優しい天使に嘘はつけない

千馬いつき

優しい天使に嘘はつけない

 からんからんとドアベルの音がしました。お店のドアが開いた合図です。

「いらっしゃいませー!」

 わたしはすかさず、お母さんのマネをするようにに向かいました。もちろん、お母さんが作ってくれたエプロンをしっかりときて、アルミのおぼんをしっかりかかえて、もわすれません。

 やってきた大人のおねえさんが、しゃがみこんでほほえみかけてくれます。

「また来たよー。なぎさちゃん、できてえらいねぇ」

 おねえさんもニコニコしていますが、ちょっとだらしないカンジです。

「えへへ。なぎさ、もうすぐ小学生になりますから。これくらい、できてとうぜんなのですっ」

「ふふ、ここのお店のかんばんむすめちゃんは、ほんものの天使さんね」

 むふん、まかせてください!


     *     *     *


 喫茶『あまやどり』の看板娘は天使のように可愛い。たしか、最初はそんな感じだったと思います。

 物心ついた時には、それが私への褒め言葉になっていました。お父さんやお母さんも、学校の先生だって、天使のように優しいとか、とにかく天使って言葉を使って褒めてくれます。

 それはいいんです、とっても嬉しいので。むしろそう言ってくれるから頑張れちゃいます。


 お掃除も、食器洗いも、お洗濯も、お料理だってやってみせましょう。

 大荷物を持っているお爺さんお婆さんをみかけたら、一緒になって運びました。

 小学校でも私のスタンスは変わりません。私は天使の名に恥じぬよう心がけました。

 隣のクラスに教科書を忘れた子がいたら、私のそれを貸しますし、放課後に塾を頑張る子が日直をするなら、帰りの黒板消しくらいはお手伝いします。

 ふふ、宮沢賢治の雨ニモマケズ、みたいですね。私の苗字、雨宮なので、ちょうどいいかも……なんてのんきなことを言っていられたのも、中学生になるまででした。


 中学生になってから、私の見える景色が変わりはじめました。

 優しい白い光と、怪しい黒いモヤモヤが、たまーに、感じられるようになったのです。ちょっと鬱陶しく感じる時もありますけれど、触れないし吹き飛ばせもしないので、無視するしかありませんでした。

 そんな光とモヤが見えるようになってから一年も経つ頃には、なんとなく仕組みがわかってきました。


 そんな中学二年生の、梅雨の時期の頃のこと。

 久しぶりの快晴だったので、私がベランダに三人分のお布団を干していると、お母さんから声をかけられました。

「渚沙ちゃん、いつも本当にありがとう。でもよそ様の家にお泊まりしているわけじゃないんだから、お休みの日くらい、楽にしててもいいのよ?」

 そういうお母さんは、私のことをちゃん付けで呼びます。いや、他人行儀だと思っているわけじゃないんですけど。

「そう? じゃあお布団、冷え込む前に取り込んでね」

 たまには一人になりたい時もあるのでしょう。それに、お母さんが二階にいるということは、一階の喫茶店を回しているのはお父さんだけ……少し心配でした。

 お手伝い用のブラウスを着て、濃紺のパンツを穿き、『あまやどり』のロゴが印字されたエプロンの紐をきゅっと結びます。準備完了、私はお店に顔を出しました。

「いらっしゃいませー」

 自宅から直通の戸を開けてキッチンカウンターに出ると、ちょうどコーヒーを淹れているお父さんと目が合いました。昔から笑うと深い皺ができる人でしたが、最近は笑わなくても皺が濃いです。

