三保の松原

増田朋美

三保の松原

もう梅雨も明けるかなと思われる。はれの日が増えてきた。そうなると、暑い夏がまたやってくるということになるが、多分きっと今年も暑いなという人が続出するのだろう。まあ、暑い日は、エアコンが欠かせなくなるのだが、そういうときに限って、なにか大変なことが起きてしまうのである。

その日、杉ちゃんとジョチさんは、三保にいた。なんでも、三保でイベントが開かれるらしく、そこで講演してくれと頼まれたのだ。テーマは、これからの福祉と女性の話らしいのだが、ちょっと、主催者の意図が、製鉄所の意図ちょっと違っていたため、イベントでの出演は断って、せっかく三保へ着たので、海でも眺めていくか、と、杉ちゃんたちは、三保の松原に行った。その日は平日であったので、あまり、人はいなかった。せいぜい、写真をとっているお年寄りがいるだけのことであった。

「おい!なんだか琴みたいな音がするんだけど?」

と、杉ちゃんはいきなり言った。

「そうですねえ。」

海をながめながら、ジョチさんがそういう。

「ここで、ストリートライブでもしてんのかな?」

と、杉ちゃんが言うと、海の音に混じって、琴のような不思議な音が聞こえてきた。なんだか、海の音とうまく調和したような、不思議な音だった。

「ちょっと、からかってやろう。」

杉ちゃんは、急いで遊歩道を戻り始めた。どこへ行くんですか、とジョチさんは、その後を追いかけた。

「あ、あそこに人がいるぞ。あそこの松の木の下だ。」

と、杉ちゃんが言った。確かに、松の木の下で、レジャーシートを敷いて、なにか楽器を弾いている人がいた。レジャーシートに、椅子をおき、足に楽器を挟んで、両手で弦を弾いている。楽器は、直角三角形の、大きなハープのような楽器で、そこに、弦が張ってあって、それを両手で弾いているのだった。

「おう、箜篌じゃないか!」

と、杉ちゃんは、楽器を弾いている男性に言った。男性は、演奏を止めて、杉ちゃんの方を見た。

「いやあ、珍しい楽器を弾くもんだな。なんかアマチュアの雅楽バンドにでもいたか。それで、今日は、その練習か?それとも別の目的で、楽器を弾いているのかな?」

男性は、びっくりしてしまって、思わず、楽器を倒しそうになった。

「ああ、驚かなくても大丈夫ですよ。僕達は、ただ、箜篌という珍しい楽器を弾くのが楽しそうだったので、ちょっとお尋ねしたかっただけです。」

と、ジョチさんがそう言うと、

「ああ、ああ、すみません。」

と、彼は言った。

「いいんだよ、すみませんなんて、言わないで。それでさ、お前さんは、箜篌という楽器に何で出会ったわけ?どこか音楽学校でも出たのかい?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「ええ、音大は出ていません。ただ、昔は、ピアノをやっていたんですけど、事情でピアノが弾けなくなってしまって、それで、兄が箜篌を弾いたらどうかって、言ってくれたんです。」

と、彼は答えた。

「はあ、お兄さんが。それでは、変わった趣味を持っている方なんでしょうか?お兄さんが、どうして、箜篌という楽器を持ってきたんですか知りたいところですね。」

とジョチさんがそう言うと、

「ええ、邦楽とか、雅楽は、やるものが少ないから、ピアノで何もできなくても、そういう楽器であれば、まだなんとか音楽業界に残れるって、兄が言ったんです。」

と、彼は答えた。

「ああ、そうですか。確かに、雅楽愛好者は年寄りばかりで、あなたのような若い方はなかなか見かけません。ずっと続けていってくださいね。きっと将来、音楽は、なにかの役に立つのではないかと思います。」

ジョチさんはにこやかに笑ってそう言うと、

「つきましては、箜篌というのは、典型的な雅楽用の楽器ですし、ジャージ姿ではなくて、着物を入手したほうがいいのではありませんか?和楽器をやるのなら、着物は必要になりますよ。」

と、付け加えた。

「ああ、ありがとうございます。でも、着物は、入手するのも大変だし。」

彼がそう言うと、

「いや、それはありません。リサイクルで入手すれば、500円とかで入手できますよ。それは、僕が保証します。この近くにリサイクル着物屋があったら、行ってみてください。」

と、杉ちゃんが言うと、彼はびっくりした顔をした。

「ええ、間違いありません。着物は、500円とか、1000円で、入手が可能です。インターネットの通信販売でも入手できますよ。それは、大丈夫です。帯や小物などをあわせても、一万円をこすことはありませんから、安心して買いに行ってください。」

