Chapter1 敗者復活

1-1.異邦

「えっとおぉ……」


 


「…え、は?」


 部屋の扉を開けたら、そこは大自然だった。


「………………………………………………はぁ?」


——なんだ、この、景色は。


 おかしい。

 何がおかしいかと言えば何もかもおかしい。

——いや、だって。

——草原だぜ?

「いやいやいやいや、え、いや、えぇ…」

 翔は混乱から立ち直れない。

 此処は何処いずこか、何故こうなった。

 答えてくれる者は居ない。

 彼の部屋は15階。そのまま地面に出れるわけがない。

 そもそも人の気配が無い。

 抜けるような青空の下、萌える緑が延々と続く。

 瑞々しい草原くさはらには、獣道らしきものが覗くのみ。

 

 こういう時、思考の外のそのまた外を、強烈無比に射抜かれた時。

 翔は二つの対処法を持つ。

 一つは、思考をリセットすること。

 口惜しさも苛立ちも一時脳内ブラックボックスに捨て、咄嗟に動いたり、味方に指示を出したりする。

 だがこれは、ゲームで負けた時のテクニックである。今適切なのかは分からない。

 もう一つは、とにかく関係のありそうな要素を全て挙げ、そこから結論を探すやり方。

 相手が予想外の動きをした時や、試合展開が思い通りに進まない時に、その原因や相手の出方を考える時に使う。

 時間に余裕がある時には最適であるため、今まさにやるべきことなのだろうが…

 

 何分皆目見当つかず、何を考慮すればいいのか。


「待て、落ち着け…状況は、そう、まず現状だ。現状の確認は出来る」


 現在、彼は青々とした草が生い茂る平野に立っている。

 遠くに林か森のようなものが見えるが、人工物は見当たらない。

 風は冷たく、陽は温かく。土と湿った枝葉の匂い。

 虫や動物らしきものがちらほら見えるが、翔の知識には無い奴らばかりである。


 まず当然の疑問として、


「どこだここ…?」


 そう、現在位置が分からない。

 翔の自宅から徒歩圏内で、これ程ワイルドライフしているような場所は無かった筈だ。

 

 とすると、かなりの距離を一瞬で移動したことになる。


「いや、ちげえな、それは無理がある」


 前提が間違っている。

 記憶を改めて確認する。

 主観では確かに、玄関から出て直ぐにこの眺望だった。

 しかし、視点をぐるりと一周させれば、その玄関がない。自分が出て来た場所が無くなっている。そしてそれが消えた瞬間を、翔は知覚できなかった。


——つまり、意識が飛んだってことか?


 出会い頭に薬物でも嗅がされ、拉致されてここに放置された。もしくは限定的な記憶喪失で、ここに来た経緯を忘れてしまった。そういった可能性が考えられる。

「俺がもっと名の知られた芸能人なら、無人島チャレンジの開幕ということも…いや、無いか」

 何の説明も無しに誘拐して放り出すなんて、いくらなんでも度が過ぎている。

 だが悪意ある行動だとしても、目的がまるで分からない。

 自分から来たのだとしたら、こんな何もないところで唐突に記憶を失うという、無視のできない不自然が残る。


「だめだ、分からん」


 彼に残されたのは、2択。

 一つは、何かしらの接触や異変、説明、働きかけがあるまでここで座して待つこと。

 もう一つは、とにかく見えている何か——今回の場合は森——に向かって歩いてみること。

 

 前者は消極的かつ運否天賦うんぷてんぷ頼り過ぎて、できるだけ選びたくはない。

 しかし後者もまた、何の情報も無い今この時では、運任せであることに変わりはない。

 

 翔は段々と、絶望的状況を理解し始めていた。

 餓死、衰弱死、行き倒れ…そういった意味の言葉達が、手を変え品を変え浮かんでは消える。その脅威が、現実感という重さを伴い忍び寄る。


 ここが日本国内のどこかなら、歩けば人里に着く可能性も高い。誰かに会えればそれで安心だ。

 しかしもし、空白の期間の間に国境すら、海すら超えていたら?

