第8話 お婆さんになりたい。

 

 緑水さんは実在する人間なんだろうか問題。

 

 夜布団に入り、お気に入りの欄間の彫刻を眺めながら考える。


「いやどう考えたって実在だよー。だって毎日のように会ってるし、お料理作ってくれてそれを実際に食べてるんだし、手が触れたときもあるけどちゃんと触れた感覚があったし」


 でも不思議な部分もいっぱいあるんだよな。隣の家、木も草も伸び放題で森みたいだし、緑水さんはコーラもパソコンも知らないような世間知らずだし、髪の毛も真っ白だし。


 いつも藍染の作務衣着てるし、食材はバッグとかビニール袋じゃなくて風呂敷に包んで持ってくるし。


「いや、でもそんな人も、いるっちゃいるでしょ。ここは山奥だし」


 それにですね。

 これはあり得ない、例えばの話だけど……緑水さんが何らかの幽霊的な存在なんだとしたら、私はもう彼には会いたくないって思うのかな?


 うーん、もう会えなくなったら嫌だよー。寂しいし。

 美味しいこじょはんも、食べられなくなったら困るし!

 それにね。


 あんなに優しくて、一緒にいると気持ちが温かくなるような幽霊っているのかな?

 もしいるとしたら、それってきっと悪い霊じゃないのでは?

 もし幽霊だとしても、また出てきてください。って思うかな。


「てことはどっちみち、今までと変わらないか」


 そういう結論を導き出した私は、安心して眠りについた。

 元々わりとおおざっぱな性格ではあるのだけれど、近年ますますその傾向に拍車がかかっている。


 私は「私がどうしたいか」をきっと一番大切にしているんだ。そして時にはそのために、あえて物事を深く考えないという選択をするようになっていった。


 でも一体どうしてそういう考え方をするようになったんだっけ?


 多分大人になるにつれて、色々面倒なことが増えるにしたがって、そういう人間になったような気がする。なるべく思考を単純化しなければ、嫌なものが見えすぎて、悩みが増えすぎて、やっていけなくなるもの。



 夢を見た。

 よく見る夢。


 結婚まで考えていた元彼と、同棲していたアパートで言い合いをする夢。

 彼が唇を開き、言葉を発する。

 すると地面が音をたててガラガラと崩れ落ちていく。

 

――ズッ!


「わぁっ」


 ジェットコースターが下降する時みたいな感覚が身体に走り、私は目を覚ました。

 全身汗びっしょりで、下着もパジャマも肌にはりついて気持ち悪い。

 喉もカラカラだ。

 時計を見るとまだ午前二時。


「着替えて水でも飲んでからまた寝るか……」


 独り言をぽつりとつぶやき、よろよろと立ち上がる。

 

 着替えを済ませ、水を飲みながらぼーっと考える。


 私はただ、穏やかに淡々と暮らしたい。

 人と関わって傷つくのも、他人や自分の醜さを思い知るのももう嫌だ。


 今やっている仕事は自分に合っている。一人でコツコツ作業する時間が多いのが良い。

 そしてこの山村という環境も良い。都会には人も情報も溢れかえっていたけれど、ここにはゆったりとした時間が流れている。


「寝るか……」


 布団に入って瞼を閉じる。


 どこかに玉手箱が落ちていないかな。

 早く玉手箱を開いてお婆さんになりたい。

 心が穏やかで、なにごとにも動じず、いつでもニコニコしているお婆さん。


 そんなお婆さんになって、まるで七福神の一人みたいな笑顔を浮かべ、ひっそりと暮らしていきたい。


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