第38話 彼のわがまま。
熊は私と目が合うなり、斜面を物凄いスピードで走りながらこちらに向かってきた。
熊ってこんな急斜面を走れるんだ、と絶望するしかない。
どうすればいいだろう。これから起こるであろう恐怖に対して、私は目を瞑って意識を飛ばし、死を受け入れるしかないのか。それとも目をかっぴらいてどうにか生き延びる術がないか最後の時まであがくべきなのか。
「ああああああああああああああああ」
震えながら声にならない声をあげ、熊のほうを向いたまま後方へずり下がる。
――もう、駄目だ。
瞼を閉じて諦めようとしたその時、白銀の大きな狐が私の目の前に飛び込んできた。
「あっ」
熊は二本足で立ち上がり、両手で狐の背中をひっかいた。
しかし狐はひるむことなく熊に向かって威勢よく吠えた。全身の毛が逆立ち、異様な気を放っている。すると熊はしばらくその様子を眺めた後、ゆっくりと向きを変えて去って行った。
「あの……緑水さん、ですよね?」
私は狐に手を触れ、声をかける。
狐はこちらに振り向いた。やっぱりそれは狐の姿をした緑水さんだった。狐の顔をしているのに、なぜかわかる。
「緑水さん、あの、この間は私、すみま……」
「中野さん、帰りますよ。ここにいたら危険です」
「はい……」
狐の緑水さんは背中の傷から血を流しながら、斜面をのそのそ登っていく。傷が痛むのだろう。
「緑水さん、ごめんなさい」
「もうこんな危険なことは、なさらないでください」
きっぱりとそう言われ、すっかり私はしょげてしまった。
しょんぼりしながら緑水さんの後について斜面を登り、草をかき分けながら道なき道を歩き続ける。
「あの、その傷、大丈夫ですか?」
「…………」
緑水さんは無言で、よろよろしながら歩き続ける。
そうして三十分も歩いたころ、私は見覚えのある墓地に辿り着いた。
「あっ、ここからなら、わかります!」
すると緑水さんは、パタリとその場に倒れた。
「緑水さん!」
慌てて駆け寄る。呼吸はしているけれど、背中の傷から流れ出る血で緑水さんの美しい白銀の毛は真っ赤に染まっている。
「あの、私わかんないんですけど、妖怪の狐でも動物病院に行けば治りますか?」
震える声でそうたずねると、緑水さんはかすかな声で「いいえ」と言った。
「じゃあ、どうしたらいいですか? なんでもするので……」
「なにも、できないです」
「そうしたら、どうなるんですか?」
緑水さんは瞼を開き、私を見た。
怒ってはいなかった。
一緒にこじょはんを食べていた時と同じ、優しい瞳だった。
「私は元々、妖力が弱まっていました。人間から認知されなくなった妖怪は皆そうなります」
「そんな……」
「以前なら、物理的に傷がついても妖力で治せましたが……今は無理なんです」
「じゃあ、一体どうすれば……」
「もうじき、私は消えます」
光の粒が緑水さんの身体のまわりに舞い始めた。最初は気のせいかと思ったけれど、光はみるみる増えていく。そして渦を巻きながら、空に立ち昇っていく。
「いやだ、行かないで!」
私は緑水さんの身体に覆いかぶさり、彼が空に消えていかないように押さえつけた。
でも、なにかに触れている感覚が徐々に薄れていくのを感じた。
「ごめんなさい」
私のせいだ。私が道もわからないのに、あの「め」のお寺に行こうとしたせいだ。
「中野さんのせいではないですよ。どのみち近いうちに、私は消滅する運命にありましたから。その時期が少し早まっただけのことです」
そっか、だから緑水さんはいつもどこか寂しげな顔をしていたのかな。
「それでも、今こうなったのは私のせいです」
「いいんです」
緑水さんはかすかに頭をあげ、私に頬をすり寄せた。
「あなたを守れてよかった」
涙がポロポロこぼれ落ちる。
私も緑水さんを守りたいのに、なにもできない。
振り絞るような声で彼は言った。
「最後に、わがままを言っていいですか」
「はい……」
「私も、中野さんとずっと一緒にいたかったです」
その瞬間、緑水さんは狐の姿から人間の姿に戻り、私にキスをした。
驚いて彼を見つめる。ふふ、とどこか得意げに微笑んだのが見えた。
そして次の瞬間には、彼は光の粒になり、空の彼方に消えてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます