第40話 私の肩を揺らすのは。


 辛い気持ちの時は眠るに限る。

 眠っていればその間は、なにも感じずに済むから。


――さすさす。

 誰かが私の肩を揺さぶっている。


「……ぃじょうぶですか、なかのさん」


 私を呼ぶ声がかすかに耳に届く。

 私が一番聞きたかった人の声だ。


「起きてください中野さん、大丈夫ですか?」


 夢の中の声にしてはやけにくっきりとしていることに気づいて瞼を開く。

 するとそこには、緑水さんの姿があった。


「あれっ……」


 驚いて手を伸ばす。

 夢の中なら触れることなどできないはずだ。

 だが、私の指先は確かに彼の頬に触れることができた。


「えっ?」


 私はあわててあたりを見渡す。

 時計の針は午後二時を指している。

 寝ている間に外の気温が上がったせいだろう、室内の空気は蒸し暑く、身体がほてって汗ばんでいるのを感じた。


 そして目の前には、緑水さんがいた。

 心配そうに私を見つめている。


「中野さん、これを」


 そう言ってグラスに入った水を差しだしてくれている。


「あ……りがとう……ございます」


 とりあえずはその水を受け取り、ごくごく飲んだ。

 はあ、お水を飲むと生き返る。

 ……で。


「なんで、緑水さんが生きているんですか?」

「私にも、よくわかりません」

「本当に、本物ですか?」


 私はパタパタと彼の身体のあちこちを軽く叩きながら触れてみる。

 本当に、存在しているみたい。

 以前と変わらない、白く長い髪を後ろで一つにたばねた切れ長の瞳の緑水さん。

 ただちょっと違うのは、白いシャツにジーンズという、現代人っぽい服装をしていることだ。


「本物ですよ。私もまだ、少しずつ状況を理解している最中なのですが……。おそらく私は人間になったようなんです」

「……へ?」

「目を覚ましたら、全く知らない土地の駅の待合室でベンチに腰掛けていました。服のポケットにはこのようなカードとお財布と携帯電話が入れられていました」


 そう言って緑水さんはポケットの中身を出してみせた。カードはSuicaで携帯電話はスマホだった。


「駅員にたずねると料金はチャージされているとかなんとか。それで群馬県の神流町へ向かいたいと言うと、親切に道順を教えてくださいました」

「それで戻ってこられたんですね」

「ええ。それと財布の中身を見ると、人間としての自分の身分証が入っていました。その身分証から自分の名前や本籍地がわかり、自分はその本籍地のお宅の人間として生まれ変わったのだと察しました。携帯の使用方法はよくわからなかったので駅の待合室にいた親切なお方に使い方をうかがって、連絡先を表示できました。すると実家の電話番号らしきものが携帯電話に登録されていましたから、その番号に連絡をとってみたんです。そうしたら知り合いの声だったもので」

「知り合い……」

「その知り合いというのが実は、こちらのお宅の大家さんだったのです」

「あっ」


 そういえば大家さん、息子が帰ってくるって言ってた。急にそんなことを言い出しておかしいと思っていたけれど。


「あの……緑水さんは大家さんとお知り合いだったってことですか?」


 私は大家さんの命の恩人だった狐さんのお話を思い出す。


「ええ、まあその方が子供の頃のことでしたからあちらは覚えていないでしょうけれども、狐の姿で遊んだこともあり、大体どんな御方かはわかっていました。お話の内容からその方の息子になったのだと知り、先程戻ってきたんです」

「だけどなんで、そんなことが……」

「私は、きっとあの山寺の菩薩様が私たちを見守ってくださっていて、この奇跡を起こしてくださったんだと思っていますよ」


  そっか。

 だから緑水さんを、人間として生き返らせてくれたんだ。

 

 ふと思い出す。

 私、あの山寺にお参りしたとき、菩薩さまにお願いしたんだった。

 緑水さんとずっと一緒にこじょはんできますようにって。

 願いを叶えてくれたんだ。


「じゃあこれからは、ずっと一緒にいられますか?」

「はい」

 

  微笑む緑水さんの胸に思わず飛び込んで抱きついた。彼も私の背中に手を回す。


「どこにも行かないでください」

「はい」

「あの……花火大会も、一緒に見られますか?」

「もちろん、一緒に見られますよ」

「一緒におでかけもしたいんです」

「いいですよ。どこへでも」

「それで……私のお嫁さんになってほしいです」

「そこはやっぱり、お嫁さんなんですね」


  緑水さんは苦笑した。

 冗談みたいにされたくなくて、私は言った。


「私と結婚してください」

「……私でよければ、よろこんで」


 そのまま私と緑水さんは、しばらくなにも語らずにただ身を寄せ合っていた。

 時計の針の音だけが、部屋の中に響いている。


 私たちは初めて出会ったときから、きっと底なしの寂しさを共有していた。

 そして私たちは二人一緒にいることで、互いの心にぽっかりと空いた穴を埋めることができることに気づいた。


 だから私たちは今この瞬間、幸福そのものになっていた。

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