コイのキューピッドは語らない
みこも祭
コイのキューピッドは語らない
あたしは、内緒の恋を知っている。
「さて、まずは復習もかねて誰かに読んでもらうか。そうだな、今日は十二月三日だから、まず十二番の金田、三番の池田、九番の遠藤、それから……」
英語の前田先生が当てていくと、非難の叫びが上がった。
「やっぱ俺か!」
「先生、マジで安易すぎ!」
「なんでアタシなの? 今日、九入ってないじゃん!」
「十二引く三の九だ」
「何それ意味分かんない!」
「人生、引き算も大事だぞ。あと……今は二時二十五分か。二十七番の藤井」
「ひゃ、ふぁ、ふひゃい!」
あたしの前に座っている響ちゃんは、好きな人に名前を呼ばれて思いっきり噛んだ。
あまりに見事な噛みっぷりに、笑い声が起こる。
「しゃ、しゃっくり! しゃっくりが出そうなの!」
響ちゃんは、叫ぶように言った。
たぶん、顔は真っ赤になっているはず。
可愛いなあ、とは思うけど、気をつけないと誰かにバレちゃうよ。前田先生のことを好きなこと、誰にも言ってないんでしょ。
「笑っていいのは、しゃっくりしたことない奴だけだぞ」
前田先生の声は大きくない。けれど、どれだけ生徒が騒いでいても、その低い声は教室中によく通る。
ピシリとした響きに、笑っていた生徒たちが黙った。
「藤井、水飲みに行くか?」
前田先生は絶対に気づかないだろうな。
響ちゃんが噛んだのは、
「先生、しゃっくり止めたいなら、ゆっくり息を吸って吐くんだよ」
「そうなのか?」
「前田先生、情報はアップデートしないと」
生徒の指摘に。どっと笑いが起きる。
前田先生は苦笑いするだけだ。自分が笑われることはあまり気にしないらしい。
「分かった、分かった。授業中だぞ、笑うのは授業が終わってからにしろ」
前田先生のこういうおおらかなところは好きだ。
国語の伊藤先生だと「生意気なことを言うな」ってすぐに怒鳴る。なので生徒からの人気はない。あたしも、うるさい伊藤先生のことは嫌いだけど。
「藤井、本当に大丈夫か?」
「だっ、大丈夫です。もう止まりました」
「そうか? じゃあまずは金田から。あ、座ったままでいいぞ」
不満そうな顔をしながらも、金田くんは英語の教科書を読みはじめた。
池田くんが読んで、遠藤さんが続く。最後の響ちゃんは、何度も噛んだり、間違えたりで、クラスメイトは笑うどころか、心配そうだった。前田先生には、また水を飲みに行くかと尋ねられた。
英語の成績、学年トップクラスだもんね。前田先生のために頑張ってきたんだけど。
ところで響ちゃん、気づいたかな。
響ちゃんが噛んだとき、みんなは笑ってたけど、二つ隣の席の山田くんだけ、笑わなかったんだよ。
ずっと心配そうに響ちゃんのこと、見てたんだけど。
◆
放課後、教室に誰もいなくなると、響ちゃんはあたしの前にやってきて、こう言った。
「どうしたら、好きじゃいられなくなるんだろう」
響ちゃんが前田先生のことが好きだと打ち明けてくれたのは、中学一年生の十二月だった。
九月のある日の休み時間、たまたま裏庭を通ったら前田先生が池のほとりに立って、鯉に餌を上げていたらしい。
前田先生は響ちゃんに気がつくと、太陽のような眩しい笑顔で『藤井もやってみるか?』と鯉の餌を少し渡してくれたという。
その手の温かさと笑顔に、響ちゃんは『この人が好き』と思ったという。
『わたし、高校生になったら前田先生に告白しようと思うんだ』
そして今年。二年生になったばかりの頃、響ちゃんは頬を桜色に染めて宣言した。
卒業まで待つのは、中学生のあいだだと、ふざけていると思われそうだから。それと、下手をしたら前田先生が《問題教師》になってしまうからだという。
意外に冷静だな、というのがあたしの感想。だって、響ちゃんは猪突猛進なところがあるから。
あたしは先生に告白して、振られた子も知っている。だから高校生になるで待つ、という響ちゃんの判断は、とりあえず正解だと思う。高校生だって、問題らしいけど。
でも、正直言って驚いた。
前田先生は十四歳も歳上だし、顔は肖像画の源頼朝に似ている。
