第19話 堕天
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なにが、起きた?
僕の目の前に立つ燐が、こちらを――僕の背後を見て驚愕に目を見開いている。
「カ……ズ……?」
「つかさ……」
恐る恐る振り返り、つかさを見る。
つかさは生気のない瞳で僕を見ていた。腹部には不自然に斜めの線が入っていて、そこを押さえている両腕は……右腕は肘から先が、左腕は指先が……すでに地に落ちている。
え?
嘘だ。
そんなハズはない。
僕は過去を変えたんだ。
だから――。
「あ――」
しかし、無情にも僕の目の前でつかさの上半身が落ちる。
「うわあああああぁぁぁぁぁっ!」
恐怖に駆られて彼女に駆け寄る。
無意識に天使の力を行使したのか、それとも単にそう見えただけなのか、つかさの腹部から上がゆっくりと落ちていき、僕は彼女が落下する前に抱き留めた。
「つかさ、つかさ。嘘だ、嘘だ……」
僕は目の前で見せつけられる悪夢に、気が狂いそうに……いや、ほとんど狂っているようなものじゃないか?
「カズ……」
「ああ、ああ。つかさ……」
異常なまでに軽い彼女の身体を抱え、彼女の名を呼ぶ。下半身があったはずの場所からは内蔵がこぼれだし、おぞましいほどの血液が流れていく。生暖かい血液が僕を濡らし、鉄さびや酸っぱさなんかが混じった不快な匂いが鼻につく。
「つかさ。つかさ……」
かき抱く彼女の身体が急速に冷えていくのが分かる。
視界が紅く染まる。
周囲の瓦礫が浮き上がる。
だけど、そんなことどうでもいい。
つかさが。つかさが――。
「カ……ズ……?」
つかさが左腕をあげ、指の欠けた手のひらで僕のほほをなでる。
「カズは……へーき……?」
「ああ。僕は、僕は……どこも」
彼女の手をにぎり、なんとかそれだけの言葉をしぼり出す。
僕のたったそれだけの言葉でも、つかさはふっとほほ笑みを浮かべた。
「……よかった。でも、あたし、は――」
声はほとんど音になっていなかった。
こふ、と弱々しくせき込み、彼女の口元から血がこぼれる。
「しゃ、しゃべるな。すぐに……」
ふるえる声でそう告げるが、つかさは聞こえているのかいないのか、言葉を続けようとする。僕は一言も聞き漏らすまいと、彼女の口元に耳を寄せた。
「カズ。和彦は……あたしの分も……生きて、よね。だいす――」
僕の手の中からつかさの左手がこぼれ落ちる。
全身から力が失われ、腕が、首がくたりと垂れる。
開いたままの瞳からは光が失われ、気づけば身体の熱もほとんど失われていた。
僕の制服はつかさの血で赤茶けた色に染まっていた。
「嘘、だろ。なんだよ、それ……」
僕は成し遂げたはずなのに。
運命を変えたはずなのに。
つかさの命を……救ったはずなのに。
なんでこんなことになるんだよ。
なんで、なんで……。
紅い視界の中、周囲の空間が歪む。
空中にいくつもの紅い幾何学模様の魔法陣が瞬き、紅い視界の中であってもなお漆黒の球体が複数現れる。それは僕を主星とする衛星のように、周囲をゆったりと旋回し始める。
「和彦さん!」
燐の声がするけれど、反応できない。
周囲に浮かんでいた瓦礫は、出現した漆黒の球体――極小ブラックホール――に吸い込まれていく。
僕やつかさの髪も浮き上がり、彼女の血液も、僕の身体さえも浮かびあがる。
「和彦さん!」
「……」
僕の周囲を旋回する極小ブラックホールの隙間を抜け、いつの間にか燐が目の前に立っていた。
瞳を紅く輝かせ、そこから涙を流して。
「……和彦さんを、そちら側へは行かせません。狂気に堕ちるのは……私だけで十分です……!」
瞬間、紅い世界に異質な感覚が混じる。
燐の空間制御か。意志の力、なんて言ってもいい。
だけど、そんなこともどうでもいい。
もう一つ、新たな感覚が現れる。あれは……頭上の轟銀の暴走か。
暴走――そうか。
紅の世界を見ている僕は、もしかして暴走しかけているのか……?
