春の海辺に、さよなら

 ハチドリが書いた物語を読んでみたかった。精巧な折り紙みたいに軽くてちっちゃい鳥が、空中をホバリングしながら長いクチバシをサルビアの花筒に差し入れる、その瞬間の高揚とはどんなものだろうか。色とりどりの花々を飛んで回って甘い蜜を盗み取る美食家に、僕は憧れていたのかもしれない。

 ブナ林の間を飛び回る黒い影。四方に伸ばした腕の先についたプロペラが、ブゥンというクマバチの羽音のような重低音を響かせている。本体は平たい流線形をしていて前後に長く、その大きさも相まって香箱座りをした猫によく似ている。

 「ニューイ」。このドローンは、そう呼ばれている。Neural network Engine-based World Internal Explorer(神経ネットワークエンジンに基づく世界内在探索者)、略してNEWIE。世界を探索して得られた経験を基にして小説を書くという、斬新なコンセプトのドローンである。

 ニューイがブナ林を抜けると、そこには一面の花畑が広がっていた。ペゴニアやカミツレの間を、注意深く観察するように飛び回る。ハチドリと比べれば大きすぎるけれど、ニューイがどんな物語を書くのかは興味があった。

「出力来ましたよ、桑山さん」

「今行きます」

 僕はニューイの行動観察を中断し、ニューイをモニタリングしている伊東さんの元へと急いで戻った。

「花をモチーフにして書いているみたいですけど」

 伊東さんがタブレットの画面を僕へ向ける。そこには、百花繚乱の世界を描いたテキストデータがさらさらと流れていた。

「同定精度がめちゃくちゃですね。ここにはアネモネなんて咲いてない」

「やはり現段階では、この程度が限界ではないですか? 現実ですら正確に認識できていないのに、ニューイに意識を実装しようだなんて夢のまた夢ですよ」

「同感ですね。小野さん、観察は続けますか?」

 離れたところで各ドローンの観測データを集計していたチームリーダーの小野さんも、諦めたように首を横に振っていた。僕らはドローンを回収し、研究室へと戻った。

 ここは京浜臨海研究所。埋立地に作られた広大な敷地には、森を再現したドーム型屋内研究施設「テラパーク」が併設されている。実際の生息環境に近い状態で鳥や小動物を調査・観察することができる、貴重な施設である。このテラパークで、僕たちはニューイに意識が芽生えているかを検証していた。

 チームとしてのテーマは、ニューイの心理モジュールの開発である。プロジェクトでは、柱の一つとして「ニューイが作家として小説を書くために意識を持たせること」を掲げている。

 だが成果は芳しくなかった。そもそも僕たちのチームのテーマは、どちらかというと長期的な目標として定められている。やはり機械への意識の実装には、技術的な課題が多い。

 チューリングテストのように、こちらからの応答に人間らしく答えていれば、それで意識があると認定してしまうことはできる。だがそうすると人語を喋らないイヌやネコには、意識がないことになってしまう。意識をどう定義するのかというところから、僕たちは始めなければならなかった。

 今日は、敷地内の花畑をニューイに見せて、そこで生成された小説から意識の有無を探る実験をしていた。どの程度の文章が出力されていれば意識があるといえるのか、という線引きを議論するための実験だ。しかしニューイは咲いていない花のことまで描写していた。これを現実が正しく見えていないと解釈するか、あるいは想像力に満ちていると解釈するかで、また議論は紛糾するだろう。

 正直、線引きできないものに無理やり線を引こうとしているようで、僕には不毛な作業にしか思えなかった。「人間というものは、得てしてそういう生き物である」と絶えず自分に言い聞かせていなければ、気が狂ってしまいそうだった。

 昼休憩になった。僕の足は何も考えずとも、研究所の近くにある定食屋「てんてん」へと向かっていく。その途中、宮本さんの姿が目に留まった。後ろにまとめた長い黒髪で、一目で分かる。

 宮本さんは植物分子生物学者として、このプロジェクトに参加している。一見、作家ドローンの開発とは縁遠いように思えるが、実は重要な役割を果たしている。ニューイは野外で探索することが前提のため、故障した場合のリスクが高い。そこでニューイは、植物を体内で樹脂化して自己修復できるようになっている。宮本さんは、この植物性プラスチックの研究をしていた。

 外へと向かう宮本さんの右手には、本が抱えられていた。

「今日はお弁当じゃないんですか」

「朝、時間がなかったので」

「これから『てんてん』行くところだったんですが、一緒にいかがですか?」

「桑山さんがいいなら、いいですよ」

 前を向いたまま、宮本さんは答えた。その瞳は、いつもどこか遠くを眺めている。まるでこの場所にはいないかのように。

 「てんてん」の暖簾をくぐると、ちょうど二人席が空いていた。そこに腰掛けると、すぐに店主がお冷を二つテーブルに並べた。店主の目が「今日は珍しいな」と言っているように見えた。

