第39話 昨日までとはなにかが違う朝。
「緑水さん……」
ショックのあまりその場にうずくまったまま動けずにいると、雨粒がぽつぽつと肩に落ちて来た。
夏の雨は温かくて、まるで涙の粒みたい。
「今日って、雨の予報じゃなかったのに」
雨はみるみるうちに本降りになり、やがて雷まで鳴り響き始めた。
「ゲリラ豪雨ですか……」
あっという間に全身びしょ濡れだ。仕方なくよろよろと立ち上がる。
もう家に帰ろう。
全てを失ってしまったような気分だ……。
とその時、どこからか地鳴りのような音が鳴り響き始めた。
「え、まさかがけ崩れ……?」
――ここにいたら危ない!
私はざあざあ降りの雨の中、猛ダッシュでけもの道を駆け下りた。
せっかく緑水さんが命がけで助けてくれたというのに、すぐにがけ崩れで私が死んでしまったのでは、緑水さんが浮かばれない。
そうして命からがら、やっと自分の住む古民家に辿り着いた私は、まずわんわんと大声で泣きわめき、それからシャワーを浴び、そしてウイスキーをロックで飲んだ。
「緑水さんが私のせいで消えちゃった」
この世から、存在がなくなってしまった。
いつの間にか、私は意識を失うように眠りについていた。
朝起きると、昨日までとはなにかが違っているような気がした。
朝日の差し方や、空気そのものがまとう雰囲気。
なにがとは言えない。
だけど世界にほんの少しだけ、変化がおきたような感覚。
「あったまいったい!」
ズキズキと痛む頭を手で押さえながら水道でコップ一杯の水を飲む。
「……おなかすいた」
こんな時でもお腹は減るんだ。
考えてみれば昨日の朝ごはん以降なにも食べていない。
私は冷凍ご飯をチンして、ふりかけをかけて無心で食べていた。
すると、玄関をコンコン、と叩く音がした。
「あかりちゃん、いるかねぇ~?」
大家さんの声だ。
「ちょっと待ってください」
正直言って今は人と会いたいような気分ではなかったけれど、いつもお世話になっている大家さんを無視するわけにもいかない。
すぐに玄関へ行き鍵をあける。
すると大家さんがミニトマトの入ったビニール袋を私に差し出してきた。
「これ、今朝採れたもんでさ」
「はあ……ありがとうございます」
トマトはありがたいけれど、なにもこんな朝から来なくたって、と思ってしまう。
今の私にはきっと全てのことがマイナスに感じられてしまうのだ。
「あんなぁ、今日はビックニュースがあって来たんだい」
大家さんはそう言いながら嬉しそうな顔をする。
「ビックニュースって? もしかして昨日、がけ崩れとか起きました?」
「いいや、そりゃあ知らねえけんども」
なんだ、違うのか。じゃあ昨日のあの地鳴りは一体なんだったんだろう。
「実はな、和歌山から息子が帰ってくることになったんさね」
「……息子さん?」
おかしいなと思う。
前に大家さんは、自分たち夫婦には子供はいないと言っていたはずなのだけれど。
「あれ、前にたしか、お子さんはできなかったって……」
あの話は忘れもしない。大家さんは子供の頃に大けがを負ったのが原因なのか、子宝には恵まれなかったと語っていた。だがその代わり、書道教室に来ていた子供たちが自分の子供のようなものなのだと……。
「ああ、そんな話まで、あかりちゃんにしてたんだったか?」
お年を召しているとはいえ記憶力のしっかりしている大家さんが、私にその話をしたことを忘れるはずもないのに、なぜかその話を私にしたことを大家さんはすっかり忘れてしまっているらしい。
「確かにそうだったんさねぇ。それだもんで、後々になって親戚の子を養子にもらって」
「えっ?」
養子の話なんか、今までしたことなかったのに。
なにかがおかしいと感じる。
「まあその子と過ごしたのは何年でもなかったんだけんどもさ。高校生の頃には、はぁ家を出て学生寮で暮らし始めて……。その後は和歌山で働いていたんだけんども、急に今日戻ってくるって電話が来てさ」
「随分と急ですね」
「そうなんさぁ。あたしはもう、そりゃあ久々に会えるもんだから、電話が来たときから嬉しくて落ち着かないがね。それで朝から、トマトを収穫したりしてたんさね」
養子がいたなんて急な話だけれど、とにかく大家さんがとても嬉しそうなので、私も嬉しい気持ちになった。
「よかったですね」
「よかったよぉ。わりいんねえあかりちゃん。朝から来て騒いで」
「いえいえ」
それから大家さんは、笑顔で手を振り去って行った。
私にとっては心が引き裂かれるくらいに辛い気持ちの日でも、誰かにとっては幸福な一日だったりもする。
「はぁ……」
私は冷蔵庫からビールを取り出し、嫌な気持ちを押し流すようにがぶがぶ飲んだ。
そしてそのまま、居間の畳の上に倒れ込み、眠ってしまった。
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