第1話 焼香


01

 僕、葉巻和彦は焼香のための香炉を前にしたまま、眼前に飾られた写真を見上げて立ち尽くしていた。

 二つの装飾過多な額ぶちに、二枚の写真。それを取り囲むように、下にはたくさんの花で埋め尽くされていた。

 見慣れた二人の笑顔をそれぞれ正面に写した、明るい――けれど悲しい――写真。

 一人は同い年で、当時はまだ十五歳。今では……十六歳になっているはずの少女。

 ショートカットの栗色の髪に、そばかすの浮いた顔。つり目がちの瞳と、穏やかというよりも勝ち気な男らしい笑みが、彼女の性格をよく表している。

 もう一人は四十代半ばの男性。

 意志の強そうなつり目は、やっぱり遺伝なんだなと思わせる。生え際はやや後退を始めていたのだが、彼自身よく「なに言ってる、まだ全然変わってないだろ」と言っていた。まだ、と言うところを指摘すると、しばらく怒っていたものだ。

「……」

 家族、と言うことにためらう必要のない二人“だった”。

 ついさっき、二人に近しい者の代表として弔辞を述べたときはこんな風にはならなかった。ただ、事前にしたためておいた文章を淡々と読むだけで……なんなら、あまり記憶にも残っていないくらいで。

「……和彦、さん」

 横にいた三峯燐に、着なれていないスーツの裾を引っ張られ、僕は我に返る。

 僕がスーツを着ているのと同様、燐はブラックフォーマルのワンピースを着ていた。

 燐は感情を抑え、僕の一歩後ろで寄り添うように立ってくれている。

 彼女がいなかったら……いつまでぼうっとしていたかわからない。

「ごめん」

「いえ……」

 焼香を済ませて台を回り込み……二つの細長い長方形の木の箱に近づく。

 長方形の上面、その奥側には両方とも小さな窓がついていて、その箱の中を見ることができるようになっている。

 足が止まる。

 その中を見るのが、恐ろしかった。

 わかっていたはずだった。

 もっと前から、その事実を知っていたし、思い知らされてもいたのだから。

 打ちひしがれて、涙を流して……受け入れたつもりになっていた。

 ……なのに。

 なのに、足が前に進まない。

 見てしまうのが怖い。

 天原つかさと、その父、天原翔。

 二人が死んだのだということを、受け入れて……認めてしまうことが許せなくて。

 それがどうしようもないことだとわかっていても。

「和彦さん。見てあげて……下さい」

「……」

 背後へと振り返り、燐と、その向こうで焼香をしている友人を見て、僕は意を決して歩みを進める。

 長方形の木の箱――棺の小窓から、それぞれの顔が見えた。

 ――思っていたよりも綺麗な顔をしている、というのが初めに思ったことだった。

 死化粧なんて見るのは初めてだった。

 ただ静かに眠っているだけのような、白い肌。あいつ、そはかすばっかりだったクセに、こんなに綺麗になっちまって。

 脳裏に焼き付いているのは、瓦礫やホコリで汚れ、血に濡れた顔。思い返してみれば、僕はつかさが事切れるその瞬間を見ていない。屋上から落下したあと、彼女のもとにたどり着いた時にはすでに瞳を閉じて表情をなくしていた。

 つかさを殺したのは轟銀。

 その轟銀を殺したのは、僕。

 それは地震のゴタゴタのお陰で露見していないが、それでも間違いなく僕の罪だ。

 ……。

 ……。

 ……。

 それ以上考えるのをやめて、隣の棺に視線を移す。

 天原翔、つかさの父親。

 つかさと同じで表情豊かだったはずなのに、そこに見える顔は一切の表情を消して瞳を閉じ、もうそれだけで別人みたいに見えた。

 おじさんのことは、建設現場で働いている、ということ以外は実はあまりよく知らない。

 昼も夜も働いていたし、そのせいかたまに家にいたときもほとんど寝ていた。

 それでもつかさの父親と言うべきか、少しの会話でも腹がよじれるほど面白い話をしてくれたりして、誰と仲良くなるにも五分もいらないような人だった。

 父親なんて母さんが離婚して以来一度も会っていないけれど、きっと父親がいたらこんな感じだったのかな、なんてよく考えたりしたものだ。恥ずかしくて、おじさんにもつかさにも言ったことなんてなかったけれど。

 ……今となっては、それも言っておけば良かったなんて考えてしまう。

 後悔先に立たずっていうのは、本当にその通りなんだなって思う。

 ……そういえば、おじさんはつかさが誰かを連れてきたときに「お前に娘はやれん!」と言ってやるのが夢だとよく語っていた。

 そんな話になる度、つかさの母、まきさんが「連れてくるのが和くんだったらどうするの?」と笑った。

 おじさんは渋い顔をして「カズは結構しっかりしてるし、家事も一通りこなせるからポイント高いよなぁ……いや、でもそうすると俺の夢が!」とかなり真剣に悩んでいた。つかさが「なに言ってんのパパ! そんなことないから!」と必死に否定するのもお約束だった。

 今では懐かしい思い出で……そして、二度と見ることが叶わないやり取り。

 二人は、死んでしまったのだから。

「……」

 二人を前に僕はただ立ち尽くし、戻ってきてパイプ椅子に座り直すだけでもずいぶんな時間がかかってしまった。

 呆然としたまま、燐に連れられて席につく。

 そこは近親者の席で……喪主の隣だった。

 本来なら僕が座るところではないけれど、本人たっての希望だったので、断るなんてできなかった。

 隣に座る喪主――黒いヴェールのついた小さな帽子を頭に載せたまきさんが、僕の肩に手をかける。

「ありがとう。和くんが来てくれて、つかさもあの人も……二人とも喜んでるはずよ」

 まきさんは取り乱すことなく、ハッとしてしまうほどに優しい笑みを浮かべていた。

「……いえ」

 その、僕よりもつらいはずの人が、僕に気を遣ってくれているという事実に……僕は我に返る。

 僕は、この天原家の一員みたいなものだった。

 つかさは同い年なのにお姉さんぶってくる姉妹だったし、おじさんは僕にとっての父親像そのままだった。

 まきさんは僕に料理を教えてくれて、なんというか……つかさの母親という以上のものがある。料理の師匠とも言えるし、単純に“もう一人の母親”という表現が一番しっくりくる。

 なのに……なぜだろう。

 他の人たちが言うのならともかく、天原家の一員であるはずの僕でさえも、まきさんが“一人になってしまった”のだと、そう考えてしまう。

 天原家からつかさとおじさんがいなくなって……そして、僕ももうここにはいられないのかもしれないと思っているのだろうか。

 僕も天原家から離れていくんだなんて考えているから、まきさんが一人になってしまったなんて思ってしまうんだろうか。

「……」

 罪悪感でいっぱいだった。

 そんな風に考えてしまうのが、まきさんを裏切っているみたいに思えて。

 二人の葬儀が終わるまで、僕は動くこともしゃべることもできず、ただ無言で二人の遺影と棺を見つめていた。


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