 「てんてん」の昼の定番は、日替わり定食だ。店内の壁に提げられた黒板には、「今日の定食:豚の生姜焼き」と店主の手書きで書かれている。

「定食でいいですか?」

「はい」

 宮本さんに確認してから、店主に「定食二つ、お願いします」と告げると、店主は「あいよ」と言って奥へ下がっていった。

「宮本さんのチームは、どんな感じですか?」

「植物プラスチックの新しい合成経路を試しているところです」

 ニューイの開発において、新しい植物性プラスチックの開発は最優先事項だった。機体の部品が、100%植物性プラスチックで構成されているからだ。電子回路もケーブルもモーターもカメラもバッテリーも、全て植物由来である。導電性プラスチックが通電部分に使われているが、やはり金属には劣る。これを改善するためには、新しい素材の研究は欠かせない。

「そうなんですね。僕の方は、ぼちぼちです。心理モジュールの開発に向けて、一歩一歩地固めしている段階ですね。今日もテラパークで実地検証をしていました。良いデータがたくさん取れたので、これから解析していくところです」

 僕の話を、宮本さんは静かに聞いていた。持ってきていた本は、膝の上に置いている。

「その本、面白いんですか?」

 表紙を覗くと、それはジュール・ヴェルヌの『地底旅行』だった。

「へぇー。ヴェルヌは『十五少年漂流記』しか読んだことないです。いいですよね、ああいう冒険もの。子供心をくすぐられるというか」

「旅が好きなので」

「そうだ。小説といえば、僕、新作書いてるんです。もし良かったら、宮本さんにもまた読んで頂きたくて」

 その時、少しだけ宮本さんの表情が緩んだ気がした。

「楽しみにしてます」

「本当ですか! 嬉しいです。読んで頂いた前作も、宮本さんの感想を参考に手直ししたんですよ。公募には落ちちゃったんですけど、ネットの投稿サイトで公開したら結構好評でした。宮本さんのおかげです!」

「お役に立ったのなら嬉しいです」

「あ、でも前にもお伝えしましたが、僕が小説書いていることは内緒にしてくださいね。職場にばれたくないので」

 宮本さんがコクンと頷いたところで、定食が届いた。

 それからも、食事をしながら色々なことを話した。通勤途中にある桜並木がきれいだったこと。こないだコンビニで電子マネーを忘れて現金で払ったこと。我ながら、話題の選び方が下手だと思う。でもその間、宮本さんはずっと聞き役に徹してくれていた。そういう気配りのできるところに、僕は心惹かれるのだった。恋は盲目というけれど、ボクにはその言葉の意味がよく分かる。いつかこの思いを告白できる時はくるのだろうか。いや、必ずその時は訪れるはずだ。それまで僕は、この春の空気のように淡い恋心を大事に心の片隅にしまっておこう。

 その日の午後は、みっちりとミーティングが設定されていた。データが出ていないのだから、ミーティングなんてやるだけ無駄だった。それでも上司はミーティングをしたがった。きっと「うまくいかなかったが、チームで議論して改善策を練った」という、その場限りの穴埋めが欲しいのだ。ミーティングのためにミーティングを開いているようなものである。誰もそれを止めなかった。坂道を転がり出した大玉の前に立てばどうなるか、誰もがよく知っていた。

 夜、皆が徒労感という重荷をわざわざ自分で背負って帰宅した頃、僕は誰にも見られていないことを確認してラボを抜け出した。

 研究所の二階の隅の方にある、ほとんど人がやって来ない備品室。中に入ると、窓のない四畳半ほどの空間には、カビと埃と乾いた糞が混ざった匂いが充満している。マウスの入ったケージの脇を通り過ぎ、薄暗い部屋の中でディスプレイの前に座ってキーボードを叩いている小太りの男に、僕は声をかけた。

「うまくいきそうか?」

「ちょっと待ってな」

 僕は古い穴の空いたソファの上に腰掛けた。この結城という男は、ニューイの機体制御チームに所属している。僕と同期で、よく気が合った。

「これでいけるといいんだけど」

 そう呟きながら、結城はマウスを取りに行った。僕はディスプレイに表示された画面を見遣る。そこには「ブレインハッカー」の文字が誇らしげに浮かび上がっている。

 ブレインハッカーは、僕と結城の二人だけで秘密裏に開発しているソフトウェアだ。発案したのは僕だった。あるのかどうかも分からないニューイの意識を探すよりも、既に存在する意識をニューイにコピーする方が、遥かに生産的だと考えたのだ。参考にしたのは、インドのエンジニアによって公開されていたライブラリである。そこには、被験者に見せた画像を近赤外線を用いて非侵襲的に電子化する技術が含まれていた。それを見た時、僕は意識のコピーに応用できると直感した。