 人が居るのかも怪しく、奇跡的に遭遇できても言葉が通じない。

 職業柄、英語ならある程度できるが、こんな異常な状況を説明する語彙など持ち合わせていない。

 紛争地帯や地雷原だったら?もうどうしようもない。喋らせてすら貰えない。


 この場所にいる原因が分からないことで、行動指針を決めかね、身動き一つとれないでいた。


 だから、その音に気付けた。


 rustleカサリ


 草を踏む音。

 過敏になっていた翔は、とっさにその方向に振り返り、同時に反対方向へと飛びのく。


 そこにいたのは——


「も、モグラ?」


 1mくらいある大きな土竜、そうとしか言いようのない生物が、ゴソゴソと身を震わせていた。いつの間にそこに居たのか。穴でも掘ってきたのだろうか。クンクンと嗅ぎまわるような仕草を続けている。翔の知識では、こんなサイズの土竜は見たことも聞いたこともない。


「一体どこなんだよここは…」


 島国である日本の地上には、同種と比べて大きな野生動物というのは、まず生息していない筈。

 これで、「実は新宿御苑でした」というオチも無くなった。

 そして、国外説が濃厚になってしまった。


 翔が頭を抱えていると、土竜はおもむろに体の前側を起こし、彼に頭部を向け、静止した。

——…?


 何を考えているのか、どこに目があるのかすら窺い知れない頭を、いくら見つめても答えが出る筈もなく。

 ただグズグズと蠢くその口元がうすら寒く、生理的な拒否感を抱いた彼は、たった一歩身を引いた。

 

 その鼻先を、生暖かく粘性の風が吹き抜けていった。


「…え?」


 ここ数分で何度目かの困惑。

 

 何が起きたか理解できない彼に、土竜が僅かに接近する。

——マズい。

 彼の中で警鐘が鳴り響く。

——何か分からないが、とにかくヤバい!

 咄嗟に頭を庇った両腕のうち、右腕に粘り気のあるナニカが絡みつく。

 土竜の口元から伸びており、舌だと思われる長いソレは、翔より小さな体から出るとは思えない力で、彼を土竜の方へと引っ張り込む。

 全身の力で抵抗するが、徐々にその距離を詰められていく。

 咄嗟に蹴り飛ばそうとするが——


「ッ!?っガア!?」


 激痛。

 右腕の肉が、ごっそりと削られていた。


 舌はぬたついていると同時に、表面が紙やすりのようにザラついてもいた。

 身体全てを一旦諦め、舌を引っ込めることで、腕の肉をこそげ落としたのだ。

——コイツ…!

 翔の目は、土竜の口から覘く乱杭歯と、その内側に縦方向の歯列がもう一重ひとえ、忙しなく開閉しながら水音をかき鳴らしているのを捉えてしまった。


 slurpぐじゅる

 smackふしゅる

 crumplingくちゃくちゃ

 dampingぐちゃり


 翔は、なんとなく分かってしまった。

——じっくり味わって、十分弱らせてから平らげる気だ…!


 腕が解放された反動で尻餅をついていた彼は、腰を抜かしてそのまま後退ることしかできない。

「ハヒィ…!」

 呼吸が荒い。

 右腕の痛みは酷くなる一方。

「来るな!ハァ…!ヒイィィィィ!」

 焦点が合わない。

 目尻に涙が溜る。

 股の間が生暖かく、糞便も少し漏れている。

「ヒュッ、グボ、がッ…」

 顔面が汗と鼻水塗れになり、必死の呼吸の結果、気管に液体が入り込みむせる。

 身体どころか、頭すら事態に追い付いていない。

 

 理不尽な暴力。生まれて初めて体感する、現実的な「死」。

 

 何も知らぬまま、何も出来ぬまま、訳も分からず終わる。

 成功できない、どころではない。

 挑戦の機会すら与えられない。

 その虚無的な終局への恐怖。

 藻搔もがくことしかできない彼が、急激に襲い来るストレスに耐え兼ね、程なく失神する——

 その前に、横合いから飛んできた一条の緋針ひしんが、土竜の毛皮に着弾した!


