惜雪

「こんな日にこんなところで、何してるの?」

 左耳のイヤフックが外されて、明るい声が飛び込んでくる。太陽が発したかと思うような、少女の声。見上げれば、朗らかな表情を浮かべた少女が、大きな瞳でこちらを覗き込んでいる。

 夕輝はベンチに座り込んだまま、彼女を見上げた。暁美。自分とは正反対の片割れが、今日もお節介を焼きに来た。

「寒いでしょ。音楽聴くんだったら、家のほうが良くない?」

 取り外したイヤフックを自分の顔の横に掲げてみせる。限界まで伸ばされた線が少し心配になり、暁美を睨み上げた。だが暁美は素知らぬ顔で首を傾げる。夕輝は溜め息を吐いた。

「……家には、帰りたくなくて」

 ぽつりとこぼした声に、暁美は目を瞬かせる。それから、

「うん。そうだね」

 パチリとスイッチを消したように、明るかった表情が消失した。

 コートを羽織った身体がくるりと反転。学生服のスカートが翻る。そちらこそ素足を晒して寒そうだ、などと思っている間に、左隣に重みと温もりが伸し掛かる。彼女はベンチの隣に座り込んだ上、当たり前のように夕輝にもたれかかってきた。厚かましさに溜め息を吐き、夕輝は空を見上げる。どんよりと曇り空。太陽の温もりが遮断され、晩冬の寒さはしんしんと沈み込む。目の前の駅前広場を行く人は、右へ左へせかせかと歩いていく。恋人のように寄り添った自分たちに目を向けることもないままに。

「この冬が、見納めだもんね」

「……」

 囁くような小さな声に、夕輝は静かに瞳を伏せた。右耳がピアノの音を拾う。左耳のイヤフックがない所為で、ヴァイオリンの対旋律が聴こえない。それでも音楽は、一つの形を成している。ヴァイオリンなんて、はじめから必要なかったかのようだ。

「透明になったみたい」

 夕輝の肩に頭を預けたまま、暁美は前へと手を伸ばす。宙で何かを掴む動作をする。

 引き戻した手の中には、何もない。

「このまま私たちは消えていく。雪が解けて、水になって、地面に染み渡るように。春になったら、はじめから居なかったかのように、誰も私たちのこと思い出さなくなる」

 家族も、友達も、学校の先生も。すれ違う人からも、認知されなくなっていく。

「私たちは、神様だから――神様に、なったから」

「だから、それでいい」

 もぞり、と肩に乗った頭が動いた。頰に視線を感じるが、夕輝は目の前の世界を一心に見つめていた。ただ人が行き交うだけのその灰色の風景は、夕輝が心から守りたいと思った世界だった。片隅に自分を置いてくれた。抱えきれないほどの物を与えてくれた。

 をきっかけに、すべて手放す羽目にはなってしまったが。

 それでも、喪ったわけではないのだ。ただ手元にないだけのこと。遠くからいつでも見つめることができる。

 だから、夕輝は〝神様〟になる運命を、清々しい気持ちで受け入れている。

 もぞもぞと暁美が動く。何をしているのか、と視線を向ければ、彼女は夕輝の聴けない左側のメロディに耳を傾けていた。

「珍しい曲を聴いてるね」

 普段は洋楽を聴いていた。好き、はもちろんあったが、たぶん恰好をつけたくて聴いていた。ファッションの一つだった。今はその必要がない。ゆるり揺れていく時間を感じるような、風景に溶け込む音楽が気分に合っていた。

 たぶん、自分がそうなっていくから。

 左手のひらに、温もりが触れた。暁美の右手が夕輝の左手に重ねられている。

「私たちはこのまま消えていく。みんな私たちのことを、忘れていく。私たちは、居なかったことになる。――それでも」

 重なった右手の指が折り曲げられていく。手と手が繋がる。

「私は、夕輝の隣にいるよ」

 暁美と夕輝は、同じ日に生まれた。同じものを見て、大きくなった。一時切り離されてしまったが、再び巡り会い、それからはずっと一緒だった。同じものを見て、同じものに触れて、同じところに立って。

 ――同じモノになっていく。

「だからそんな顔しないの」

 小さな子どもを諭すような物言いに、夕輝は顔を顰めた。

「どんな顔」

 暁美は冬の太陽のような顔で笑うだけ。追求しても無駄だと知り、夕輝は溜め息を吐くに留める。

 ふふふ、と無邪気に笑って、暁美は夕輝の腕にしがみつき直した。恋人のような距離感は、姉弟としてもどうかと思う。が、振り払えない。その温度がひどく――切ない。

「……あ」

 暁美の大きな瞳が宙に向く。つられて見上げた夕輝の視界の中に、白いものが舞い込んだ。雪だ。春も指折り数えるほどになったこの時期に、まるで惜しむようにはらはらと、白い花が舞い落ちる。

 夕輝も暁美も言葉をなくした。

 頼りなく宙を漂う雪を脅かさぬよう息を潜めて、空を見上げる。さっきまでどんよりとしていた空は、雲が薄くなったのか、少し光り輝いて見えた。

 この世界は、美しい。

 残酷で苦難に満ちているとしても、それでもこうした儚い美しさが存在する。

 それだけで価値があるのだ、と夕輝は確信する。

 満たされた心持ちで、暁美と寄り添って、夕輝は雪が降るのを見続けていた。


 雪がいつ止んだのかは、知らない。

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