 しかし開発チームに相談しても、ミーティングのアジェンダの下の方のリストに入れられるのがオチだ。五分の「真剣な」話し合いののち、「優先度は低めで」というお決まりの判子を押されるのは目に見えていた。そこで、まずは独自に開発を進めて、成果が出たところで発表しようと考えていた。ちょうど結城が暇そうにしていたので、開発担当として色々と任せている。結城も初めての実験に興味津々らしく、いいおもちゃが手に入ったと喜んでいた。

 マウスを一匹、首と背中の皮をつまむようにして持ってきた結城は、慣れた手付きでマウスを台に固定した。そしてマウスの頭に、光ファイバーの繋がった小型のスキャナを装着する。マウスの頭からペンのキャップが何本も生えているみたいだ。

「じゃスキャン始めるよ」

 結城が開始ボタンを押すと、光ファイバーの基部にある光源ランプのシャッターが上がる音がした。これによってスキャナからマウスの脳へと近赤外レーザー光が照射される。近赤外レーザーは生体を透過し、反射した光をセンサーで検出する。

「悪くないな」

 画面内のプログレスバーが0%から徐々に増えていくのを、結城とともに見守った。これが途中で止まり、今まで何度悔しがってきたことか。しかし数値は順調に増えていき、ついに100%になって止まった。「スキャン完了」の文字が画面に映っている。

「成功したのか?」

「待て。喜ぶのはまだ早い」

 結城は、画面内に仮想空間「イメージスペース」を立ち上げていた。イメージスペースは、それぞれのニューイが収集した世界情報や生成した小説を個体間で共有するために作られたものだ。ニューイたちはこの仮想空間の中のエージェントとして、相互にコミュニケーションを取りながら、経験情報を仮想ワールドとして建築する。このワールドに入れば、その経験を追加体験することができる。こうしてニューイたちの経験はアーカイブ化されていた。

 結城は、そのイメージスペースの中に、一体のエージェントを作成し始めた。互換性を考慮して、四足歩行のイヌ型アバターが選ばれた。オペレーターとして、先程スキャンしたデータをセットする。読み込みが終わると、イメージスペースにイヌが現れた。しかし動きがでたらめだ。手と足の動きはバラバラで、周囲の状況を認知している様子もない。

「とりあえず意識のアップロードは成功だろう。桑山の妄想を信じて良かったよ」

「僕だけの力では作れなかったさ。もう少し改善して、せめてワールド内を探索できるようになったら、これをニューイに意識として実装することを提案してみよう」

 僕は平静を装っていたけれど、内心では飛び上がりそうなくらいに喜んでいた。これでようやくハチドリが書いた物語を読むことができるかもしれない。

 ただし、問題は山積みだった。僕はマウスを固定した台から外してみたが、予想通りピクリとも動かない。せっかく非侵襲的手法を採用したにもかかわらず、ブレインハッカーで意識をコピーしたマウスは死んでしまうのだ。

「やっぱり駄目か。近赤外レーザーが強すぎるんだよな」

 そう言って、結城は頭を掻いていた。

「最初はそんなものさ。あとの問題は時間が解決してくれるだろう」

「時間の神様は残酷だよ」

 まるで会ったことがあるみたいな言い草だった。

「僕も、学生時代はスリムで女の子にもてたんだ」

 残酷なのは結城の食欲ではないかと思った。

 翌日の午前は、データの解析に費やされた。念のため、昨日のデータを全て人間がチェックするらしい。AIで自動解析すれば十分だと僕は思うのだが、上司の意見に対して反対する声は出なかった。

 昼になって「てんてん」へと歩いていく僕の足取りは重かった。長時間のデスクワークで、目の筋肉がピクピクしていた。

 その途中、僕はまた宮本さんの姿を見つけた。本を抱えながら足早に歩く彼女の傍で、一人の男が何かを話しかけているようだった。気になった僕は、趣味が悪いのは承知の上で、その後ろに付いていくことにした。

「いいじゃん。一緒に昼飯食いましょうよ、宮本さん」

「私は食べません。読書に行くので」

「でもいつも弁当作ってきてたじゃん。『俺の分も作ってきてよ』って言ったから? 気にしなくていいんだよ、別に。俺はハンバーグとか、ありきたりなもので十分なんだからさ」

