第5話 グラティア

 白い世界。眩く生暖かい空気に包まれながらロマンを胸に……


「物語世界で俺は――」

「何言ってるんですか。早く起きてください」


 声に従い瞳を開けると白い世界、もとい建物に反射した日光が楼を照らす。そして重なる影には見覚えがあった。


「おう、茜。ここがそうか?」

「おう、なんて言ってないで起きてください……そうですよ。ここが私の世界でいう池袋、グラティアのなかです」

「池袋? ここが?」


 寝転がっている地面から体を起こして見る世界は現実とはまるで違っていた。


 現実では倒壊しているだけのビルが、高層ビルとしての形を作り、数え切れないほどの窓が光を反射して地面を照り付ける。地面もまた人工的に整備され、滲む暑さを持つ黒い地面はアスファルト、俺の座るそれはコンクリートだろうか。


 行き交う人々はここから見えるだけで街の人口は越えるだろう。

 ――こんなにも人間っているものなのか。


 しかし、明らかに荒廃する前にあった日本の都市風景と言えよう。

 ロマンに満ち溢れた世界。何もかもが豊かな世界。そう俺の瞳には映った。

 ある一点を除いて……


 街の中心にそびえ立つ円柱はどのビルよりも高く、不可解なことに深淵から生えている。それから伸びた漆黒の無機物はビルに纏うよう装飾されていた。


「あれは何だよ」


 あの深淵に落ちてしまえば戻ってくることなどまずできまい。それにも関わらず、都市の中心にあることが不可解なのだ。

 そしてあれは間違いなく――


「バベルです」

「……物語だからか」

「そういう事なんでしょうね」

 茜は、ひそかに目を伏せる。


 理由を察することは容易かった。茜にとってはこの世界が現実なのだ。そもそも自分の存在が物語の存在だと認識できることは当たり前じゃない。


「悪い……茜の現実なのにな」

 きょとんと眼を見開く茜。何かに気付いたように口を開く。


「なるほど、確かに私にとっては現実ですが、気にしてたわけじゃありませんよ。信じてもらえないかもしれませんが、案外受け止められるものです」

「でもさっきの顔は……」

「あー、楼さんには詳しく話してませんでしたね」


 辺りを見渡し俺の手を掴んで行く先は人気が少ない場所。いわゆる路地裏だ。

 湿り気のある空気と汚れのある壁。俺にとっては、あまりに不快で仕方ないが、そこではなければいけない理由があった。


 そこからバベルを眺めて茜は話す。

「前にも一度話しましたが、この世界には異能があります。この本の題名でもあって、この世界でグラティアと呼ばれるあれです」


 茜が会って早々俺に突きつけてきたやつのことだろう。硝子の剣を生み出す能力はまさしく魔法、いや、異能と言えた。あんなもの忘れられるわけがない。


「脅してきたやつだな」

「うぅ、そうですよ。意地悪しないでください」


 茜は後ろめたいようで視線を逸らし、頬を膨らませお怒りポーズを取る。

 嫌味を言ったつもりはないのだが、茜は謝るまで話を続けないようで――


「もう言わないから、続けてくれ」

「もぉー、じゃあ続けますよ。グラティアの話です。そう、そのグラティアは人工的に作られたものでした」

「誰かが作ったって言うことか?」

「ええ、意図して作られ、意図しない結果を生み出しました。能力に差があったから、それは感情に差を生みましたが、争いが起こった一番の原因は人工的だったからです」

「人工的じゃなければ争いは無かったと?」

「おそらく」


 なぜ人工的だと争いが生まれるんだ。


 聞いた話をまとめると、意図してグラティアを作ったが、人工的であるがゆえに争いが生まれた。つまり、人工的ならではの問題があったということか。


 だとすれば、その原因は……いや、まさか――


「人工的に能力を消せるのか」

 茜は首肯して俯く。


「だから異能を不要とする人々は能力を消すことを政府に推し進めたものの、これに反対する人間がいたら成り立たない話だったのです」

「無能力は無力だから……」


 つまり、能力が与えられた時点で対立と争いは必至だったんじゃないか。いや、でもこの話の通りなら能力の消去は無理な話だと誰でもわかるはず。本当に消そうとするなら、それはつまり――


「まさか、能力者の殺害が目的になったとは言わないよな?」

「残念ながら、その通りです」


 最悪だ。こうまで悪循環が続くなんて誰が考えられただろうか。いや、そもそもここまで考えられていないのに人工的に能力の付与があったことがおかしいのだ。


「第一どうやって能力を」

「それをしたのがバベルです。あの塔の最上階。そこにある集団拡散機。あれが全ての始まりでした。そして今でもあるそれを拠点とするのが元化派(げんかは)。つまり私達の敵対派閥。能力を非とする派閥です」


 茜が見つめるバベル。その天辺にはそびえ立つ塔のようなものが見える。それがそうなのかはわからない。しかし、あの塔こそが茜の敵。物語として最期を迎える場所なのだと作家として気づかざるを得なかった。


 争いなど無ければこの世界は現実と違い、輝かしくロマン溢れる世界だったのだろう。しかし、話を聞いてしまったから今やこの世界は荒んだようにしか見えなくなった。


「まあ、この世界のことは何となく理解してもらったと思うので、こんなところ離れて、安全な場所に行きましょう」


 意図して冷静を取り繕っているように見える茜は、物哀しい影を引いて歩み出す。


 俺としても路地裏にいたおかげで、気持ちまで沈んでしまった。一刻も早く、ここから離れて、綺麗なところに行きたいのは俺も同じ。正直ジメジメしていて清掃のされていないこの場は気持ちが悪くなるばかりだ。


