第27話 山奥の廃寺。

 六月某日、薄曇り。

 雨でもなく晴れすぎてもいない程よい天候の日を見計らって、私と緑水さんは山寺へ向かうことになった。


 私の住む集落のあたりの裏手は山になっており、その山に分け入るけもの道が続いている。


「ここから入っていきましょう」

「すごい……まるで探検隊みたいな気分です」


 緑水さんはいつも通りの作務衣姿だけれど、私は長袖シャツにジーンズ、歩きやすいスニーカー、UVカット機能つきの帽子という万全の体勢で挑んでいる。虫よけスプレーは噎せそうなくらいに吹きかけてきたから、きっと大抵の虫は私を避けてくれるはず……と信じている。


「では先に歩いてください」

「えっ、私が先にですか? でも道がわからないです」

「心配しなくてもこの道しかありませんから……もし分かれ道があったらその時は私がお教えしますし。もしも中野さんに何かあったとき、私が気づけないと困るので」

「なるほど……じゃあ、行きますか!」


 気合を入れ、けもの道を登っていく。

 道なき道……と思ったが、意外と近隣住民は利用することもある道だったのか、砂利がひかれていたり地面が踏み固められていたり、人の手が加えられていることに気づく。

 そして程なくして、墓地が見えてきた。


「わあ、お墓がいっぱい」

「この辺りに住んでいる方のご先祖様は大体こちらに眠っていますよ。先祖代々守り抜いてきたお墓です。まあそれも、半世紀後にはどうなっているかわからないような気もしますがね。近隣の都市部に出て行ってしまった人が多いですし、最近はお墓参りしやすい交通の便が良い場所に新たに墓地を購入する人も多いようです」

「そっかあ。確かにお墓参りのためにこの山奥まで車で来るのも大変ですからね。でもなんとなく、この墓地が続いてほしいような気もします」


 一体どのくらい昔から続いているのかわからないような墓地。最近建てたような墓石もあるけれど、その横には苔生して丸みを帯びたような墓石がいくつも置かれている。もう何百年前の誰のお墓かもよくわからないその墓石たち。この土地でその昔、どんな生活が営まれていたんだろうなと想いを馳せる。


「では、そろそろ行きましょう。まだ先は長いですから」


 緑水さんにそう言われて我に返る。

 そうだった。山寺まで徒歩一時間だっけ。まだこの場所、徒歩十分くらいしか来ていない。


 墓地までの道は砂利などで舗装されていたが、その先はけもの道感がぐっと増していった。


「緑水さん、こっちで合ってますぅ?」


 少し歩くたび不安になって振り返る。


「合っていますよ、大丈夫です」

「わ、わかりまし」


 再び進行方向に向き直ると、目の前に大きな蜘蛛が姿を現した。


「ぎゃあああああっ!」


 慌てて後ずさりしたので、緑水さんに体当たりしてしまった。


「大丈夫ですか? ああ、ここに蜘蛛の巣が張っていたんですね」


 ささっと木の棒で避けてくれた。


「ありがとうございます……ひっ」


 顔の傍を、ブーンと蜂が通り過ぎていく。

 ここは地獄かよ。


「最近すっかり虫が多くなってきましたからねぇ」


 緑水さんはのんきな声でそう言った。

 


