第5話 もういやだ
「はぁっ……はぁっ……」
やっとの思いで、クロエは離れに戻ってきた。
早朝ということもあり、戻るまでに誰にも遭遇しなかった。
中に入るなり机と椅子をドアの前に動かして、外から人が入れないようにする。
全力で走って来たとはいえ普段なら絶対に息切れしないような距離なのに、全身が汗だくだ。
「……生きてる、よね?」
自分の手を恐る恐る確認する。
ちゃんと動いている。
ぷるぷると小刻みに震えているが、青白く不健康な自分の手だ。
そこでようやく、クロエは生の実感を得る事が出来た。
(でも、あの時……)
あと一秒判断が遅れていたら、あのナイフは確実に私を……。
「もういやだ」
ぽつりと、クロエは呟く。
声量に反して、その言葉には力があった。
ずっと押し込めていた様々な感情が、思いが、欲求が、心の奥から湧き上がる。
脳裏を駆け巡る今までの記憶。
痛み、苦しみ、悲しみ、絶望、絶望絶望絶望絶望絶望絶望。
たくさんたくさんたくさん我慢した。
もうたくさんだ。
もう……。
「もうこんな狂った家、いたくない……!!」
クロエは決意する。
この家から、逃げようと。
決めたあとは早かった。
山や森が多い田舎では必需品の、両肩にかけるタイプの大きなバッグに必要なものを詰め込む。
着替え、水、保存の効く食料、寒さを凌ぐための布、火打ち石、最低限の身の回り品、そして、シャーリーから貰った宝物……。
とにかく考えうる限り詰め込んでいく。
クロエの手つきには焦りがあった。
イザベラは普通じゃなかった。
ナイフを抜いたあと、こちらに向かっている可能性が高い。
そう思うと未だに生きた心地がしなかった。
誰か屋敷の人間が、ナイフを手に血走った目で離れに向かうイザベラを止めてくれないか……そんな希望は、じきに打ち砕かれた。
──ドンッ。
鈍い音がしてクロエの心臓が飛び上がる。
音の出所は、ドアの方……。
──ドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッ!!
「〜〜〜〜〜っ!!」
クロエは言葉にならない悲鳴を上げた。
「開けなさい!! 今すぐここを開けなさい!! 開けろぉあぁあああああぁぁぉぉああ!!」
イザベラの怒号が鼓膜を劈(つんざ)く。
未だに鳴り響くドアを乱暴に叩く音と連動して、少しずつ椅子とタンスがずれていっている。
あのドアが破られたら殺される。
そんな恐怖が全身を駆け巡りパニックになりかけたが、脳裏の芯の部分は冷静さを保っていてくれた。
一心不乱に残りの荷物を詰め込む。
最後に、椅子にかけられていた姉のドレス(夜鍋済み)もバッグに詰め込んだ。
今まで散々な目に遭わせてきた姉に対する、ささやかな反抗であった。
クロエは立ち上がる。
途端に、ぴたりとドアを叩く音と怒号が止まった。
舞い降りる、怖いくらいの静寂。
(……諦めた?)
僅かな希望を抱いたその時、バンッと今までとは違う弾けるような音が部屋中に響いた。
びっくりして振り向くと、入り口側のある窓にイザベラの姿が映っており──拳大ほどの石をこちらに振りかぶっていた。
そんなイザベラの憤怒に満ちた瞳と目があった瞬間、クロエは駆け出した。
部屋の奥。
入口から反対の窓を開けて、クロエは身を投げる。
同時に、がっしゃああんっと窓ガラスが割れる音が響き渡った。
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