Ghiiiギィィィsiiiiiiiiiiiシイイイイ!!?」

 毛に引火した土竜が苦悶の叫びを上げる!

 その場で転がるように暴れ、鎮火を試みる!

「右翼、援放科!一斉掃射!左翼、機城科展開!耐火盾構え!囲みつつ村民の保護!」


 がなり声とともに、コーラルレッドの軽装鎧を身に着けた、十人程度の集団が一斉に動く。

「立てるか!?こっちに来い!」

 翔と土竜の間にだいだいの壁が形成され、彼はその後ろで引き摺られるようにして距離を離す。

 輪唱のような声の重奏が耳に入る。

 「炎」「浄化」「再生」等の言葉が、翔の耳を通り過ぎる。

 その間にも、土竜には複数の炎が降り注ぎ、全身満遍なく丸焼きにされていた。

 銃火器どころか、矢や槍ですらなく、火炎での殺処分。

 翔は、ここが何処なのかという思索を完全に打ち切った。

 考えても無駄、ということが分かって来たからだ。


「撃ち方やめ!衛生科!死体確認しろ!援放科はそのまま周囲の警戒!お仲間がまだいるかもしれん!」

 兵士達は翔の周囲で隊列を組み直す。

 そのうちの数人が彼に近寄ってきた。

「大丈夫か?もう安全だ。取り敢えず村に…待て、お前その恰好は何だ?」

 翔の今の服装は、家でゲームをしていた時のまま、半袖のTシャツにジーパンと玄関用サンダル、その上にパーカーといった、珍しくもない私服姿である。

 だが、この中世の兵団じみた格好をした集団を見ていると、間違っているのは彼の方にも思えて来た。

 そこに簡素な継ぎ接ぎ布を身に纏った、中年の男が近づいてきて、

「こいつはオレらの村の人間じゃねえです!こんな顔も布も見たことねえですよ!」

 などと言い出す始末。

 当面の一難は去ったが、新たに身元不明の不審者扱いという、次の一難が降りかかってきた。

 何故か言葉が通じることだけが唯一の救いと言えるが、しかし自分の状況をどこまでありのまま話していいのかが分からない。

 「気がついたらここに居ました」、彼自身ならまず信じない。

 どう答えるべきか言葉に詰まっていると——


「なんですの、その方!?少しは面白そうですわね!!」


 翔は今気が付いたが、近くに華美な馬車が止まっていた。金で縁取られた黒檀のような素材で作られており、その異様な巨大さと、それを引く2頭の馬の迫力に気圧されていると、その扉が執事然とし銀髪の老紳士の手によって開け放たれ、先程の頭に響くような声の主と思われる人物が、そこでこれまた成金趣味の扇子片手に堂々と立っていた。

「貴方!そこで這いつくばっている恐らく平民の貴方です!奇抜な服飾ですわね!よろしくてよ!の暇潰しに付き合う栄誉を下賜かし致しますわ!」

 「よろしくてよ」と言われても、翔としては、何もよくない。

 どうにか平静を取り戻した彼は、現れた少女を観察していた。


 まず目を引くのは、まばゆく陽の光を照り返す金髪。豊かに腰下まで伸びたそれはハーフアップにセットされ、顔の左側の髪は見事な縦ロールになっている。

 中世後期のヨーロッパ貴族のような、コルセットでウエストを絞めつつパニエでスカートを広げる形状のドレスで、中の体型はかなりスレンダーに見える。レースの肘丈フィンガーレスグローブが白いが、それ以外は紺が基調。いかづちを連想させるような、鋭角的なデザインの刺繍が金糸で為され、それらの威圧感が、フリルから可愛らしさよりも気位きぐらいの高さを感じ取らせてしまう。

