第13話 移動


13

「なっ!」

 僕はあわてて飛び退く。

 燐の瞳から放たれる紅い光。

 思い出すのは、銀と対峙したときの光景。

 銀の瞳が蒼から紅へと侵食されていく姿だ。

 銀のコントロールも、止めようとする僕の力も及ばず、紅い魔方陣がデタラメに開き、制御を失った“炎の剣”が放たれて周囲に猛威を振るった。

 紅い光は、天使が暴走する証だ。

 反射的に意識を集中。

 瞳を紅く輝かせる燐を見ながら、僕は蒼の世界へと意識を拡張させる。

 三次元の世界が四次元空間へと広がり、いままで見えていた世界が薄っぺらく感じられ、いままで見えていなかった空間の深さが認識できるようになる。

「燐、落ち――」

「――和彦さん。大丈夫ですよ、私は」

 燐は落ち着いた様子で穏やかなほほ笑みを浮かべる。

「けど……でも、この色は……」

 暴走、しているわけじゃ……ない?

「大丈夫ですから。ほら」

 困惑する僕の手を、彼女がとる。

 こわばっている様子もなく、いつもの柔らかな彼女の手のひらだ。こわばっているのはむしろ、僕の方だ。

「私にも理屈は分かっていないのですけれど……ただ、私は天使の力が覚醒してからずっと、この紅い世界しか見えないんです」

「そう、なのか」

「はい。和彦さんや沃太郎兄さまの蒼の世界を見てみようとしたことは何度もあるのですけれど、どうしてもこちらしか……。ですがその代わり、私は紅い光だからとコントロールが利かなくなったこともないんです」

「それなら……いいけどな」

 銀が暴走している光景を目の前で見せられた僕には、いまいち納得いかないのだが、事実燐は落ち着いていて、取り乱したりなにかに耐えている様子はない。

 とりあえず大丈夫という言葉を信じることにして、僕は視界を元に戻す。

「それでは、開きますね」

 燐は吹き抜けの中央に向かって両手を掲げ、意識を集中させる。

 視界が元に戻っていても、吹き抜けの中央の空間が渦を巻くような力に満ち溢れているのがわかった。

 波打ち、揺らめく紅い光がきらめき、空間の真ん中で紅い魔法陣が展開。それは蒼の魔法陣とは似ても似つかない、幾何学模様じみた魔法陣だった。

 それは、吹き抜けに収まらない――直径十五メートルか、もしかしたら二十メートルはありそうなほどの、巨大な魔法陣。

 魔法陣はすぐにかき消え、中心から空間が波紋を広げるように波打つ。そのまま空間に漆黒の染みとしか形容できないなにかが現れた。

 あれがワームホール、か。

「……」

 僕は無言で意識を集中。瞳を再度蒼く輝かせ、突然の事態に備える。

 なにもなければいいが、備えるに越したことはない。

「近い時間と場所を探します。少し……時間がかかるかもしれません」

 ワームホールに手をかざして、表情を消し……どこか超然とした面持ちで燐がつぶやく。

「焦る必要はない。確実な場所を探してくれ」

「はい」

 ワームホールが目線の高さまで降りてくると、せいぜい五十センチメートルほどだったその漆黒は、人が通り抜けられる二メートルくらいに拡大する。

 その色合いは漆黒から姿を変え始め、色を変え、揺らめき、きらめき、変遷を続ける。

「……」

 それからしばらく……五分、十分経過したはずだが、一向にワームホールの光景が安定する様子はない。

 二ヶ月前の地震直前の神稜地区に行ければいい。たったそれだけの……ことのように感じるのだが。

「落ち着け、和彦君」

 僕の様子に見かねてか、珪介さんが僕の肩を叩いてそう告げる。

「分かっているつもりなんですけど……どうしても」

「ま、気持ちは分からんでもないよ。時間と場所が分かってるはずなのに、手間取ってるな、って思っちまうのも。……でもな、時間と場所が分かっているのってどういうことを指すと思う?」

 少し含みを持たせた言い方をする珪介さん。

「? そりゃ、今回なら二ヶ月前で……場所は神稜地区の辺りってことですけど。他に……なにもないですよね?」

「そう簡単にいかねーと思うぜ、これはさ」

「え?」

「相対性理論。名前くらいは聞いたことあるだろ?」

「まあ、それくらいなら」

「もう百年以上前に発表された理論だ。今じゃ古典であり、現代物理学の基礎だな。これを簡単に言うなら、時間と空間が同種のものであることを証明した理論と言える。また、光と重力の性質を理屈立てて説明できたものでもある」

 時間と空間が同種?

 光と重力の性質?

