太陽と向日葵の距離
夏休みの意味を再考したくなるほど、じりつく残暑の通学路。横断歩道の向こうのコンビニに目が吸い寄せられた。学校を出た瞬間から吹き出た汗で貼り付いたシャツ。凶悪な日差しに喉はとっくに干上がっている。
冷たいもの、と言葉が頭の中をよぎり、自分の小遣いを思い出してすぐさま諦める。中学生の小遣いなんて、漫画本一冊を買うのにもためらいを覚えるレベル。うちに帰ればお茶くらいあるだろうし、アイス一本ジュース一本に使ってなどいられない。
雑念を振り払いつつコンビニの前を通り過ぎようとすると、タイミング良く自動ドアが開いて中から人が出てきた。特に理由もなく眺めた人影の正体に目を見開く。あきるほど見慣れた制服。頭高く結い上げられた長い髪に、大きな目。右手に何かのパッケージを握りしめているのは、小学校に入学したときから付き合いのある、一つ上の幼なじみ。
「あ」
向こうもこちらに気が付いた。視線があって心臓がどきりと跳ねる。
「アキくーん」
パッケージを握りしめたままの右手を大きく振る彼女に、アキこと
「久しぶりだー。元気ー?」
汗でほつれ毛が貼り付いた笑顔が眩しかった。気後れを覚えながら、適当に返事する。
「
感心と呆れを混じえつつ付け加えると、そんなことないよー、と彼女は笑いながら否定した。
「ほら。我慢できなくて、アイス買っちゃった」
見せびらかすように掲げたそれに、目が移る。珠莉の手元から漂ってくる冷気につい喉が鳴った。同時に、こんなところで無駄話している場合ではない、とも思う。
「早く食べないと溶けちゃうよ」
そんな言い訳を残してそそくさと立ち去ろうとする暁洋を、憎くも珠莉は引き留める。
「ねえ、良かったら一緒に食べない?」
これ折るタイプのアイスだから。半分あげるよ。
そのありがたいお誘いを、高いところから飛び下りるときのような気持ちで受けていることなど、彼女はたぶん想像すらしていないのだろう。
コンビニが面している通りから離れるように住宅街に入ってしばらくすると、道の角にぽつりと公園が現れる。公園なんて言っても、土がむき出しのままのところに屋根付きでテーブルと椅子が置いてあるだけの、放置された休憩所のような場所だった。そんなところでも、小さな子どもの遊び場としては十分で。それこそ珠莉とよく遊んだものだった。
もう、五年は前のことである。
「アキくん、部活は?」
丸太の椅子に座り、チューブ型アイスを二つに折りながら、今更なことを珠莉は尋ねる。
「今日は休み。先生が用事だって」
珠莉ちゃんは? と質問し返すと、
「もう引退したよ」
と返ってくる。その事実に、暁洋は彼女が年上であることを改めて思い知らされた。暁洋は中学二年。珠莉は三年。暁洋の中で〝受験〟の文字はまだ遠いものだが、彼女の中では実感が伴うものなのだ。
そのたった一年の差が、ずいぶん大きな隔たりに感じられた。
会話の切り口を失って、暁洋はアイスのチューブに口付けた。涼やかな青色はソーダ味。吸うと、溶けた薄味の甘い水だけが入ってくる。握りつぶすように押し出して、ようやくシャーベットが口の中に入ってきた。あまりの冷たさに口内だけでなく脳の芯までキーンと冷えていくような心地がする。
物理的にも頭が冷えてきて、ようやく暁洋は思い出した。
彼女から逃げようとした、その理由。
「男の俺と一緒にいると、カレシが怒ったりするんじゃないの?」
――先に珠莉ちゃんのことを知っていたのは、俺の方なのに。
夕立の恐れもない真っ青な夏空と対照的に、暁洋の心には暗雲が立ち込める。
野見暁洋は、珠莉に恋をしていた。ずっとずっと昔――それこそまだ〝恋〟の意味さえ知らないような小さなときから、彼女に惹かれ続けてきた。