「私は一人がいいので」

「人とのコミュニケーションは大事だよ。特に食事を一緒にするっていうのは、お互いの距離感を縮めることができるんだ。宮本さん、コミュニケーション苦手でしょ? 僕がその練習台になってあげるって言ってるんだよ」

 そこまで聞いて、僕はもう我慢がならなかった。後ろから近付いて、宮本さんの腕を取った。

「おいおい、俺が話してんだから邪魔すんなよ」

「嫌がってるじゃないですか」

 宮本さんは目を丸くして僕の顔を凝視していた。何が起きたのか分かっていない様子だった。

 男が鋭い目つきで僕を睨んでいる。

「お前、何者だ?」

「……心理モジュール開発チームの桑山だ」

 すると男は馬鹿にしたような笑い声を上げた。

「ハッ、あの成果が一つも出ていないところか? 俺は植物プラスチックチームの新任の上野。前職はアカデミアで助教をやっていた。海外の研究者とはいつも連絡を取り合っているんだ。お前とは格が違うんだよ」

「失礼ですが、社会人のマナー講座でも受けられた方がいいんじゃないですか? もっとも、その前に小学校からやり直したほうが良さそうですが」

「俺は所長のたっての頼みで、こんなしけた研究所に来てやってるんだぞ。俺の顔に泥を塗るというのがどういうことか、分かってんのか?」

「だから最初に言ったじゃないですか。『失礼ですが』って」

 視線と視線がぶつかり、今にも火花が飛びそうだった。上野の顔はみるみるうちに赤くなっていき、血管が浮き上がっていた。僕は自分から手を出さないことだけ意識していた。

 ついに耐えられなくなった上野が握った拳を振り上げ、今にも僕に殴りかかろうとした時だった。

「あれ、上野だ。なんであいつがこんなところにいるんですか、所長?」

「知っているのか?」

 この騒ぎで集まった野次馬の中から、結城と所長が顔を出している。一緒に昼食に出るところだったようだ。というか結城が所長と昼ごはんを食べるほど親しいなんて知らなかった。

「あいつ、今まさに論文捏造で炎上してて、海外のジャーナルに出してた論文がことごとく撤回されてるんですよ。それでついこの前、助教辞めさせられたって」

「そんな話は聞いてないな。仕事なくて困ってるって聞いたから、可哀想だなと思って雇ったんだけど」

「ちょっと待ってくださいよ、所長。これは事実の誤認でして――」

「あとで所長室へ来なさい。話があるから」

「……はい」

 にこやかに沙汰を下す所長の顔は、まるで仏のようだった。所長が結城とともに去っていくのを見て、僕も宮本さんの手を引いて、その場をあとにした。

 辺りを適当に散策しながら、僕は宮本さんに話しかけた。

「怪我はなかったですか?」

「はい」

「僕がもっと早く気付いていればよかったのですが」

「どうして助けてくれたんですか?」

 澄んだ海のように純粋な瞳が、僕に向けられていた。

「困っているように見えたので。お節介でしたか?」

「いえ。あの人、最近やってきたんですが、私がお昼にお弁当を食べている時にずっとつきまとってくるので、嫌だったんです。助かりました」

「きっと、あとは所長がいいように取り計らってくれるでしょう」

「そうですね」

 そうして僕たちは、とりとめもなく歩いた。特に何を話すでもなく、ただ同じ時間を過ごした。いつもみたいに、僕が緊張して喋りすぎてしまうこともなかった。少しだけ心の距離が近くなったような、そんな気がした。

 頃合いを見て、僕たちは研究所へ戻る道を進んだ。この時間が終わってしまうことが、名残り惜しかった。

 何かきっかけが欲しかった。

「そうだ、宮本さん。実は相談したいことがありまして」

「なんです?」

「みんなには内緒なんですが、こっそり生体の意識をデータ化する実験をしていて、それが成功したんです」

 宮本さんは半信半疑な表情をしていたが、面白いと思ってくれているようだった。

「意識をコピーできるということですか?」

「近赤外光で脳をスキャンするんです。コピーしたマウスの意識でエージェントを動かすところまではできています。ただスキャンするとマウスが死んでしまったりと、問題も多くあります。宮本さんには、生物学的観点からアドバイスを頂ければと思いまして」