まあ、社会に出ちゃえば年齢差はたいした問題じゃないはずだけど。
でも今から考えると、それはフラグとかいうやつだったんだろう。
それから少しして、響ちゃんの決意はあっさりと壊れてしまった。
次の春、前田先生は結婚する。そして、前田『先生』じゃなくなる。
前田先生の婚約者は、老舗旅館の一人娘。先生は婿養子になって、その旅館を継ぐという。源頼朝顔だから、スーツやジャージより着物のほうが似合うとは思うけど。
つまり、響ちゃんが高校生になる前に、前田先生はいなくなってしまうのだ。
「どうしたらいいんだろ」
スン、と小さく響ちゃんは鼻をすすった。
響ちゃんは笑顔の似合う女の子だ。
だから、どうにかしてあげたい。でも、どうすることもできない。
力になれなくてごめんね、と心の中で謝るのが精一杯だった。
◆
さて、今日のあたしの前には山田くんがいる。
響ちゃんに恋している男の子は、ため息混じりに言った。
「藤井って、好きな奴いんのかな?」
うん、いますよ。
あなたが入っている生物部の顧問の先生で、英語の担当の先生です。
言えないけど。
はあ、と山田くんはそれはそれは深いため息を吐いた。
恋する女の子のイジイジ、ウジウジは可愛いけど、恋する男の子のイジイジ、ウジウジはうっとうしい。
中学生でも男だろ、バシッて行けよって思うの。まあこんな考え、今の世の中だとジェンダーとかそんなんで非難の的かな。
でも、響ちゃんの第一志望の高校は女子高だ。
だから、山田くんはどうしたって同じ高校には行けない。中学生のあいだに頑張るしかないと思うんだよね。
挨拶とちょっとした会話だけじゃ、「中学校のときのクラスメイトの男子」で終わってしまうぞ。
山田くんは良い子だ。
大きな声を出さないし、ドタバタと走り回ったりもしない。生き物にも優しい。
響ちゃんが噛んだときも、一人だけ笑わなかったけど、噛んだのが響ちゃんじゃなくても山田くんは笑わなかったはずだ。
あたしは、袖まくりをした山田くんの腕を眺めながら考えた。
彼だって、優しいじゃないか、と。
◆
国語の上野先生は、催眠のスキル持ちだと誰かかが言っていた。二年後に定年退職を迎える上野先生は、ゆっくり話すから眠くなるのだそう。
上野先生の授業を聞きながら、あたしは響ちゃんと山田くんの背中を見つめた。
二人の間に座る高橋くんは、お休みだ。
あたしはほんの少しだけ、山田くんの味方をすることにした。
こういうの、小さな親切、大きなお世話っていうのかな。
でも、そんなのあたしには関係ないわ。
あたしは思いっきり大きく体を動かした。
バシャン、と水が跳ねる。
「え、何?」
「ちょっと! 水!」
すぐに動いたのは山田くんだった。袖をまくって、床に倒れているあたしを水槽に戻してくれる。
「どうしたんだよ、お前」
この中学校では、池で飼っている鯉とは他に、各クラスで鯉を一匹ずつ飼っている。
あたしは、その中の一匹だ。この中学校で飼われるようになって十九年。かなりの古株だ。
「水槽が狭いのかな?」
響ちゃんが雑巾で床を拭く。ごめんね、迷惑かけちゃって。
「かもしれない。新しいのにしてもらえないか、先生に聞いてみるよーーお前、もうちょっとおとなしくしててくれよ」
二度とやらないよ。
苦しいし、痛いし、苦しいし。
恋のキューピッドなんてもうこりごり。
そもそも、あたしはお淑やかなレディなの。
こんなことしたのは、あなたたたちのせいなんですからね。
まあ、あたしが水槽の中で口をパクパクさせても、伝わるわけがない。
代わりに尾びれを大きく動かした。
「無事で良かったよな」
山田くんが響ちゃんに笑いかける。前田先生の笑顔を、響ちゃんは太陽だと言った。山田くんの笑顔は、静かな月のようだ。力強さはないけど、安心できる。
「う、うん。そうだね」
少しだけ頬を赤くして響ちゃんは頷いた。
あたしの親切はうまくいきそうだ。
席に戻った二人の背中を眺めながら、あたしはもう一度尾びれを振った。
コイのキューピッドは語らない みこも祭 @utage_2
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