「渚沙? お前、今日シフトないだろ」

「お母さんが家事やるって言うから任せてきたの。それ、出すよ。何番?」

「三。あとフレンチがある」

「りょーかい」

 フレンチトーストができる前に、手を洗ってお盆の準備。フォークやナイフがまだだったので、セット用のカトラリーを並べます。

 お父さん特製のできたてフレンチトーストと共に、ホットコーヒーもお出しして、ついでに退店済みのテーブルのお皿も下げました。

 ダスターでテーブルクロスを綺麗に拭いたところで、微かに、白い光が宙に浮いて溶けていきます。

「手伝ってくれるのは嬉しいんだが……渚沙」

 他のテーブルも拭きに行こうとしていた私は、足を止めて腰だけ捻って振り返ります。

「うん? なに?」

 お父さんは、なんともばつが悪そうに、シンクの水を流すだけでした。

「あー……いや、なんでもない」

「そう? ならいいけど」


 ――ぎこちない。


 中学生になってからの私は、そんな空気に囲まれることが多くなりました。

 両親ですらこんな感じですから、学校ではもうちょっとあからさまです。

 例えばこれは、放課後になった時のこと――。

「五井。急で悪いが準備室に置いてある段ボール、ちょっと運ぶの手伝ってくれないか?」

 声をかけられた五井さんは、女子バスケ部のエースなのです。そんな五井さんの頭上に、面倒ごとがスイッチとなって、黒いモヤが生まれました。

 これは良くない予兆です。放っておくと、ゴミ袋や新聞紙が飛んできたり、時にはテストで回答欄を間違えたり……なんて不幸が起きるのです。この一年で身をもって学びました。

「ええ~? 蘇我センセー、あたし今から部活なんですけどー」

 蘇我先生は私のクラスの担任で、物理の担当です。でも白衣はやたら汚くて、どちらかというと美術とか書道とか言った方が説得力がある雰囲気の人です。

「ねえ五井さん、私変わろっか?」

 声をかけると、五井さんはきょろきょろと忙しなく視線を泳がせました。

「え、いや、でも、雨宮さん……」

「うん? バスケ部、あるんでしょ? 頑張ってね」

 するとここで、五井さんの頭上に浮かぶモヤモヤが晴れます。

「あ、ありがと……」

 ほっと一息つきつつすれ違う――その瞬間にも、遠巻きに眺めていた女子たちのひそひそ話が聞こえました。

「雨宮さん、いくらなんでも優しすぎ」

「ねー。あ、蘇我先生狙ってるとか?」

「あは、さすがにないでしょ。でも、なにかあると思うな」

 ――なにもないんだけどなぁ……。


 私、ちょっと変なのでしょうか。どこか、おかしいのでしょうか。

 蘇我先生のお手伝いを終えた帰り道、私はつい、そんなことを考えていました。

 ぽつ。頭に冷たい雫が落ちてきて、我に返った私は空を仰ぎます。どんより、曇っていました。年季が入って錆びついたような分厚い雲は、疑うまでもありません……夕立です!

 ざああ、とまるで私が気づくのを待っていたかのように、土砂降りの雨が私を走らせました。

 どこか雨宿りできるところは……! 記憶の地図を検索して、道を曲がった先の公園を目的地に設定します。あそこには、屋根のついたベンチ――東屋があったはず!

 歩道をカーブした瞬間、私はとんでもない光景を目にしました。

 腕を生やしたカラスのような黒いそれが、サッカーボールを抱えて車道に飛び出していったのです。それに注目しろと言わんばかりに、正面からスポットライトで照らされています。

 なんでしょう、あの奇妙な生き物は――呆気に取られたからか、ザアザア降っているはずの雨音が消えました。

 サッカーボールを追いかける少年が、ゆっくり、はっきり、車道に飛び出していきます。

 スポットライトはその光を強めるばかり。

 当然です、だってトラックですもの。

 悲劇を予感した私の頭は使いものにならなくなっていて。

 ただただ、身体が動いていました。


     *     *     *


 …………ピ。…………ピ。…………ピ。

 静かな電子音がゆっくりとした感覚で繰り返されています。

 なんの音かわからなくて目を開くと、見知らぬ天井が広がっていました。どしゃぶりに晒されたはずの私の身体は、柔らかくて暖かなベッドに寝かされていて……病院ですね、ここは。

「渚沙! 母さん、渚沙が!」

「ああ、よかったぁ……!」

 急にわっと、お父さんとお母さんが寝ていた私に詰め寄ってきました。びっくりしましたし、心臓もバクバクいっていますけど、どうも全身がなにかにぎっちり巻かれていて、まともに驚くことすらできません。

