第1話 ロマン
「ロマンがない」
楼は真っ黒な原稿用紙から目線を上げ呟く。
見渡す部屋は本棚に台所、ベッドの横に数々のトロフィー、そして一枚の写真。簡素な部屋だが今朝の掃除でほこり一つない出来だ。机に積まれる資料も角にズレすらない。その異常なまでの整頓ぶりを見て満足そうに言う。
「我ながら執筆以外は完璧だな」
ピコンという音。それはボックス型のモニターに通知が表示された音。
執筆以外という言葉を訂正しよう。執筆と仕事以外だ。
「また食料支給カットって、こっちの身にもなってくれよ」
国からの報告を街長に渡す仕事なんてものは楽としか言いようがないだろう。他の住民に比べたら間違いなくそう。
だが、国への当たりは俺に向くんだ。まったく勘弁して欲しい。
執筆にも飽きて本棚の前、そして写真の前に腰を下ろす。
男女二人の写真だ。父さんと、母さん。二人が街に貢献してくれたから、こんな自由にトレーラーハウスで生活できているんだ。二人が今も生きていたら何か違っただろうか。
「父さん、母さん。チカ姉はいつになったら帰ってくるんだろうな」
大小、素材も様々なトロフィーに彫られる名前は『信樂智佳(しがらきちか)』一つだって俺のじゃない。何もかも欠如する現代でトロフィーなんてものをこんなにも持っているのはチカ姉くらいしかいないだろう。
それほどまでに優秀で、街のみんなに必要とされていた。
だから国が必要とした。
国へ勤めにこの街を出ていったんだ。
それを悪いなんて言うつもりもない。ただ、俺の原稿用紙とペン。チカ姉のトロフィー。俺が越えなくちゃいけないものはあまりに高く、輝いている。
楼の顔をトロフィーが歪め、どこか笑われている気がして目を逸らす。
「だから俺はロマンを目指すよ。俺だけのロマンを――」
その時、突如揺れ出す本棚。
「じ、地震ッ……」
倒れないようにと棚を押すようにして固定するが、そこで気づく。
台所の食器は微動だにせず、棚にあるトロフィーも倒れていない。加えて机にあるペンは転がりもしない。
「本棚がこんなにも激しく揺れているってのに……いや、地震じゃない」
端的に言えばタイミングが悪かっただけだろう。
楼は本棚を押えていただけなのだから。
正面を向けば崩れる本棚の元凶、一冊の本だけが、跳ねるよう俺の額にぶつかり……宙で開かれたそれは“人”を吐き出した。
そして、まさか人が出てくるなんて誰が想像できようか。
「あ」
「う、うわあああ」
そうして静寂が訪れる。
俺が潰されることによって――
ふわりと甘い匂いが香る。
「いったぁ」
日差しを浴びた髪色はアイボリー。肩口程までの長さで、毛先まで艶やか。透き通る程きめ細やかな乳白色の肌に、伸びた鼻梁は繊細な美貌を形作る。長い睫毛の下には大きな翠の双眸を隠し、桜の唇は鮮やかだ。
硝子細工のような姿はこの世の者とは思えない。
いや、俺は見ていたじゃないか。彼女が本から飛び出すところを。
俺に馬乗りの彼女は頭をさすりながら、周囲を見渡し、視線を落としやっと気づく。
「あ、あなたは――」
瞬時に状況を把握したのだろう。頬を朱に染めたかと思いきや、今度は乱暴に俺の胸ぐらを掴み、ゼロ距離まで持ち上げ睨みつける。
「あなたは何者ですか」
「それは俺のセリフだ」
〈グラティア〉
名前を言ったと思うだろう。いやしかしこれが違う。なんたって、そのセリフと同時に彼女の左手には、硝子のような剣が握られたのだ。どうやら彼女はお人形ではなく、棘の多い薔薇だったというわけだ。
つまり俺は脅されている。それに抗う理由もなく――
「わかったよ。言うから放してくれ……俺はここに住んで国と街との連絡係している信樂楼だ。別にあんたが心配するような人間じゃねぇよ」
じっと俺の目を見つめる彼女は真偽を見定めているのだろう。
今になって転んでぶつけた臀部が痛くなってきた。しかも部屋は本の雪崩で足の踏み場もない。最悪だ。
というか早く放してほしい。そして離れてほしい。
いまだに潰されていることは彼女の美貌に免じて許そう。首元に据えられている剣もなにやら動揺しているようだからこれも免じよう。だが、押し当てられた柔らかいそれだけは俺を犯罪者足らしめんとするので、どうか今すぐに――