 ドレスが闇夜の稲妻なら、その髪は天の川、その瞳は極星、揺るぎなく頑固な輝きを宿している。両の光彩すら、金色を帯びていた。

 鼻は高く、唇は皮膚と同じく陶器のように滑らかで透き通り、大口を開けて話すその度に、チラチラ見える真っ赤な舌が、鮮烈に燃えて脳裏を撫でる。

 髪飾りやイヤリング・指輪に至るまで、キラキラと光る大きめな宝石が嵌め込まれ、こんな場所に赴いているというのに、白いタイツに高いヒールの靴と、とにかく場違いな感が否めない。

 何より雪のように白い肌が、晴天の下で尚、独りでに輝いている。


 ともすれば冷たい印象を与える鋭利さを、視線と言葉遣いに籠めながら、実際には力一杯喚く為に、苛烈さの方を強く感じさせる。


 それはもう、ステレオタイプそのまんまな、“お嬢様”がそこにいた。


 その少女——冷静になって見れば、年の頃は中学生くらいにも見える——を一目見た翔の反応はと言うと、

「プフッ、なんだお前…」

 吹き出してしまった。

 失笑である。

 絵になり過ぎて、むしろ噓くさい。

 タイムスリップドッキリならば、もう少し外さなければ逆にチープだ。

 何より、当人は何もしていないのに、この場で一番偉そうな態度が気に食わない。兵士に睨まれたならいざ知らず、ですわ口調で凄まれたところで、滑稽さが全面に出るだけだ。

 美少女は美少女なのだろうが、狙い過ぎたその見た目と、やたらキツイ性格を滲ませる口調で、何もかもが台無しである。

 自分の醜態は纏めて棚に上げ、翔は目の前の冗談みたいな少女を嗤ってしまった。

 少女は当然気を悪くし、目の端を吊り上げ睨み付ける。


「んまあ!このわたくしが何者か、心得た上での非礼ですの!?」

「いやだから誰だよお前?」

 弛緩しかかったその場の空気が、即座に急速冷凍された。

 ただ、一人だけボルテージが上がっている者がいる。

 誰あろう、ティピカルお嬢様その人である。

「なんとまあ!顔を見て分からない程に、教育が行き届いていないんですの!?嗚呼ああ!なんて嘆かわしいこと!」

 そして彼女は名を名乗る。

 天に宣誓するかのように、胸を張り手を当て口上を唱え上げる。


「よろしくて!?お耳を傾け、そして驚き、しかとその目に焼き付けなさいな!わたくしは!アステリオス公爵家現当主フランジ・ロライネ・アステリオスが長女にして、次期バシレイア統一君主国“権王”、現王太子殿下の婚約者!つまり未来の王妃!名は!マリア!シュニエラ!アステリオスですわ!お分かり頂けて!?」


 天命のような威力を確信し、のたまわれた必殺の名乗りに対し、翔が返した言葉と言えば——

「だから誰だよ牛娘…」

「うし…!?」

 

 


 と火花が散るような音がした。

 マリアと名乗った少女が瞠目し、ワナワナと震えるその体表で、静電気が弾けたような、青白い閃光が見えた気がした。


 翔は一瞬気を留めたが、錯覚だろうと瞬時に忘れた。

 彼女が激怒していることなど、最早眼中に無いくらいである。

 「ミノタウロスの別名に引っ掛けた、小粋なギャグのつもりだったが、受けが悪いとはこいつら教養が無いな」と、空気も読まずに失礼な感想を抱いていた。

 本人的にはこれでも冷静なつもりだが、

 見て分かる通り、パニックの渦中から抜けられていない。


 因みにではあるがその場の空気は、


 もちろん完璧に凍り付いていた。

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