まるで太陽の姿を追う向日葵のように。
無意識に。けれど、必然的に。
彼女の姿を追い続けてきた。
だからこそ。
「あのね」
冷たいのがたまらないとばかりに頬を押さえていた彼女の心の翳りに、暁洋はいち早く気が付いた。
「実は、勇吾くんとケンカしちゃったんだぁ」
青色が半分になったチューブを持った手を下ろし、紺のスカートから覗く白い脚を投げ出して、珠莉はうつむきぽつりと言った。
暁洋の心が小波立つ。灰色の波に飲まれそうになるところを踏ん張って、「何があったの?」と横髪に表情を隠した彼女に声を掛けた。
珠莉は語る。恋愛と受験勉強の両立。中学生と高校生の立場の違い。一足先に成長の階段を進むカレシは、珠莉に苦言を漏らすことがたびたびあるらしい。そういうことが積み重なって、ある日珠莉は強く反発してしまったそうだ。そのときに言ってはいけないことを言ってしまったそうで、以来冷戦状態が続いているらしい。
「解ってはいるんだよ? 勇吾くんが、私のためを思って言ってくれているってこと。実際、勇吾くんしっかりしているし……。でもね、私も言われっぱなしなのが悔しくって」
スカート上に載せた手の中でチューブを弄びながら、珠莉はポツポツと後悔の言葉を落としていく。まるで一枚ずつ花びらを落としていくような彼女の様子がいたたまれなかった。
けれど、そうやってはがれ落ちていくたびに、珠莉の素顔がむき出しになっていく。
他でもない、暁洋の前で。
その事実が、しとしとと雨が降ったかのように染み渡る。
「珠莉ちゃんは悪くないよ」
自分は珠莉の味方でいられる。そう認識できた暁洋が言えたのは、そんな月並みな言葉だけだった。珠莉を否定するはずもなく、そんな珠莉の恋人を否定するわけにもいかず。
「……うん。ありがと」
ためらいがちに少しだけ、珠莉はぎこちなく微笑みを浮かべる。失敗した、と暁洋は思った。これでは駄目だ、気休めにもならない。
「ちゃんと、話せばいいんじゃないかな。会うと喧嘩になるなら、メールとかさ。そしたらきっと――」
――解ってくれるよ。
慌てて紡いだ言葉の中に、その一言が付け加えられない。
本当は、そのカレシが珠莉を理解してくれることなんて望んでいない。彼に振られて、自分のところに落ちてくればいい。それが暁洋の本心だ。
でも、そんな汚い感情を彼女にさらけ出すことはできなかった。さらけ出せなかった。そんなことをしたら、珠莉が暁洋から離れていくと知っていたからだ。
長い付き合いだからこそ、彼女が何を好み、何を嫌うか知っている。
そして自分が、その期待に添えないこともまた。
こんな浅ましいことを考えていると知られたら、きっと失望されてしまうだろう。
だから、暁洋は自分をとりつくろった。せめて彼女を見つめる権利だけは失うまいと、その一心で彼女に助言した。
彼女が遠くへ行ってしまうと知りながら。
「そうだね。うん、アキくんの言うとおりだ。メールだったら、ちゃんと伝えられるもんね」
うんうん、と今度こそ明るい表情で頷く珠莉に、暁洋は彼女との距離を再認識して静かに絶望する。
「早速試してみるね」
珠莉は、高いところから飛び降りるように、ぴょん、と椅子から立ち上がると、鞄を取って手を振った。
そそくさと立ち去る様子は、きっと早くメールを打ちたくてたまらないのだろう。
暁洋のことなどすっかり忘れた彼女に手を伸ばし、しかし呼び止めることなんかできず、口惜しさを噛み締めながら暁洋は珠莉を見送った。
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