怨嗟のフェルマータ

 灯りのない箱の中。その一面にだけ張られた硝子窓から、青白い光が入り込む。まるで海の中にいるような四角い部屋の中で、硬質な弦の音が鳴り響いていた。

 床を隠す黒い絨毯。その中央に置かれた木の丸椅子に、黒いドレスを纏った少女が一人。凹凸の小さい発達途中の身体のラインが出るシンプルなデザイン。細い肩を覆うフリルが唯一の装飾と言って良い。少女自身は、項にかかる長さの黒髪。大きな杏色の瞳。細い腕は一挺のチェロを抱え、たおやかな指先が弦を押さえる。右手に握る弓が低い音を紡ぎ出す。

 少女は、チェロを弾く以外には微動だにしなかった。まるで楽器演奏のための人形オートマトン。杏色の瞳も青白い側光を弾くのみで、生気というものが感じられなかった。


 彼女は、この海底の部屋でひたすらに音楽を奏で続けていた。向かいにある白いソファーには、誰も腰掛けていないのにも関わらず。さらに闇に沈んでいきそうな陰鬱な曲で室内を満たしている。


 軋む音がして、部屋に一筋の光が差し込んだ。一心不乱に奏でられたチェロの音がぴたりと止まる。

 扉から入ってきたのは、一人の男だ。ビジネススーツ姿の男。年齢は三十いくかどうか。上物の仕立てや入室する所作から、男の格が伺える。洗練された動きは、もともとの育ちにしろ、後から自分で掴み取ったものにしろ、それなりの立場にいる者が身に着けるべきものだった。


 蝶番を鳴らしてかな扉が閉まる。部屋がまた、深海の闇に包まれる。その間、少女はやはり動かなかった。指一本どころか、瞳を揺らすこともない。男の登場を意に介した様子を見せず、彫像のように立ち尽くす。

 白いソファーに腰掛けた男は、低く声帯を震わせて、対面の少女に呼びかける。


「――始めてください」


 男の指示を受けた途端、少女の抱えたチェロが、弦を震わせはじめた。低く、硬く、冷たく、深く。無観客のときよりも更に陰鬱に、不安定に。不協和音も交えた短調は、ソファーで脚を組む男を拒絶するかのようで。

 しかし、そのただ一人の観客は、天上の音楽を聴いているかのように、少女の旋律に耳を傾けていた。


 弦の音がまた低くなっていく。地を這うような旋律は、何処までも硬く冷ややかで。絡みつくようにじっくりと紡がれていく。

 それはまるで呪詛だった。少女の抱く憎悪が、言葉ではなく旋律に籠められていた。振りかざされたナイフのように心の中に深く切り込まれ、火で炙ったようにじくじくと浸食していく。

 だが男は、恍惚の笑みを浮かべて、愛おしそうに少女を見つめた。


「貴女はさぞかし、私のことを恨んでいるのでしょうね」


 語りかけるその瞳には、愉悦と嗜虐の色が浮かぶ。


「彼と共に、終わりたかったことでしょう」


 少女の瞼が僅かに震えた。表情を凍りつかせた彼女がはじめて見せた変化。それに、男は気付いたのか否か。

唇を歪めたまま、少女を言葉で縛り付ける。


「ですが、貴女はもう私のものだ。私のために奏で、私の手によって壊れるといい」


 弓が弦を真横に弾いた。低音のフェルマータ。深淵からの怨嗟の声。地獄へ招くような終奏アウトロに、男は拍手もなく立ち上がる。


「また来ます」


 少女の小さな肩に手を掛けて耳元で囁くと、彼女は静かに目を伏せた。

 海底の部屋が、閉ざされる。

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