 そんな刹那だった。


「いたぞ。あいつだ」


 路地を出てすぐのこと。背後から聞こえる声と足音は無駄に騒がしい。

 茜の瞳にも焦りと迷いがあるのがわかる。おそらく、俺がいるから。


「仕方ないですね。楼さん、私は約束を破らない女です」


 覚悟に切り替わった熱を帯びるその言葉。

 それをすぐに理解した俺は情けないながらも後退して、茜に答える。


「任せた」


 茜は力強く頷き、覇気を持って叫ぶ。


〈〈グラティア‼〉〉


 相手と同時に起動された能力は硝子の剣。透き通り、日の光を浴びたそれは持ち主のように鮮やかで、脆さと強さの両方を兼ね備えていることが一目で理解できた。


 敵の数は五名。対して一人の茜に不安を覚え、楼の拳に力が入る。

 だが、それも杞憂であった。


「うあああ」

「そんなに無茶苦茶では話にもなりませんね」


 相手の能力は石、風、紙といったところ。それに加え肉体的に強度を調節できるのか盾となる敵が一人。壁を走り、身軽にジャンプする敵が一人と各々の能力を一斉に茜へぶつけている。


 しかし、俺のような素人目にでもわかる。数は負けてはいるものの、連携さえ取れていない相手を茜がいなすことは簡単だってことか。


 茜の攻撃は一人ひとり的確に与えられ、舞を舞っているようで実力差は明白。

 敵の顔に苛立ちが浮かび始め息を切らしながら、さらに単調な攻撃を繰り返す。


 彼らとの間には実力的な差があることはこれを見てわかるものの、それ以前に彼らの能力と茜の能力は攻撃スピードも柔軟性も、強度すら圧倒的な差があるように見えた。


 これがこの世界の能力格差。こんなんじゃ能力を認められないってのも頷ける。今まで積み重ねたものがあるのに、こんな能力で否定されたら認められないよな。たぶん能力付与前に頑張ってた奴ほどそう思うに違いない。


「ふぅ、終わりました。早く逃げましょう」


 茜の背後に倒れる五人は血の一つすら流していない。これは茜が意図してしたのだろう。茜の信条が殺害じゃないからという理由で。


「これなら俺も死なずに済みそうだな」

「だから言ったじゃないですか。私が守るって」


 先ほどまでの真剣さはなく、陽気で可愛げのある茜に戻っていた。


「おう、信じてる……ッ‼ 危ない」


 茜の信条は優しさとも言えた。だから彼らはそれに付け込む。


 背後を狙い紙のナイフを突き刺そうと走る。

 それに俺は飛び込んだ。


 守られる俺がなぜ動いたのか、わからない。

 だが、咄嗟に動いた俺の手には何かが握られていた。なぜ何かという表現かというと、ただの棒だったから。そして、先端から眼に見えない、質量もない何かが伸びている。それを何とか視認できたのは糸のような縁だけ見えたから。見えなくても、そこにあるのだ。だから振り被った。しかし透明ならすり抜けることも考慮するべきで――


「クソッ」

 その棒は男の体に命中するはずが、空を斬っただけに終わる。


 だが何も成さなかったわけではない。一瞬の戸惑いが茜に時間を与え――

「はあああ」


 彼は地に付した。血を流さず、数多の見覚えある紙と共に。

 それに目もくれず、俺に飛び込む茜。


「大丈夫ですか!」

 体のあちこちを調べてくれる分には構わないのだが、当然怪我など無い。


「大丈夫だよ。それより茜こそ大丈夫か」

「私は慣れっこなので大丈夫です……楼さん、それ……」


 指差すそれは楼の握る棒。いや、それに付随する透明の何か。

 攻撃しようにも透明であるが故か、敵の身体をすり抜け何の意味すら持たない。決して武器とは言えない何か。


「俺にもわからない」

 だが、こいつを振り被った時、いや、体をすり抜けた時出てきた紙。それらには見覚えがある。考えたくもないのだが……

 落ちている紙を一枚手に取り確信した。


「こいつ、俺の本をダメにしやがった」

「え? 本?」


 何を言っているかわからないだろう。だが、この紙は明らかに俺が持っていた本の一部。綴られる物語は虫食いになってしまっているが、それには見覚えがあるのだ。


「俺の本だ。家にあったはずなのに。部屋で散らかっているはずなのに。どうしてこいつがこの世界に、バラバラになって出てくるんだあああああ」

 俺の怒りが虚しくこだまする。


 それに目を丸くした茜が俺の口を塞ぐがもう遅い。なんたってこだましてしまっているのだから。


「何してるんですか! そんなことしたらまた追われちゃいますよ!」


 幸い周りの人間の視線を集めるだけで、追われているわけではない。無論人目を集めていることは問題でしかないのだが。


「もぉ、場所を移しますよ。付いてきてください‼」

「お、おう。悪い」

「はい、早く走る!」

「イェスマム‼」


 後頭部への強い衝撃を我慢してがむしゃらに走った。


 なぜか茜はこちらを見てくれない。


 イェスマム……間違っていないはずなのに……

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