あなたは恋をしている
神崎閼果利
あなたは恋をしている
「ミナコってさ、どんな人がタイプ?」
あなたは私を丸い目で見つめると、何回か瞬いてから、ストローから口を離した。
ぶわり、風が吹くと、あなたの長い黒髪が靡く。それに合わせて、白いカーテンが翻った。その向こうからは野球部が大声を出しているのが聞こえてくる。
橙の日差しに当てられて、あなたは眩しそうに目を細める。それから頬杖をついて、レモンティーのパックをくるくると回した。
「えー、恋バナ?」
「うん、気になって」
「うーん……まぁ、イケメンと結婚したいよね」
「どんなイケメンが良い?」
訊くねぇ、と言って、あなたは私にストローを向けた。黒く丸い目が右下に向けられて、惑うように泳ぐ。それからあなたは、組んだ足を揺らして答えた。
「えー、優しくて」
「優しくて」
「料理とか上手で」
「料理上手で」
「あとイケメン」
「やっぱイケメンは大事なんだ」
「めっちゃ大事」
あなたがドヤ顔で言うものだから、私は思わず吹き出してしまった。
私が腹を抱えて笑っていると、あなたは少し身を乗り出してにやりと微笑んだ──今度はあんたの番、と言って。
「私? 私は……」
あなたはじっとラブラドライトの目で私を見る。夕日が入って、ほんの少しきらんと光っていた。
私は少し考えるような素振りをしていたと思う。あなたはそんな私を待ちきれなかったのか、口を尖らせて身を反らした。
「ほーら、あんただって答えられないじゃん」
「いや、私にもタイプくらいあるよ」
「じゃあ言ってみなよ」
私が指を折り始めれば、あなたもそれにつられて指折りを始めた。
「顔が良くて」
「やっぱ顔の良さは大事じゃん」
「大事かも。あと、運動が得意で」
「あーね」
「優しくて」
「優しいのも大事だよね」
「浮気しない人」
「あー、大事。全然考えてなかった」
あなたは手を打つと、私のことを指して、さすがだねぇ、と言った。細い腕にしているデジタル時計は三時を指していた。
私がふと、あなたの足元に視線を向ければ、あなたは椅子の間にテニスラケットをひょいと寄せた。私が少し眉を寄せて尋ねると、あなたは肩を竦めて鼻で笑う。
「部活は?」
「サボっちゃった。つまんないし」
「マジか……」
「そういうあんたはどうなの? 美術部あるんじゃないの?」
「あそこ、参加自由だから。好きなものを描いて良いって感じの」
「へー。いいなー、私も入ろうかな」
「……でもミナコ、絵描くの下手じゃん」
「下手じゃないしー! ってか結構気にしてるんだけど!」
あなたはむっとした顔でそう言い返した。あなたが、だいたい、と何か文句を言おうとしたところで、机の上にあったスマートフォンが振動した。
開いてみれば、そこには友人からの通知が。あなたは、うげ、と言って顔を顰めた。
「顧問が怒ってるってー。行ってこようかな」
「そっちのほうがいいよ」
「じゃ、また明日!」
あなたは慌ててテニスラケットを背負い、廊下へと駆けていく。エアコンのあった室内から出ると、むわっと顔に蒸気がかかる。あなたはそんな湿気にうんざりしながらも、走って部活動に向かったのだった。
◆
あなたはそのあと、部活動に遅刻してきた罰として十周走らされた。顧問がねちっこく叱責するのを、慣れた様子で聞き流して、部活動へと向かう。その途中で、あなたは思わず足を止めた。ある男子生徒とばったり出くわしたからだ。
すらっとした体つきに、爽やかな塩顔。ミナコ、と声をかけられれば、あなたの心臓がどきんと早く動いた。
「お、お疲れ様です、マサキ先輩!」
「また部活サボってたの?」
「えー、あー、えっと……」
「明日はちゃんと来るんだよ」
「はい、ちゃんと来ます!」
それじゃ、と言って去っていく背中を目で追ってるうちに、あなたは何を考えているかよく分からなくなってしまった。話したい言葉も出てこないし、「こう見せたい」という願望もどこかに行ってしまった。
あなたは、とにかく頭が真っ白になっていたのだろう。顧問の先生に後ろから怒鳴られるまで、その場で立ち尽くしていた。しかし、はっと我に返ると、ぎゅっとラケットを握りしめて、長い黒髪をポニーテールにして、練習に戻っていった。
「カエデ先輩、お願いします!」
いつもより明瞭な声で先輩を呼べば、カエデ先輩は苦笑してボールを出した。
「なに、今日なんか良いことあったの?」
「まぁ、ありました」
「珍しいね、ミナコが頑張ってんの」
「いつも頑張ってますよー!」
カエデ先輩は、ほんとに、と言ってから、ボールを打ち返す。
もちろん、カエデ先輩の言うとおりだった。あなたはテニス部に所属しているけれど、あまり勤勉な生徒ではない。それはあなたも自覚していた。
けれども、マサキ先輩の前では良いところを見せたくなってしまうのだった。
どきどきした思いをラケットに乗せて、すぱん、と振り抜く。真っ直ぐな軌道でボールが飛んでいく。きらん、と、烏羽玉の黒い瞳が輝いた。
◆
けれども、そんな日々は長くは続かなかった。
私は知っていた、マサキ先輩にはすでに好きな人がいると。でも、あなたは知らなかった。
夕日の差し込む教室、黒い二つの影、楽しそうなお喋り。その片方があなたが好きだった人だと分かったとき、あなたは胸が締まるような思いになった。
そのまま夕日がふたりを呑み込んでしまえ。そうでもしないと、雲がかったあなたの心が、晴れないような気がしたからだ。
あなたは熟れた恋をそのまま腐らせようとして、止めた。最初こそ出くわした悲劇に心を病んでしまいそうになったけれど、すぐに持ち直した。たくさんの言い訳を心の中で言った。
だって、同い年じゃないし。だって、部活ちゃんと来てなかったし。だって、関わりが少なかったし。
だから、仕方ないや。
あなたの心はまだ曇天の中にあった。もうすぐ雨が降ってしまいそうな、薄暗い雲の下にいた。降り出してしまえば、きっとあなたは泣き崩れてしまっていただろう。
あなたはぐっとスマートフォンを握って、ある人に連絡を送った。
──今から会えない?
