第2話 さっそく彼がやってきた。

 

 そういうわけで、私の古民家暮らしは不気味な雰囲気でスタートを切ることになってしまった。


 夕ご飯のカップラーメンを作るために湯を沸かそうと台所に向かったその時。

 目の前を白いものがフワっと通り過ぎる。


「うわっ!」

 

 思わずやかんを放り投げ、尻餅をついてしまった。

 ひらひらひら、と白っぽい羽をもった蛾が、台所の天井からぶら下がる照明のまわりを飛んでいる。


「なんだ、蛾かあ。……ていうか蛾も普通に嫌なんですけど」


 そんな独り言を呟き、びくびくしながら腰を低くして照明の下を通り過ぎ、やかんに水を入れ火にかける。

 すると窓の外の木の葉が、カサカサ、と音をたてながら揺れた。


「えっ……」


 大家の新井さんの言葉を思い出す。

 鹿とか、熊とか……。

 霊的なもん。


――なんか山奥の一軒家って、想像してたより全然怖い。


 段々、涙目になってきた。



 そうしてろくに眠れぬうちに一夜を明かした私は、辺りが明るくなってからようやく安心して眠りについた。そして目が覚めると、もう時刻は午後二時を過ぎていた。


「うわ、生活リズムずれまくり。これじゃ今夜も眠れないじゃないの……」


 ため息をついて布団から這い出て台所へと向かう。


 どうしよう。今日は生活に必要なものを買い足しに隣の市まで行こうと思っていたけれど、一日に何本もバスがないみたいだからこれから着替えて買い出しに出たんじゃ、帰るころには辺りが真っ暗になっちゃうだろうな。


 バス停からこの家までもかなり歩くし。しばらく住んでみてから車を買えばいいやと思っていたけど、こんなに交通の便が悪い場所に住むのに車なしでなんて、いくらなんでも無謀すぎたのかな。明日は必ず早起きして買い出しに行かないと。

 

 すっかり心細くなっていたその時、玄関の引き戸を叩く音がした。


「すみませーん、中野さん、いらっしゃいますか?」


 男性の声がする。

 その声に温かみを感じて、私は涙目のまま玄関へと走っていく。


「はいっ! こんにち……は」


 玄関扉を急いで開くと、そこには藍染の作務衣を着た背の高い白髪の男性が立っていた。真っ白い髪は後ろで一つに束ねてあり、腰まで伸びるほどに長い。そして手には風呂敷包みを抱えている。


 おじい、さん? でもそのわりに声が若かったような。


 ゆっくり歩み寄ると段々顔がくっきりと見えてきた。男性は私より少し上くらいの年齢……三十から三十五歳程と思われる顔つきで、切れ長の釣り目に白い肌、すっと通った鼻筋と、八重歯がのぞく愛嬌のある口元をしている。


――えー。ちょっとかっこいい。


 思わず男性に見惚れていると、彼はニコっと笑いながら言った。


「中野さん、お腹空いてませんか? 『こじょはん』にしましょうよ」

「あ、はい。えっと。『こじょはん』って?」


 クエスチョンマークが頭の中にいくつも浮かんだままの私を置いて「おじゃましますね」と彼は玄関に上がり込んでいった。えっ、ひとんちに、そんなにぐいぐい入っていく? 


「あの、すみません、お名前は……」


 たずねると、彼は答えた。


「新井です」

「新井……さん……」


 そんなこと言われてもどの新井さんだかわからないよ! この一帯に住んでいる人、全部新井さんなんだからっ!


 彼は土間から板の間に上がると、脱いだ草鞋を行儀よくそろえた。

 んー、すごくきちんとしてる。悪い人ではなさそうだな……。

 安心し始めた私に、彼はたずねた。


「中野さん、少し台所お借りしてもよろしいですか?」

「台所……。はい、どうぞ」

「では失礼しますね」


 ニコっと微笑み、新井さんはまっすぐに台所へと向かった。


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