ジョチさんがそう言うと、

「そうだねえ。今は暑いから、絽とか、夏塩沢みたいなそういうブランド物がいいよ。ぜひ、今度は着物を着て、箜篌を弾いてください。」

と、杉ちゃんが、にこやかに言った。

「ありがとうございます。じゃあ、そのうち、リサイクル着物屋というところを訪れるかもしれません。やっと、こうして外に出られるようになったばかりなのです。それで、もっと足を伸ばすことができたら、家族も喜ぶと思います。」

と彼が言うのであれば、もしかしたら、なにかわけがあるのかと思った。何か重大なわけがあったのだろうか?

「そうですか。なにか重大な病気でもしたのか?やっとこうして外へ出られるようになったというし、ピアノではなく邦楽のほうが、居場所があるなんて発言するんだから。」

「ええ、ちょっと、体調を崩してしまって、何年か療養していました。その間に、ピアノは弾けなくなったけど、箜篌を始めて。それで、こうして、外へ出られるようにまでなって。」

にこやかに笑う彼に、杉ちゃんは、

「お前さんの名前何ていうんだ?もし、着物屋に来てくれるんだったら、いいものを紹介してやるから、連絡先でも教えてくれないかな?」

と彼に聞く。彼は少し考えて、

「はい、名前は八尋和美。電話番号は、こちらです。」

と言って、手帳を取り出し、1ページをとって、自分の名前と電話番号を書いた。

「ありがとうございます。八尋和美さん。八尋というと、ちょっと聞いたことのある名前ですが、お兄さんは、もしかしたら、八尋和夫さんではありませんか?」

と、ジョチさんが聞く。

「ええ。確かに、八尋和夫ですが、どうしてそれを、前もって知っているんです?」

と、和美さんが答えると、

「ええ、昔、八尋和夫さんと、イベントでご一緒したことがあるんです。それだけですけどね。」

と、ジョチさんは答えた。

「兄と、何をしたのでしょうか?」

和美さんがそうきくと、

「はい。以前、主催した福祉の広場というイベントで、企画をしたときに、八尋さんと一緒になったことがありました。でも、さすが、弟さんのことをよく考えているんですね。ピアノで不自由になったことから、和楽器をやろうなんて、そんなこと、簡単には提案できませんよ。」

ジョチさんは、にこやかに言った。

「ありがとうございます。兄に、それは、お話しておきたいと思います。きっと兄も、喜んでくれるのではないかと思います。それでは、兄に伝えておきますから、お二人の名前を教えていただけますか?」

和美さんがそういうので、

「はい。僕は杉ちゃんで、影山杉三ね。こっちは、親友の、ジョチさんこと、曾我正輝さんだよ。住所は、静岡県富士市。ここから、電車で30分くらいかな。」

と、杉ちゃんが、自己紹介した。

「ありがとうございます。影山杉三さんと、曾我正輝さん。よろしくおねがいします。」

和美さんは、丁寧に頭を下げた。バカに丁寧だなと杉ちゃんもさんも不思議な気持ちになった。よろしければ連絡先をというので、ジョチさんも杉ちゃんも、それぞれのスマートフォンの番号を言った。和美さんは、すぐそれを手帳に書いた。一度番号を言っただけで、すぐ書いてしまうことができるなんて、記憶力が優れているなと思った。

「ありがとうございました。リサイクルきもの店を見つけたら、お礼に電話します。ありがとうございます。よろしくおねがいします。」

にこやかに笑って、そういうことを言う彼は、なんだか、ちょっと普通の人とは違っているような、そんな気がしてしまうのであった。もしかしたら、この穏やかな笑顔というのも、障害のある人だからこそ、できるのではないかと思ってしまうのであった。

その時、12時の鐘がなった。

「ああ、もうこんな時間ですね。杉ちゃん富士市に戻らないと。それでは、今日はこれで失礼しますが、もし、着物屋を見つけたときは、ご連絡くださいね。それでは、僕達は、失礼します。」