「ええ、と……なん、で」

「渚沙ちゃん、車道に飛び出した男の子を助けて轢かれたのよ!」

 言われてハッとします。

「あの子はッ! っぅ~……」

 飛び起きようとしましたが、包帯やギプスに固定されて動けません。なのに、ズキズキと骨や体中が軋んでいます。

「お、落ち着くんだ、渚沙。……事故の時にいた男の子のことなら大丈夫。渚沙が背中を押してくれたおかげで、反対車線まで行って無事で済んだんだ」

「そっか……良かった……」

 とりあえず、あの子が無事だったようでなによりです。ほっと一息つくと、お母さんの顔が真っ赤になりました。

「なんでいつも他人のことばかり! 少しは自分のことも大切にしてよ……!」

「落ち着いてくれ、母さん。……渚沙。父さんたち、本当に心配したんだぞ。生きていることが不思議なくらいだって医者に言われた時は、どんな天罰が下されるかと……」

 お母さんの背中を優しく撫でるお父さんは、そこまで言って、声をしぼめました。

「ご、ごめんなさい……」

 こういう時、なんて言えばいいんでしょう。わかりませんけど、謝らなければいけない気がして、謝りました。

 会話が終わって、始まる沈黙。別に普段なら気にならない微妙な間ですが、今だけは違いました。頭が、脳が、お父さんの言葉を振り返って、違和感を絞り出します。

「……天罰って、お父さんなにか悪いことしたの?」

 お父さんは眉根に皺を寄せて、助けを求めるようにお母さんの方を見ました。言い淀む。それすらも、私たち家族にとっては言葉でした。

 お母さんはなにかを諦めるように儚げに笑って、首を横に振ります。

「渚沙ちゃん。驚かないで聞いてね。……実は、渚沙ちゃんは……私たちの、血の繋がった娘じゃないの」

 予想もしていなかった言葉の濁流が、突如として押し寄せました。

 どうやら私は捨て子だったそうで……お父さんとお母さんは、子供が産めないそうで……かろうじて聞き取れたのは、そのあたりまででした。


 じゃあ、本当のお父さんとお母さんは、どこにいるの……?