 僕にはなにがなにやらさっぱりの話だ。

「そんな顔すんなよ。俺も専門家じゃねぇし、そういうのを説明できる理論ってこった。で、だ。この理論の中で俺たちにとって重要なのは、時間も空間も、重力や相対的な速度によって“伸び縮みする”ってことだ」

「伸び縮み?」

「聞いたことねーか? 重力が強ければ強いほど時間の進みは遅くなるし、空間も歪んでしまう」

 ああ……聞いたことがある。それに二ヶ月前のあのとき、僕が銀の“炎の剣”を曲げたりできたのは、他でもない重力の力だ。

「同時に速度でも伸び縮みする。一般に時間は光速に近づけば近づくほどに遅くなり、光速になればその流れは止まる。物質が光速を越えた速度に達することはできない」

 珪介さんが解説している間も、燐のワームホールは未だ変遷を続けていて、安定する様子を見せない。

「地球は二十四時間で一回転の自転をしていて、それは地表では時速一七百キロメートル近い速度になる。そして太陽の周りを回る公転速度は時速十万七千キロメートルにもなる。太陽系もまた公転していて、天の川銀河内を移動する速度は時速八十六万キロメートルだ。天の川銀河自体もそれを越える速度で動いているし、天の川銀河を含む銀河団や、さらに大きなグループも他の重力の影響なんかで移動を続けている。宇宙そのものも膨張しているしな」

「はぁ」

 スケールのでかすぎる宇宙の話に、想像がつかない。

「……なあ、和彦君」

「なんでしょう?」

「そうなると……二ヶ月前の高校ってのは……正確にはいつの、どこになる?」

「それは……」

 答えようとして口ごもる。

 そこまで言われてようやく、珪介さんの言いたいことを察せられるようになったからだ。

「俺たちがここに一時間いたとして、地球上のスケールじゃ確かに移動してねーけど、宇宙のスケールで見れば地球の公転速度と太陽系の公転速度を足した八十六万キロメートルか、おそらくそれ以上の距離を移動していることになる。さらにその速度と重力の影響で、“一時間”という時間の長ささえ一定ではない」

 その通りだ。

 地球上での“同じ場所”というのはあくまで僕らの理屈であって、物理学的には……というかワームホールに僕らの理屈が通用するとは思えない。そんな感覚で同じ場所に繋がるわけがないのだ。

「その上で、燐は地球上での二ヶ月前の高校を探し出そうとしている。ここからすぐ隣の敷地じゃなく、何十億キロメートル離れた場所で、かつ、俺たちからすれば二ヶ月と三日と十時間半だが、正確に何時間前なのかどれほどズレがあるかもハッキリしない状況で。……簡単な話じゃねーハズだ」

「そう、ですね」

 反論の余地なんてなかった。

 時間がかかって当たり前……か。

「でもま、物理学には詳しくなっといた方がいいぜ。一般相対性理論とか量子力学とかな。この……天使の力の根幹に関わる理論だからな」

「そうみたいですね……」

 五条さんと山崎さんも研究を手伝ってくれと言っていた。天使の力を科学的に解明しようとしている二人と同じ道に進むなら、相対性理論や量子力学は必須科目……というか、最低限理解しておかなければならないものだろう。

 そう考えを巡らせてからさらに十分もたった頃、ようやくワームホールに変化が現れた。

「もう少し……です」

 どこか超然とした表情の燐が、静かに告げる。

 ワームホールを見ると、変遷がようやく安定し始め、漆黒の中に浮かぶ光の集団が見えてきていた。

 それはすぐにクローズアップし、そのうちの光のひとつへ。近づくと、きらめく光の渦を形成しているのがわかる。

 実際に見たことなんてないけれど、そのイメージ画像はよく知っている。

 天の川銀河だ。

 渦の途中の腕の部分へ。

 光の粒のひとつ、その周囲を回る青い星へと拡大。その星は衛星をひとつ従えている。

 ……太陽系の地球と、その衛星である月だ。映像は地球へと近づき、そのまま大気圏内へ。

 雲をかき分け、上空から急降下し――。

「ここが……限界です」

 燐がかすれ声で告げる。

 ワームホールの向こうに広がるのは、どこかの建物の裏手みたいだった。

「一時間……は、保たないよな」

 ここに繋げるだけで三十分はかかっている。そう思ったが、燐は意外にもほほ笑んでみせる。

「大丈夫です。一時間は必ず、開いておきます」

「本当に大丈夫なんだな?」

「はい」

 僕の念押しに答える燐は、無理をしているようには見えない。

「信じてやれ。あいつは無理はしねーよ」

「そうですね。……じゃあ、行ってくるよ」

 僕は珪介さんと並び、目の前のワームホールに近づく。

 不定形のワームホール――時空の扉に、手の届くほどの至近距離までやってきて、恐る恐る手を伸ばす。

「そのまま通り抜けて……大丈夫だよな?」

「はい。ちょっと不快な感覚があるかもしれませんが、それ以上のことはないはずです。今後のためにも……お早めに」

「そうだな。燐、頼んだぞ」

「分かりました。あの……和彦さん?」

「ん?」

 急に不安そうな声を出す燐に、僕は振り返る。燐は瞳を紅く輝かせたまま、どこか悲しげなほほ笑みを浮かべていた。

「向こうの私のことは……気にしないでください。つかささんのことを第一に考えてくださいね」

「? あ、ああ……」

「和彦君。さっさと行くぜ。時間に余裕があるかどうかもわかんねーんだ」

 珪介さんに急かされ、燐の言葉の意味を深く考える間もなく僕はワームホールに足を踏み入れた。


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