と、ジョチさんがそう言って、杉ちゃんの車椅子を動かした。和美さんは、頭を下げて、二人が、三保の松原をあとにするのを見送った。

「しかし、音楽していると、ほんとに世界が狭くなるんですね。全く、八尋和夫の弟さんだったとは。確かに、彼もそう言っていました。弟さんが音楽学校に行ったって。」

電車の中で、ジョチさんは、ちょっと嫌そうに言った。

「当時は、なんで弟自慢するんだと、変なふうに思っていましたが、まあ、ああいうきれいすぎる心を持っている人であれば、そうなってしまいますよね。」

「そうかあ。意外な人物だったわけか。」

杉ちゃんがそう言うと、ジョチさんは苦笑いした。

「ええ。全くです。あのなんでも強引にやってしまうような人物が、あのような優しい弟さんを持っているのか、わかりませんでした。」

「本当だねえ。箜篌なんて珍しいよ、男がハープを弾くなんてさ。ありえない話でもあるよねえ。」

二人は電車の中で、そういうことを言いあっていた。

それから、数日後。誰かが、製鉄所を訪ねてきた。ちょうど、水穂さんの世話をしているところだった杉ちゃんが、玄関先へ行って応答した。

「はいはい。一体誰なんだよ。」

と、杉ちゃんが、玄関の引き戸を開けると、そこに立っていたのは、八尋和美さんだった。

「こんにちは。リサイクルの着物屋が、静岡にいい店がなくて、結局富士に来てしまいました。電車に乗るのも怖いかなと思っていましたが、着物を買いに行くんだという意思で、乗ることができました。」

明るい顔をして彼は言った。

「はあなるほど。つまりパニック障害でも持ってたのか。まあいい。そういうやつは、きっと、意思を変えることでなんぼでもできるからな。よし、入れ。」

と、杉ちゃんが言うと、彼は、はいお邪魔しますと言って、製鉄所の中に入った。

「おーい、こないだの箜篌奏者が来たぜ。着物を買いに来たんだって!」

杉ちゃんは、和美さんを、四畳半に入れた。ちょうど、布団に座っていた水穂さんが、はじめまして、よろしくおねがいします、彼に、頭を下げた。

和美さんも、自分の名前を名乗り、水穂さんに頭を下げる。ちょうどその時、壁にかかっている柱時計が、1時を打った。それと同時に、

「こんにちは、竹村優紀です。クリスタルボウルのセッションに参りました。」

と、竹村さんの声がした。杉ちゃんがまたそうか、クリスタルボウルの日だったと言って、急いで玄関先に向かう。誰か、セッションを受けている方はいますか?と和美さんが聞くと、水穂さんは、定期的に来てくれているんですと、答えた。

「今日は、スペシャルゲストがいるよ。箜篌奏者の八尋和美さんだよ。」

と、杉ちゃんがそう言いながら、竹村さんと一緒に戻ってきた。竹村さんは、台車を動かしながら、四畳半にやってきた。そして、急いで重たいクリスタルボウルを、縁側のうえにおき、

「それでは、演奏を始めましょう。」

と言って、竹村さんはマレットをとった。ゴーン、ガーン、ギーン、お寺の梵鐘のような、素敵な音。これであれば、緊張がすぐにほぐれていくんだと思う。竹村さんは、それを緩める時間と言っているが、このクリスタルボウルの音を聞いていると、他の事を考えることができなくなるため、自動的に、ぼーっとなってしまうのである。

「はい、終了ですよ。皆さんお楽しみいただけましたでしょうかね。」

竹村さんがマレットを置くと、皆、丁寧に拍手した。そして水穂さんが、

「ありがとうございます。」

と、頭を下げた。そして、セッションの料金である、3000円を、竹村さんに渡した。

「じゃあ、また来週来ますので、よろしくおねがいします。今日は一人、クライエントさんが増えてくださったんですね。またよろしくおねがいしますね。」

竹村さんは、和美さんにそう言って目配せした。

「いえ、クリスタルボウルなるものは初めて聞きましたが、とても素敵な音でした。これからも、聞かせていただきたく存じます。」

と、和美さんが言うと、

「いえいえ、こちらこそ。何でも杉ちゃんから聞きましたが、箜篌という珍しい楽器をやってらっしゃるんですね。それはとても素晴らしいことではないですか。これからも頑張って演奏してください。」

と、竹村さんはにこやかに笑って答えた。

「そうだ!いっそのこと、コラボしちゃったらどう?竹村さんのクリスタルボウルにあわせて、お前さんも箜篌を演奏する。それで二人で合同セッションということにしたら?それなら、竹村さんも、和美さんも、お互いの居場所が持てて、一石二鳥じゃないか。」

いきなり杉ちゃんがそういうことを言い出した。杉ちゃんという人は、時々そうやって突飛なことを言い出す癖がある。和美さんは、そんな事を言われて、

「でも、僕にできますかね。」

と言ってしまうのであった。

「そんな事、やってみなければわからないじゃないか。とにかくさ、一度、クリスタルボウルと箜篌の合同コンサートなんか開いちゃいなよ。事前学習として、箜篌はどんな楽器か、動画サイトにアップしておくといいかもしれないね。それでさ、クリスタルボウルと同じ様に、心を癒やしてくれる音色なのを知ってもらって、コンサートを開いたら、最高だと思うぜ。」