「ひゃっ」
俺の視線で気づいたようで。
「何するんですか‼」
「いや、何もして――」
――ベチン
どうして俺がビンタされるんだよ。
数分置いてやっと落ち着いた彼女は肩身狭そうに正座している。
一応言っておくが、俺がさせたわけじゃない。彼女がしたのだ。
「その……すみませんでした‼」
「もう大丈夫だから、な?」
ビックリして思わずやってしまっただけなんだ。仕方のないことだろう。
すごい音鳴ったけど。
「でも、突然脅して、何もしてないのにビンタまで……」
「本当に大丈夫だから、な?」
何やら事情があるのは察せられたのだ。そんなに気にしないで欲しい。むしろ俺は明らかにロマン溢れていそうな事情が早く聞きたい。
痛かったけど。
「はい……本当にすみませんでした」
楼はワザと適当にあしらい、話を転じさせる。
「それで事情も聞きたいが、その前にあんたの名前教えてくれよ」
「私は
俺の前に置かれる問題の本、『グラティア』という本は読んだことすらない本だった。
だから当然俺も彼女のことを知らない。
「……信じて頂けますでしょうか?」
実際にこの目で見たが、それにしてもいざ本人から聞かされると驚きを隠せない。
何度見ても信じられないほど端麗な容姿。加えて、茜の着る服は必要以上の装飾がついて居る。明らかに現代の人間ではない。
尤も硝子の剣を作り出す“魔法”を見せられた時点で信じるなという方が難しい話だ。
「信じるに決まってるだろ」
実はこんな理由がなくても答えは変わらなかった。
「だって、その方がロマンあるからな」
茜はこの返答が返ってくると予想していたとでも言うように微笑み頷く。
あ、かわい――と、頬けている場合ではない。
「コホン。で、事情があるんだろ? 焦ってた理由がさ」
「はい。私はあなた、いえ、信樂楼さんにお願いがあってきました」
背筋を正す茜。
「私たちの物語を正しい物語にするための助力を、どうかお願いできないでしょうか?」
――もちろん! なんてすぐに言えないよな。
「とりあえず、詳しい話をしてくれるか?」
「当然です。ですがその前に私の物語についてお話しさせていただきます」
茜が語る『グラティア』のあらすじはこうだ。
「グラティアという能力で人類は異能を扱えるようになりました。その異能は人類に新たな価値を与え、神からの恩寵とも言えましたが、異能を否定する人もそれなりにいました。異能としての能力にも差があったからです。だから“現実”……いえ、この世界に類似した“グラティアの世界”における日本では二つの派閥が台頭し、異能を武具として使用するようになります。そして、私の派閥は異能を是とする派閥。結末は誰もが救われる、そんな話になるはずでした」
この本はつまるところ、異能物語だということはわかった。そして恐らく――
「結末が変わったのか?」
「……ええ」
茜の沈む目線は、変わった結末がどれほど深刻なのかを物語るには十分だった。
当然この世界に異能なんてものはなく、確かにその話は物語世界の話だろう。だが、それが分かったとして俺に何ができるというのか、全く見えてこない。
「そもそも、どうして物語は書き変わってしまったんだ?」
「私にも正確にはわかりません。ですが、この物語を改編したその存在を“ワーム”と、呼ぶそうです」
「ワーム? 芋虫が改編したってのか?」
「いえ、これは本の虫からきた言葉だと聞きましたので、芋虫の形をしているかどうかはわかりません。けれども改編した存在はワームで間違いないです」
「なるほどつまり、俺にそのワームを倒せと」
力強く頷く茜。果たしてその明眸は俺の思案を理解した翠なのだろうか。
「それができるのは信樂楼さんだけですので」
「俺だけ……」
――この話にはロマンがある。
物語世界の住民である彼女、茜と交流し、異能までこの目で見た。
退屈はもう懲り懲りだ。
娯楽などないも等しいこの世界に来た茜と冒険すれば、それはきっと――
俺の求めるロマンを直視できるのだろう。
――そんな能力があれば、だが。
「断る」
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