そんな疑問が頭をよぎる。
そういうことかもしれない。でも、それならそれでいい。それがどうしたっていうんだ。
つかさを救えなかったのに、生きてたって――。
「和彦さん! ついさっきのつかささんの言葉を、もう忘れたんですか?」
燐の悲鳴にも似た叫びに、僕はつかさの最期の言葉を思い出す。
――カズ。和彦は……あたしの分も……生きて、よね――。
「……ッ!」
がつん、と頭を殴られたような衝撃。
そうだ。
つかさの望みまでも無駄にはできない。
「うあ、あああ……」
そう思いはしたものの、すでにコントロールが利かなかった。周囲を旋回する極小ブラックホールはその旋回速度を次第に上げ、瓦礫を吸い込み、切り落とされたつかさの右腕や指先さえも宙に浮かせる。
「させません」
燐が僕に手を伸ばし、その瞳をさらに紅く輝かせる。
「暴走なんて……させませんから!」
紅の空間に燐の意志が満ちる。
僕の意志を……僕の紅い世界に干渉する力を抑え込んでいく。
燐の力が強くなるほどに僕の力は弱まり、視界の色も紅から蒼へと変遷していく。
紅い世界へと干渉できなくなると同時に、周囲を旋回する極小ブラックホールが次々と蒸発。吸い込まれずに残っていた瓦礫はバラバラと落下し、つかさを抱えた僕もゆっくりと降下して地面に足をつける。
蒼い視界に戻り、僕はまばたきして更に視界を戻す。
視界が三次元空間へと収束する。
そのままがくりと膝をつく。
「……」
「……和彦さん。つかささんの、目を……」
「……。……そう、だな」
言われて、僕はつかさのまぶたに触れる。
……その行為は、彼女の死を認める行為のようで、やるにはかなりの勇気が必要だった。が、逆にやらないという行為もまた彼女を侮辱しているような気もしてしまっていた。
ふるえる指先で、冷たくなったつかさのまぶたを閉じてやる。
「……」
「和彦さん……!」
燐の声に、顔を上げる。僕の顔を見た燐は、一瞬硬直する。
……僕はどれだけひどい表情をしてるんだろうか。
「……和彦さん。和彦さんは、その……未来から来たんですね?」
「ああ……」
「でしたら――」
口をつぐみ、上を見上げる燐。燐が何に気づいたのかを察する。天使の力が消えたのだ。つまり、過去の僕と轟銀との決着がついたということ。
「――和彦さん。時間がありません。きっと……今の和彦さんがすぐにここにやって来ます。それまでには離れないと……」
「……」
燐の言っていることがその通りだと、なんとなく理解できていた。けれど、どうしても身体が動こうとしなかった。死んでしまったつかさと離れることが……ある意味では僕が殺してしまったとさえ言えるつかさを放置していくことが、どうにも受け入れられなかった。
「和彦さん。どうか……お願いです」
燐も、すでに涙声だった。
「でも……だけど……」
自分でも、なんの意味もなさない反論だと思いはした。けど、分かっていても離れがたかった。
燐が手を伸ばし、僕の手の甲をにぎる。
そっと、しかししっかりとした力をこめて、僕の手をつかさから引き離す。
「……」
「ごめんなさい、和彦さん……」
自分からは動けないというのが、僕にできる最低限のそれでいて必死の抵抗だった。
燐は僕の腕の中のつかさを抱き抱え、優しく横たえると僕を立ち上がらせる。
「さあ、早く……行ってください……」
燐に押されるまま、つかさから離れる。
向こうでがしゃり、と瓦礫が音をたてる。一人の男子生徒がやって来たようだった。
燐が改めてつかさを抱えたところで、彼女はその男子生徒の姿に気づく。
「ふぁっ! か、和彦さん!」
彼――過去の自分自身は呆然とつかさと燐を見ていて、燐のすぐそばで立ち尽くしている未来の僕には気づきもしない。
「……」
彼は絶望的な顔をして、ほとんどよろめくのと変わらないしぐさで、なんとか一歩踏み出す。
「なん、で……」
一歩一歩が苦行であるかのように、近づくことを恐れるかのように歩を進める。
「和彦さん。……つかささん、つかささんが……」
燐が涙声で彼に声をかける。
「ウソ……だろ……?」
そこまで言って彼がくずおれ、つかさの血が跳ねる。
震える手でつかさの手をとる姿を、僕は棒立ちのまま眺めていた。
「つかさ」
どこか聞きなれない自分自身の声に気持ち悪さを感じる。
「……」
目の前の光景は……なにもかもがあの時と――僕が、あの場所でつかさの死を知った時と――同じだった。
確かに、あの時の僕はつかさと燐に気をとられ、その場に未来の自分がいるだなんて気づきもしなかった。
でも、だからどうだっていうんだ。
あの時、すぐそこにもう一人の僕がいることに気づき……それが未来の自分だと知ったとして、つかさの死を変えられたのだろうか。
「……」
過去を変えられたのだと思っていた。
つかさを救ったと思っていた。
とんだ勘違いだった。
僕は燐がいつか言っていた通りに、つかさの死を二度経験することになってしまった。
つかさと燐の前で、泣くこともできずにうちひしがれた僕の姿に、僕は無力感にさいなまれながら、黙ってその場を後にするしかなかった。
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