「でも私、植物が専門ですし」

「極秘で進めているので、信頼できる人にアドバイスを頂きたいんです」

「そうですか……。私で良ければ」

「ぜひお願いします。二階の備品室で開発してるので、お時間がある時にデモをお見せしますよ」

「そうですね。また今度」

 その時、僕たちの背後から強い風が通り抜けていった。背中を押されてるみたいで、僕はよろけそうになった。しかし宮本さんは何事もなかったかのように平然としていた。まるでホバリングしているハチドリみたいだった。

「ちなみに、コピーした意識はイメージスペースの中のワールドを自由に移動できるんですか?」

「できると思います。エージェントのパラメーターを適切に設定する必要がありますが」

「ふぅん」

「最終的には、コピーした意識をニューイ本体の意識として実装したいんです。ニューイが自ら意識を生み出す可能性は低そうですから、その方が現実的だと思うんです」

「じゃあコピーされた意識がニューイとして現実世界を探索して、小説を書くこともできるんですね」

「夢がありますよね」

「夢みたいですね。本当に」

 所在なさげに呟かれた宮本さんの言葉は、春風に乗ってひらひらと舞い上がり、天へと消えていった。


 次の日の朝、目が覚めると僕のスマートフォンに業務メールが届いていた。宮本さんからだった。

「備品室に来て」

 送信日時は一時間前の午前四時。こんな時間に、どうしてそんなメッセージを送ったのだろう。僕は胸騒ぎがしてならなかった。身支度もそこそこに、僕は車に飛び乗り、自動運転AIに、急いで研究所へ向かうように伝えた。出勤の道のりがこんなにも遠いと感じたのは初めてだった。

 研究所に到着した僕は、玄関口から入ろうとした。しかしまだ誰も出勤していないらしく、オートロックがかかったままだった。走って裏口へ回り、セキュリティカードで中へ入る。息も絶え絶えになりながら二階の備品室へとまっすぐに向かった。ドアをノックするが、返事がない。

「宮本さん? 来ましたけど」

 ドアを開けると視界に入ったのは、ソファの上に横たわった宮本さんだった。頭にスキャナを装着しており、コンピュータのディスプレイには「スキャン完了」の文字が煌々と輝いていた。

 僕は慌てて宮本さんに駆け寄り、肩を叩く。

「宮本さん? 聞こえてますか?」

 応答は無い。手首の脈を測る。拍動がない。もうその手から温もりは失われていた。

 僕はコンピュータへ駆け寄り、すがるような思いでキーボードを叩いた。無駄だった。宮本さんの意識データ、約9000TBがストレージに保存されていた。

 僕は現実に起きていることが理解できなかった。

 ふと気が付くと、ディスプレイの縁には僕宛の付箋が貼られていた。そこには一言、「旅に出たい」と書かれていた。

 どうして、宮本さんはそんなことをしてしまったのだろう。僕が教えてしまったせいだ。僕がこんな馬鹿げたおもちゃのことを教えなければ、宮本さんがこんな行動を取ることはなかった。しかし後悔しても、あとの祭りである。僕は自分の甘さを恥じた。

 だが、もはや時は戻せない。しばらくすれば、他の所員たちが続々と出勤してくるだろう。警察も来るはずだ。きっと宮本さんの意識データは警察に押収されてしまうに違いない。

「旅に出たい」

 その願いを叶えることが、僕にできるただひとつの償いだった。

 ニューイの中で旅をしながら生き続けてくれたなら。

 そう祈りながら、僕はイメージスペースを起動して、人型のエージェントに宮本さんの意識を適用した。正常に動作するか分からなかったが、それを検証している余裕はなかった。それからすぐにニューイ全二十機を荷台に乗せて、急いで駐車場へと運んだ。幸い、誰にも見つかることはなかった。

 東の空が白んでいる。春の夜が明けようとしていた。潮風が柔らかく辺りを包み込む。

 僕は広い駐車場の真ん中に立ち、震える指先でニューイたちの電源を入れ、制御ユニットの蓋を閉じた。ニューイたちは問題なく起動して、膝の高さほどまで浮かび上がった。続けて自律探索モードへ変更。十分後には自動的に検証モードから本番モードへ移行し、外部からのリモート接続は受け付けなくなる。そうなれば、彼らは晴れて完全な自由の身を手に入れるのだ。

 品川の穏やかな海風を受けながら、ニューイたちは天高く、思い思いの方角へと姿を消していった。

 さらば。また会う日まで。

 旅立ちを見届けてから、僕は車に乗った。まだ終わりではない。助手席に一台、ニューイが鎮座している。僕の新作を楽しみにしている人が、この世に一人だけいるのだ。あいにく僕は筆が早くない。この配達人には、もうしばらく僕のわがままに付き合ってもらうことにしよう。

 目的地を設定すると、自動運転車は音もなく静かに走り出した。

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