査もありますし」
「ジジイを出し抜いてやろうとかいう野望は無いんですか?」
「それはありますけど、学問というのは一発逆転でどうこうできるものじゃないんですよ。日々の地道な研鑽の積み重ねというのが大事なんです」
すると宮本さんが僕の耳元にすっと近寄ってきた。ローズのシャンプーの香りが、ふわりと僕の鼻をくすぐった。宮本さんが小さな声で囁く。
「実は、ドローンの巣を見つけたんです」
「明日、朝一で行きましょう! 宮本さんは道案内をお願いします。捕獲用具は、……僕の車に載ってる投網が使えるな。至急、計画を詰めましょう!」
さぁ、ジジイをギャフンと言わせてやろうぜ!
翌朝、五時。オンボロ軽自動車に宮本さんを乗せて、僕は目的地へと出発した。
ドローンの巣があるのは、飯高山の中腹あたり。幸いなことに、結構近くまで車が入れる道が伸びている。地図上では、車を降りてから徒歩十分くらいだろうか。
「ほら、あそこ。霧が濃くなってるところ。あれがドローンの巣」
宮本さんが窓の外を指差す。朝靄がかかった森の中に、とりわけ白んでいる一角が見えた。
「ドローンの巣からは、あんなふうに霧がいつも出てるんです。原因は分からないんだけど」
「加湿機能が付いてるんじゃないですか」
「ついでにお掃除もしてくれるなら買おうかな」
「残念ながら、私にはどちらの機能もついていません」
車の音声ガイドAIの答えに、僕たちは笑ってしまった。
それからすぐに目的地に到着した。森の土臭さが辺りには充満しており、じっとりとした湿った空気が肌にまとわりついた。僕は投網を抱えて持ち、宮本さんには地図を持ってもらった。
ドローンの巣となっているのは、小さな溶岩洞であるらしい。どうしてそんな場所がドローンの巣と分かったかというと、いくつかの目撃地点をマッピングした時にその洞窟が中心に位置していたのだと、宮本さんは話していた。彼女は、歴史の研究者になった方がいいんじゃなかろうか。
斜面を登っていくにつれて、徐々に辺りを包む霧は濃くなっていった。空気の透過度がどんどん下がっていき、数歩先すらも白い雲の中に隠れてしまうようになった。これだけ霧が濃いと光が遮断されて暗くなりそうなものだが、むしろ周囲の空気は自ら発光しているかのように見えた。微細な電球が漂っているのではないかと疑ったくらいだった。
「この先で方向合ってますよね?」
「そのはずです。でもこれだけ視界が悪いと、小さい洞窟だから見落としてしまうかも」
「はぐれると危険だから、ここからは手を繋いで歩きましょう」
「そうですね。さすがに身の危険を感じます」
僕たちは、足を滑らせないように注意しながら一歩ずつ進んだ。霧は濃くなる一方だったが、僕たちは洞窟に近付いていることを確信した。
その時は不意に訪れた。ブゥンという風を切る音が、どこからともなく聞こえてきた。ドローンのプロペラの音だ。僕たちは顔を見合わせ、音を立てないように注意しながら周囲を観察した。もはや僕たちは、白い雪でできたかまくらの中にいるみたいだった。無の世界に切り取られた大地の上に、僕たちはかろうじて立っていた。一歩進んだ先に、地の果てへと続く裂け目があったとしても、僕は驚かないだろう。
「あっち!」
宮本さんが指差した方向へ視線を向ける。プロペラの音が近付いてきた。どのくらい近くにいるのか、もはや見当がつかない。
投網を握る手に力が入る。僕は目を凝らし、音の発生源を見ようとした。そしてそれは、僕の眼前に突然現れた。黒光りした機体と、猛獣のように唸るプロペラ。僕はすぐに投網を投げようとした。だが僕は網から手を離す直前で、それを止めた。
ドローンは一羽のハクチョウに姿を変えていた。何が起きたのか、自分でも分からなかった。ハクチョウは、僕を嘲笑うかのように優雅に旋回してから、白い霧の中へ消えていった。
目の前の光景が信じられなかった僕は、宮本さんの方を向いた。ところが、目を向けた場所に彼女の姿はなかった。しまた。僕が咄嗟に両手で網を投げようとしたので、気付かぬうちに繋いでいた手を離してしまっていた。
「宮本さん!」
できる限り大きな声で名前を呼んだ。何度も繰り返し叫んだ。あっちにもそっちにも声をかけた。しかし返答はない。
そうしているうちに僕自身も方向感覚を失い、来た道が分からなくなっていた。
自分がどこに立っているのかも定かではなく、めまいもしてきて地面が揺らいでいるかのようだった。
気が付くと、僕はどこかの建物のトタン屋根の上に立っていた。さっきまで森の中に立っていたはずなのに。僕は狐にでも化かされているのではないだろうか。恐る恐る腰を落として、屋根に触ってみる。錆は無く、冷たい金属の感触が伝わってくる。よく見ると、鉄骨がむき出しになっている箇所もあった。霧が少し薄くなり、周りの様子が朧気ながら姿を現す。どうやら僕は二階建ての建物の上にいるらしい。月明かりなのか、自分の周りがうっすらと明るく見えた。
地面を見下ろすと、そこに何か四角い箱が置いてあるのが見えた。上面が、スライド式の蓋になっている。アイスボックスだ。
僕は気付いた。手の震えが止まらない。僕は今、ダム湖に沈む前の天風村にいるのだ。この建物は、村で唯一の商店だろう。僕は道路の向こう側へ目を向ける。視線の先にある霧が晴れて、平屋建ての駅舎が姿を現す。見上げるほど大きなイチョウの樹は、青々とした葉を風に揺らしていた。僕が夢に見た光景が、そこにあった。
同時に、僕は違和感にも気付いていた。現実的でありながらも、目の前に広がる光景には存在が伴っていないように感じられた。バーチャルとも少し違う。感触はあるし、温度も感じるのだ。しかしその感覚は、今まで僕が感じてきた本当の世界と、ちょっとだけ違う入り口から入ってくるのである。これは、本を読んでいる時に近いのかもしれない。全神経が文字に集中していて、そこから声や痛み、風の匂い、生きる辛さ、別れの哀しみ、それら全てが流入してくる感覚。
恐らくこの幻想は、ドローンの持つ小説を書く能力が進化して生まれたのではないかと思う。彼らのクリエイティブ精神は、小説を書くだけでは飽き足らず、現実世界の中に空間的な物語を生み出そうとしているのだ。それはクリエイターとして正しい選択だと僕も思う。物語を伝えたくても、小説という文字だけの媒体ではうまく表現できないことがある。ビジュアルや音楽、声のトーンがあった方が、ずっとストレートに伝わりやすい。
僕もこんな幻想を作り出せたら、どんなに嬉しいことか。
しばらくすると全ては霧の中へ溶けていき、あっという間に霧は晴れていった。幸せというものは、いつも儚く散ってしまうものだ。
辺りを見回してみたが、宮本さんがいる様子はない。ちょうどすぐ近くに洞窟の入り口を見つけたので、中へ入ってみることにした。もしかしたら宮本さんも洞窟に入ったのかもしれない。薄暗い空洞へ足を踏み入れると、途端に背筋を冷たい空気がなぞる。空気の流れもなく、ただ僕の足音だけが闇の深淵へと吸い込まれるように響いていった。進むうちに太陽の光が届かなくなってきたので、ポケットに入れていたハンドライトを点けた。するとその先に、一機のドローンが見えた。地面の上に降りて、細長いアームを二本器用に動かしている。
その作業を眺めているうちに、それはドローンが新たなドローンを製造しようとしているのだということに気付いた。アーム先端のノズルからは樹脂が出ており、3Dプリンターのようにアームが動いて機体が造形されていた。電子基板も樹脂で作っている。ドローンが自分自身のコピーを作れるなんて話は聞いたことがなかった。
作業は終盤だったようで、数分も経つと新たなドローンが誕生した。幻を見せる霧を作れるように進化し、子供まで作ってしまう。これをただの機械といっていいのだろうか。既にドローンは生命体の領域に到達したのではないか。
そう考えていると、何か入り口からやってくるのが見えた。それはアカンダ様の仮面を着けたドローンだった。反射的に僕は網を投げようと身構えた。狭い洞窟の中だから、よほど下手なことをしなければ捕獲できるはずだ。
しかし僕は、目の前を通り過ぎるドローンを見送っていた。これから起こるであろうことに、僕は興味があった。
アカンダ様の仮面を着けたドローンは、生まれたばかりのドローンの元へ向かい、その周りを旋回し始めた。機体を横に傾けたかと思うと、その場で宙返りをする。駒のように高速でスピンし、その直後に逆方向へ回転を切り替える。
「小説を書くために仮面を着けているのだろう」なんて、そんな馬鹿げた主張をするのはどこのどいつだ? そいつの目は節穴か? その間抜け顔を、この目で拝んでやりたいものだ。
僕は、いつまでもいつまでも、その演舞をじっと見つめていた。
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