第29話 大家さんのおうち。
私が住む古民家から坂を少し下ったところに大家の新井さんのお宅がある。
今日は数日前にいただいた漬物が入っていたタッパーをお返ししに行く。ついでに、昨日バスで街へ出たときに買った洋菓子のセットもお渡しするつもりだ。いつもいただいてばかりで申し訳ないから、たまに何か贈り物をするようにしている。
「すみませーん、中野でーす」
玄関の引き戸を開け、大きな声で大家さんを呼ぶ。大家さんのお宅は私の住む古民家よりひと回り大きなお宅で、庭には鯉が泳ぐ池もあるし、立派な蔵まである。先祖代々住んでいたお宅だが、今は大家さん夫婦の二人暮らしみたいだ。
ちなみに私の住む古民家は大家さんの亡くなった親戚が住んでいたお宅で、空き家になって数年経っていたらしい。
「あれ、いらっしゃい。わざわざ容器を返しに来てくれたんかい?」
ニコニコしながら大家さんが出てくる。居間にはおじいさんの姿も見えるけれど、耳が遠いみたいでまったくこちらには振り返らない。いつもそうだ。
「それとこれ、昨日おいしそうだなって思って買ってきたんですよ。もしよかったら……」
そう言って洋菓子の詰め合わせセットを手渡すと、大家さんは瞳を輝かせた。
「あらぁー、こんないいもんもらっちゃ、かえって悪いようだいね。なあに、いっぺぇあるじゃねぇ……。お茶淹れるから、あがっていきな」
「いえいえ、全然おかまいなく」
「こんなに一人じゃ食いきれねぇがね。じーさんにゃあ菓子の良し悪しなんか、わからしねぇんだから、もってぇねえ」
「おめぇ今なんか言ったかぁ?」
おじいさんはガラガラ声でそう言うと、震える手で湯呑をつかみ、口元に運んだ。
おじいさんの話し声、初めて聞いたかも……。
「せっかくだから、あがっていきな。あかりちゃんも一緒にお茶にすべえ。なあ?」
大家さんの押しが強めだったこともあり、私はうなずいた。
「はい、では……。おじゃまします」
大家さんの家でお茶するのは、入居するのが決まった日以来だった。
「まーんず、あかりちゃんが来てからは日々に張り合いがあるでぇ」
マドレーヌを食べながら大家さんはそう言って、ズズッとお茶をすすった。
「じーさんはこの通り耳も遠いし、はぁお友達っつったって、半分ぐれぇは天国に行ったがね」
「そうなるん……ですかね」
あはあは、と作り笑顔で生返事を返しながら、私は菓子折りの中から一番小さなクッキーをを一つつまんだ。
「そうなるんだでぇ、いつかは。まああかりちゃんからしたら、半世紀も後の話かぁ? あはははは!」
部屋をきょろきょろと見渡す。ご先祖様らしき人々の白黒の写真が額に入れられ、梁に飾ってある。あの人たちはいつの時代を生きた人たちなんだろう……。明治とか、大正とか?
そんな私の視線に気づいたのか、大家さんが説明をはじめてくれた。
「あっちの一番右のがじいさんのかあちゃんで、その隣がじいさんのとうちゃん。その隣がじいさんのとうちゃんのにいさんの……」
聞いているうちに段々わけがわからなくなってきた。
「……っつうわけだいね」
「なるほど~」
だめだ、誰が誰だか全然覚えられなかった。
「まあここにゃあ色んな人が住んできたわけだけど、あたしたちの代でそれも終わりかねえ」
「あの、そういえば大家さんってお子さんとかお孫さんっていらっしゃるんですか?」
ふと疑問に思ってたずねる。このまえの鯉のぼり祭りのときも大家さんの家に誰か帰省している様子はなかったような気がする。
「いやあ実は、うちは子供ができなかったんだいねぇ……。あたしが子供の頃大けがをしたことがあったもんで、そのせいじゃねぇかってことらしいんだけども」
いつも元気な大家さんが、しんみりと語り出す。
「そうだったんですね。……すみません、こんなこときいちゃって」
「いいんさいいんさ。じーさんに良くしてもらって幸せに暮らしてこれたし、昔はここで書道教室を開いててねぇ。ここいらの子がみんな生徒になって通いに来てくれたから、まあ子供にはたくさん囲まれてきた人生だったんさねぇ」
「書道の先生だったんですね」
「そうだでぇ。あそこの額に飾ってあるのはあたしが書いた字だい」
「へぇ~」
確かに芸術的な達筆で書かれた漢詩のようなものが飾られている。
なんと書いてあるかは全くわからないが、凛とした空気をまとった美しい字だ。
「すごいですね」
「まあ人間生きてりゃ、一つくらいはね」
そう言って大家さんは得意げに胸を張った。
「一つくらいどころじゃないですね。大家さん、お料理も上手だし社交的でいらっしゃるし」
「……だとぉ。聞いたかいじーさん?」
ドヤ顔をする大家さんをスル―するように、おじいさんはお茶をすすっている。
「……そらあ……てぇしたもんだ」
だいぶ遅れて、おじいさんはそう呟いた。そしてその後ゆっくりと噎せ始めた。
「どうしたんじーさん。大丈夫かいね」
大家さんが背中をさするとおじいさんは言った。
「か……菓子が……喉に……アレして……」
見ればおじいさん、右手にラスクを握っている。
「す、すみません! こんな乾いたもん持ってきて!」
咄嗟に私はひれ伏した。大家さんはおっかしいんねぇ、と言いながら笑い続けていた。
帰り際、大家さんはまた私に野菜をくれた。
「これ、今日採れたばかりのナスときゅうりなんさ。ちっと形は悪いけど持ってってくれる?」
「いいんですか? ありがとうございます」
スーパーの袋いっぱいのナスときゅうり。
また大家さんからもらっちゃった。いつももらってばかり。
「また、たまにはお茶しに来ないね。あかりちゃんと話せるっつうだけで、こっちは元気がでるがね」
「そうですか?」
うんうん、と大家さんがにっこり笑いながらうなずく。
「じゃあ、またお茶しに来ますね」
会釈してから大家さんの家を出る。
私も大家さんに、もっとなにかしてあげられる人になれたらいいな。
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