Dolphin's Dream
水平線に沈む夕日を正面にした海岸線を、歩海は歩いていた。磯の香りがする風に黄色のワンピースを翻し、ひまわりを飾った麦わら帽子を被った幼い姿。その小さな身体は、哀しみと寂しさで満ちていた。
三日前は、歩海の七歳の誕生日だった。そのお祝いに、土曜日の今日、パパに水族館に連れて行って貰う予定だったのに。
「緊急の案件ができてしまった」
そうパパが頭を下げたのは、昨日の夜のこと。大好きなオムライスは、ちっとも味がしなかった。
プレゼント買いに行こうか、と今日ママが気を遣ってくれたけれども、歩海は首を横に振った。誕生日プレゼントは大きなイルカのぬいぐるみと決めていたのだ。
その代わり、ママに海に連れてきてもらった。
それで歩海は今ここにいる。
歩海の小さな足を白い波が洗う。
晩夏の海は穏やかだったが、とても冷たかった。きゅっと足が引き締まる。歩海は腕の中のぬいぐるみを抱き締めた。ピンク色の小さなイルカは、昔パパがママとのデートのときに買ったものだった。借りているけれど、歩海のものじゃない。だから、自分のイルカが欲しかったのに。
歩海の大きな目から、涙が一つ溢れた。ざぁ、と音を立てて、波が涙をさらっていく。
――と。
海は凪いでいたはずのに、次に押し寄せる波は、歩海を呑み込むほど大きなものだった。目の前に立ちはだかる透き通った青い色。夕日を弾いてガラスのように光る。
呆然とその波を見上げていると、波がイルカの形になった。波の色と同じ青い色のイルカだ。
「こんにちは」
イルカはそう挨拶をして、顔を輝かせた歩海にぶつかった。
歩海の身体はたちまち水の中に落ちていく。
静かな海。クラゲのようにワンピースの裾を膨らませ、歩海は海中を漂った。上も青。下も碧。だけど、息は苦しくない。
右に左にと首を動かして周りを見回すと、そこには何頭ものイルカがいた。歩海を中心にくるくると泳ぎ回っている。
「うわぁ」
歩海は思わず声を上げた。息は相変わらず苦しくない。歩海はイルカたちに向けて右手を伸ばした。
と、左腕にムズムズした感触がする。腕の中のピンクのイルカが、歩海の腕の中から飛び出そうと藻掻いていた。
拘束を解いてあげると、ピンクのイルカは鉄砲玉のように真っ直ぐ飛んでいく。それから周りの大きなイルカ一頭一頭にじゃれつきだした。
「いいなぁ」
すぐに、ピンクのイルカが羨ましくなった。
歩海は賢明に手脚を動かす。スイミングで泳ぎ方は習ったはずなのに、手を掻いても脚をバタつかせても、一向に前に進まない。水を吸ったワンピースが歩海の重石になっていた。歩海は手脚を止める。俯いた彼女はプカリと浮いた。
つんつん、と太腿を突かれたのは、その後だ。振り返ると、大きなイルカが口先で歩海の脚を押し広げようとしている。意図を理解して脚を開くと、イルカの背中が脚の間に割り込んだ。
歩海はそのまま脚でイルカの胴体を挟んで、三角の背びれにしがみつく。イルカは水面に向けて泳ぎだした。まるでミサイル。勢いよく水を泳ぎ抜けていく。
目を見開いているうちに、ぐんぐんと橙色の水面が迫ってきて――
風が歩海の頬をくすぐった。
すん、と鼻を鳴らすと、甘やかな花の匂いが鼻腔に満ちる。
歩海は目蓋を持ち上げた。穏やかな振動と静かな走行音。肩から腹にかけて締め付けられた感触。
歩海はいつの間にか、ママの運転する自動車の中にいた。何が面白いのか笑い声がするラジオ。カチカチ、と右折を知らせる音。ぼうっとした頭で、歩海は車内を見回した。
手の中には、パパのピンクのイルカ。勝手に一人で遊んでいたのに、いつの間にか歩海のもとに帰ってきたようだ。身体は濡れてなくて、柔らかく温かい毛の感触が歩海の腕から伝わってくる。
「あ、起きた?」
バックミラー越しに、ママが運転席から歩海の様子を確認する。
「もうすぐお家に着くよ」
柔らかな声でママは告げる。パパももうすぐ帰ってくるから夕ご飯にしようね、とも。
「パパ、無事にお仕事終わって、明日はおやすみになったから」
だから明日水族館に連れてってくれるって。歩海の胸がとくんと跳ねた。
「明日もイルカに会える!?」
明日〝も〟? ママは首を傾げたが、特に何も言わず、そうだね、と同調した。
「歩海ね、大きなイルカ買ってもらうんだ!」
こんな大きいの、とシートベルトに身体を押し付けられながら、両手を拡げる。ミラー越しにママの顔が少しひきつるが、往路と一転して楽しそうな娘の姿に安堵の息を漏らした。
金木犀の香りが満ちていく。
ママの自動車はゆっくりと家の駐車場に入っていった。
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art_ippi✕Prologue投稿イベント応募作品
お題:夏の終わり
める*(@MerUsagi)様イラストより執筆
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