 しばらくすると、木の枝は伸び、背の高い草が生い茂って歩きにくいような状況になってきた。


「ここから少しの間は私が先に歩きますね」


 緑水さんはそう言うと、鎌を取り出しバサバサと草木を切り落としながら先に進み始めた。私は虫が出るたび「ひえぇ」と小さく叫びながら、その後に続いていく。

 はあ、山道を登るのって思った以上に大変だなあ。

 ポケットからスマホを取り出す。まだ歩き始めて三十分か。この倍も歩かなければならないのかと思うと、少し心が挫けそう……。


「あっ、中野さん、この先に湧き水があるんですよ」

「え、湧き水ですか?」


 そういえば沢の流れるような音がする。頑張って歩を進めると、岩の間から水がちょろちょろと水が流れ出て、小さな沢を作っている様子が見えてきた。


「ここのお水は美味しいんですよ」


 そう言って緑水さんは手ですくって飲んでいる。

 なんかちょっと抵抗あるけど……。

 私も真似して飲んでみた。


「あ、つめたくて美味しい」

「そうでしょう? このへんにはあちこちに湧き水の出ている場所があるんです。そしてこうした湧き水が小川を作っていって、やがて神流川につながるんですよ」

「なんだか不思議ですねぇ」



 その後無心になって歩き続けること数十分。

 けもの道は急に開けた場所に出た。


「ここが、私の言っていた山寺ですよ」

「おお……」


 一体どのくらい古いのかわからないような崩れかけの小さな木造の建物。屋根瓦がいつ落っこちてきてもおかしくなさそうだ。その周辺には無数のお地蔵さまが並んでいる。

 廃寺、という印象しかないが、よく見れば周囲に雑草もなく手入れされており、お地蔵さまの前にはしおれかけているものの、お花もお供えしてある。


 とりあえず……と、お寺に近づき、私はとあるものに気づいた。


「えっ、あの、緑水さん」


 小さな木造のお寺の上部に「め」という木彫りの文字が貼り付けられていたのだ。


「あそこに『め』とだけ書かれていますが、どういうことなんでしょう? 目の神様でも祀られているんですか?」

「いえ、私も詳しくはわからないのですが……。おそらくここは慈眼寺の系列のお寺だったようなのです」

「慈眼寺?」

「高崎に大きな観音像があるのはご存じですよね?」

「あ、はい。知ってます」


 それは群馬でも最も有名な観光地の一つだったので、訪れたことはなくても私も知っていた。山の上に大きな観音像が立っていて、その様子は離れた場所からでも見ることができる。私も買い物に高崎へ出た際、一度その様子を眺めて写真に収めたりもした。


「上毛かるたにも『白衣観音 慈悲の御手』という観音像の描かれた札があるんですよ」

「上毛かるた……なんかそういうの、あるらしいですよね」


 上毛かるたというのは群馬県民なら皆暗記しているというかるたで、群馬出身の偉人や群馬の名産品、観光地などがかるたの札になっているものだ。


「その観音さまのいるお寺が、慈眼院というのです」

「ほお」

「慈眼とは、慈悲の心をもって人々を見守る菩薩の目のことを言います。慈眼寺というお寺は結構全国にあるんですよ」

「そうだったんですね」


 慈眼寺。あんまり今まで意識してなかったなあ。


「観音さまのことを観世音菩薩とも言いますが、観世音菩薩は仏教の慈悲の精神を人格化したもので、人々の苦悩を自在に観じ、救済してくださると言われています。こちらの『め』のお寺の御本尊は聖観世音菩薩なんですよ。ご覧になります?」

「ええ、では是非」


 緑水さんは本堂の扉をゆっくりと開く。すると中から古びた木彫りの菩薩さまが姿を現した。曲線的な身体つきで、穏やかな表情をしている。


「初めて拝見したときから私は、こちらの菩薩さまのとても優しげなお顔にすっかり惹かれてしまいまして。いつまでも私を見守っていただけたらとの想いから、こちらの管理をするようになったのです」

「そうだったんですね」


 緑水さんは珍しく、語り続けた。


「私は元来欲深いたちだったのです。ですがその欲のために人々から後ろ指をさされるような経験をすることも多く、そうした年月が続くうちに自然と人目につかない生活をして自分の殻にこもるようになりました。ですがこの菩薩さまに出会ってからは、心が穏やかになりました。少しでも菩薩さまに近づけるよう努力することが、私の新たな目標となったのです」

「なるほど。でも確かに、この菩薩さまと緑水さんって似てます」


 穏やかに人々を見守る菩薩さまの表情は、普段の緑水さんの顔にそっくりだ。


「だけど、緑水さんが元々欲深いたちだったとは信じがたいですね。なんの欲もなさそうですけど」


 例えば緑水さんが宝くじに当選してイエーイ! って喜んでいるところとか、焼肉屋で「すいません特上カルビを二人前」って注文するところって、想像がつかないもの。


「いえ、私にも欲はあります」


 残念そうに緑水さんはうなだれる。


「どんな欲がありますか?」

「うーん」


 しばらく考えてから緑水さんは答えた。


「色々な欲がありますが、結局のところは『愛されたい』という欲求なのだと思います」

「なるほど……」


 まあ私だって、多少は思うよ。愛されたいって。ていうか人間誰だってそうじゃない?

 それって罪のように思わなくちゃならないことなのかなあ。

 愛されたいって思うから、自分自身を向上させうようとか、人を思いやったり親切にしようって思える場合もあるんじゃない?


「緑水さんに『愛されたい』っていう欲があるからこそ、緑水さんは素敵な人なんだと思いますよ。欲があるから向上心を持てるって場合もあるじゃないですか。もしもなんの欲もなかったら例えば、髪がボサボサでもいいし、服がしわくちゃでもいいし、お料理なんて食べられればそれでいいって人になっちゃうかも……」


 率直にそう述べると、緑水さんは少し驚いたような顔をした。


「ああ、本当に。確かにそういう面もあるのかもしれませんね……」

「ですです」


 ニコニコ笑って答えつつ、ちょっと思った。


 髪がボサボサで服がしわくちゃでお料理なんて食べられればそれでいい人って、まるで私みたいじゃないか……。いかんな、このままでは。


 それから私は菩薩さまに一礼して合掌した。


――これからも緑水さんと、ずっとこじょはんできますように!


 今の私の祈ることといったら、これしかない。


「さて、そろそろ……」


 そう言いながら緑水さんは背負っていた荷物を広げ始めた。


「え、なにか持ってきたんですか?」


 たずねると、緑水さんは笑顔で言った。


「中野さん、お昼ご飯にしましょう」


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