杉ちゃんは、どんどんどんどん話を持っていってしまうのだが、このときは、水穂さんも、それを止めなかった。

「僕もそれはいいと思いますね。古楽器とヒーリング音楽の組み合わせはよくありますし、箜篌という楽器は、まずはじめに、大変めずらしい楽器ですから、それに飛びつく人が出るでしょう。それはピアノ何かでは、全然味わえない特権です。」

水穂さんもそういうのだった。

「お二人でよく話し合って、内容を決めてください。」

「そうですね。他の楽器とのコラボレーションは久しぶりです。楽しくやっていきましょう。」

竹村さんが、にこやかに笑って、和美さんに握手を求めた。和美さんは、よろしくおねがいしますと言って、頭を下げた。

一方その頃。ジョチさんは、製鉄所からは少し離れたところにある、喫茶店で、ある人物と話していた。

「なんですか。いきなり呼び出したりして。なにか用事でもあるんでしょうか?」

話している相手は、八尋和美さんのお兄さんである八尋和夫さんだった。でも、なんだか和美さんのような、純粋で美しいところはドコモなさそうな顔だった。

「ええ、先日、和美が、あなたにご迷惑をかけたと思うんですが、その謝礼をお支払いに参りました。申し訳ありません。和美は、精神疾患というか、ちょっと障害のようなものがあるんです。近いうちに精神障害者手帳を取らせるつもりですが、それで、少し収まってくれればいいと思うんですけどね。」

そういう和夫はどこか、企みがあるような、そんな言い方だった。

「一体何を企んでいるんです?和美さんをどこかへ追放するおつもりですか?」

ジョチさんがそうきくと、

「正しくそのとおりです。これ以上、家の会社を潰すようなマネはしないでもらわないといけませんのでね。和美は、母の法事のときに、突然怖いといって暴れだし、お寺の方にも、大変申し訳無いことをしてしまいました。二度とそんなことをさせないように、楽器とかやらせているんですが、何も改善されることがない。それではいけませんから、ちゃんと、ここから、追い出して、医療機関などに預けなければ。」

と、和夫さんは言った。

「私だって被害者なんです。和美が、電車にも乗れなくて、車で送り届けてやらなければならなくなりましたし、何よりも和美自信が治そうという気がしていない。自分のことだけで精一杯で、世の中に何も貢献もできない男を、家の中に置いておくわけにはいきませんからね。それに、和美を置いておいたら、家の家の面目丸つぶれだ。それでは行けないから、どこか自然のある施設にでも預けようと思っています。」

「そうでしょうか。」

と、ジョチさんは、和夫さんに言った。もしかしたら、こういう言葉は、和夫さんには届かないかもしれないと思ったがとにかく人間である以上は、伝えて置かなければだめなのではないかと思ったのだ。

「和美さんは、立派な箜篌奏者です。あなた、和美さんがピアノが弾けなくなったときに、箜篌をやれと指示したそうですね。それで、和美さんはそのとおりにした。先日、僕が三保を訪れたとき、聞かせていただきましたけど、素晴らしい演奏でもありましたよ。確かに、多少精神障害のようなものはあるのかもしれないけど、それは、車椅子に乗っているのと同じだと思って、和美さんのことを、もっと大事にしてやってください。」

伝えることは伝えたけれど、和夫さんに伝わっているかどうか不詳だった。でも、答えは、この態度で見事に出ているなと、ジョチさんは思った。「ええ、それはわかってます。ですから私は、弟に、一生懸命接してきましたよ。でも、無理なものは無理なんです。もうああいう人間は現実世界から切り離してやることこそ、一番ラクになれるのではないかと思うのです。それが、兄としての私の勤めだと思います。和美にとってもダラダラと家族のそばにいさせるよりも、施設に入って、自立させたほうが、よほど良いのではないかと思うんです。」

「わかりました。」

とジョチさんは言った。そして、和美さんが現世に帰って来ることは二度と無いだろうなと思いながら、

「和美さんは少なくとも、箜篌の才能は持っていると思います。それに、彼はお兄さんが箜篌という楽器で居場所を作ってくれたことに感謝しているようです。」

と、事実だけ伝えておいた。






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三保の松原 増田朋美 @masubuchi4996

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