その「ある人」が、私だった。
好きだった人がいた教室から降りていって、あなたがいつも私と話している教室へと向かう。その足取りは鉛のようだった。一方で気持ちは焦っていて、もっと速く、もっと速く、と足を動かそうとしていた。
曇天の下に、あなたは傘を差す人を見つける。教室では、私が一人たそがれていた。
あなたは私を目で捉えると、何も言わずに近づいてきて、私の対面に座った。そして、大きな溜め息を吐いて、机に身を投げ出した。
「どうしたの、ミナコ」
「……失恋しちゃった……」
「そうだったんだ」
「って、あんた私が片思いしてたって知ってたの?」
「知ってた。バレバレだよ」
そっかぁ、と言ってあなたは項垂れた。机に広がる黒い髪を指でなぞって、目を細める。
「慰めてよ」
「慰める……うーん」
「友達が失恋してんだよ、慰めてくれたっていいじゃん」
「……マサキ先輩、料理下手だよ」
「は?」
慰めとは全く別方向から話が来て、あなたは困惑した。私は少し俯いたまま、口元に微笑みをたたえて続けた。
「クラスのお調子者だから優しくもないし、あとお金も無い」
「それは言い過ぎ」
「マサキ先輩のことは先輩だから好きだったんだよ。タイプの人じゃないよ」
あなたは私に傘を差し出されたような気持ちになった。曇り空が泣きじゃくって、あなたの目からも涙が降る。あなたが泣き濡れてしまわぬように、私はあなたの背中に手を当てた。
そうだよね、とあなたは何度か繰り返した。そうだよね、私、何も知らないもんね。あなたがぽつぽつと降らす言葉に、私は一人頷いていた。
確かに私の言うことは正しかった。でもそれだけで、あなたが心を掴まれたことを否定することはできなかった。なおもあなたは、マサキ先輩のことが好きで仕方が無かった。
「……料理下手なところ、見てみたかったなぁ」
そう言うとあなたは、ふふ、と、少し幼い顔で笑った。
「まだ好きでもいいよね、別に」
「いいんじゃない、迷惑かけないなら」
「ありがと。あんたに聞いてもらえなかったらめちゃめちゃ嫉妬してたかも」
「それは良かった」
私たちにとっては、あの橙の空は夕立だった。私たちは傘を差して帰ろう。誰にも言えない恋を秘めて、あなたは今日も気丈に振る舞うのだ。
帰る前に、ふと、あなたは私のスクールバッグを見た。そこには、昔あなたが作った不細工で小さなぬいぐるみが付いていた。
「なにそれ、まだ付けてるの?」
「当たり前じゃん。可愛いよ、結構」
「可愛くないって」
笑い合う二人のバッグでは、お揃いのぬいぐるみが談笑するように揺れていた。
◆
漆黒を零したような空に、人々の織り成すビルの光が灯っていく。そんな光景を見ながら、私は小さく息を吐いた。
あなたはもう部活動が終わって帰ってしまっているから、あなたはここにはいない。あなたは私がここにいることを知らない。
物だらけの美術室の中で、ぽつんと一つ、完成されたキャンバスが立っている。描かれた黒い髪に触ってみれば、指の先に黒鉛がつく。描かれた顔に自分の顔を寄せれば、心地よい芯の匂いがする。
まあるい黒目に、長い黒髪。白い肌に、細い手。決して端正ではないけれど、溌剌とした笑顔。
私の描くキャンバスには、あなたが描かれている。あなたはそのことを知らない。
あなたは何も知らない。私はあなたの全てを知っている。
スクールバッグについている、不細工で小さなぬいぐるみにそっと手を伸ばして、頭を撫でた。
「好きだよ、ミナコ。ずっとずっと前から……」
私なら、料理も上手だし、私なら、心の底から優しいのに。
あなたはこの恋を知らない。誰もこの恋を知らない。知っているのは、私だけ。
あなたは恋をしている 神崎閼果利 @as-conductor
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