     *     *     *


「見つけた」

 聞き覚えのない、けれど優しさに満ちた男の人の声が聞こえて、目が覚めます。

 カーテンの隙間から漏れる月明かりに照らされて、男の人が立っていました……背中に柔らかそうな白い羽毛たっぷりの翼が生えていますが。

 夢ですね、これは。

「父さんだ、わかるか……? まあ、わかるわけないよな……」

 自嘲気味に笑うと、顔中のあちこちに皺ができました。

 冗談めかして私の父親を自称する人は、『あまやどり』の常連さんにいますが……この人の今の言葉は、よく聞く冗談とは比較にならないほど重たく頭に響きます。

「ほら、レヴィ。娘が目を覚ましたぞ」

 翼男さんの顔が動いて、私はようやく、部屋の中にいたもう一人の人物に気づきました。そして、さすがに呆気に取られます。

 上半身こそ、服を着たお胸の大きな美人さんでしたが……腰回りから下が、ひれの大きな魚人さんなのです。

 いや……さすがにこれは……夢にしてもおかしすぎますね。

「……はじめまして、ヴィーラ」

 おまけに、勝手に名付けられました。ちょっと恐いです。

 包帯とギプスで身体は動かせず、手元にあったはずのナースコールも寝相で遠ざけてしまったのでしょう。仕方ありません。

 ただの夢であってほしいと切に願って、私は頷くように首を動かしました。

「渚沙です。私の名前は雨宮渚沙といいます」

「そうか……人間界ではそういう名前をつけられたんだな。俺はルシファー……そして、こっちが妻の」

「レヴィアタンよ」

「ヴィーラの……いや、ナギサのセイントが強まってくれたおかげで、ようやく探し当てることができた」

「セイント……?」

 頷いたのは、レヴィアタンと名乗った人魚さんです。

「ルシファーやヴィーラのような天使には、セイントという天界の力が宿っているの」

「渚沙です。ヴィーラじゃありません」

 ちょっと強めに注意すると、レヴィアタンさんは複雑そうに眉を顰めました。すかさず、ルシファーさんが彼女の肩に手を置きます。

「ナギサと呼んでやろう。俺たちの娘は、そう育ったんだから」

「……さっきから、なんなんですか、お二人は」

 初対面でいきなり私をなれなれしくも娘扱い。はたして不審と呼ぶには翼やヒレの扱いに困りますが、不愉快な方々であることはたしかです。

 けれど、私の構えた警戒心は、一瞬にしてほぐされました。

「なあナギサ。俺の指先に、模様が見えるだろう」

 ルシファーさんが立てた人差し指から、白く濃い光が線になって伸びて、四回、鋭角に曲がり星形を作ります。

「え、その光……!」

 この一年、たまに現れる、おかしな光とそっくりでした。

「これがセイントだ。俺たち天使はこの力を使って、魔界から悪さをしにやってくる悪魔を倒す」

 悪魔。言われて、すっかり忘れていた存在を連想しました。

「じゃあ……サッカーボールを抱えていたあれが……」

 はっきりと憶えています。腕を生やしたカラスのような、黒い不気味な生き物。

「……やはり、無自覚だったか」

「仕方ないわよ。人間界の人たちは、私たちの存在がわからないもの」

 ルシファーさんが立てた人差し指を頭上へ掲げると、星を描いていた光の線が面になって、私たちの頭上に円盤のように広がりました。

 温かい、優しい光……。

「ナギサ。俺たちと話せるということ自体が、まずお前が人間界で生まれた人間ではないということなんだ。それはわかるな?」

 その口ぶりから察せることはとても現実離れしたものばかりですが……不思議と、納得できました。

「急な話で悪いが……俺たちと一緒に来てくれないか」

 これが夢なら、無責任に「はい」と答えてもよかったのでしょう。

 けれど夢だとは、到底思えなくなっていました。

 ここで「はい」と答えたら、戻ってこられなくなってしまうかもしれません……。

 それでも。

「ぜひ。私も、お二人のこと、自分の力のこと……ちゃんと知りたいです」

 純白色の輝きが、柔らかく私を包みました。


     *     *     *


 不思議な光が晴れると、そこはまるで絵本に描いた天国のような世界でした。

 お花畑が地平線まで広がっていて、レンガを積み上げて作った大小様々な民家が、あちこちに点在しています。

 それが天界の田舎村だというのですから、驚きですよね。

 あ、驚きと言えば。

 レヴィアタンさんは、天使ではなく人魚の悪魔なのだそうです。十五年前に天界と魔界の戦争があって、そこでルシファーさんと出会って恋に落ちたそうで。

 二人はお互いに自分たちの地位と恋人の命を秤にかけて恋人の命を選んだ結果、天界の片隅でこうしてひっそり暮らしている……という、ずいぶんと過酷な運命を辿っていたと聞きました。

 私が生まれたのは、二人がまだ、それぞれの軍勢から裏切り者として追われている真っ最中の頃のことだそうです。二人にはとても赤ん坊の私を育てる余裕などなく、人間界なら安全だろうという判断で置き去りにしたものの、いざ落ち着いてから探しに来た頃には私は雨宮家に引き取られていて見つけられなかった、ということらしいです。


 そんなレヴィアタンさんは、人魚の悪魔だけあって、水の魔法が使えます。その水で満たされた湯船に浸かると、温泉すら比べものにならないくらいの効能が発揮されます。

 トラックに撥ね飛ばされて全身をギプスや包帯で固定されていた私ですが、たった一時間で自分の足で立ち上がれるほどに回復しました。

「まだあんまり動いちゃダメ。完治までは、もう何度か入ってもらわないと。それまでは、慎重にリハビリね」

「はい! ありがとうございます、レヴィアタンさん!」

「お母さん、でしょ。まあ、慣れるまではレヴィでもいいわ」

 自力で着替えられるようになった私は、びしょびしょになった入院服や包帯から、レヴィさんからお借りしたお洋服に着替えます。レヴィさんは上半身用のお洋服しか持っていませんが、大人用なので、小柄な私が着ると膝上丈のワンピースみたいになりました。

 天界のお洋服は肌触りのいい布でできているようです。買ったばかりのタオルケットだって、こんなにさらさらふわふわしていませんから。

「袖はまくって手首の位置で紐で留めれば……そうね、腰にも巻いてみたら可愛くなりそう」

「わあ……! レヴィさん、センスいいです……!」

「ふふ。ありがと、ナギサ。さ、ルシファーにも見せびらかしにいきましょ」

 この家は、現実的に言えば2LDK風呂トイレ別の平屋建て。お二人それぞれの寝室と、あとは食事をしたりくつろいだりする広間が一つの、簡素な造りです。

 庭に出て、畑のような場所で見たこともない桜色の野菜を収穫しているルシファーを見つけました。一見するとブロッコリーですけど、見た目だけならサンゴの方が近いです。

「ルシファーさん、なにかお手伝いすることありますか?」

「なに言ってるんだ、今は回復に専念……おお」

 振り向いたルシファーさんは、しばらくぽかんと口を開けて、まじまじと私を見つめてきました。ちょっと恥ずかしいです。

「そ、そんなにじろじろ見ないでください」

「悪い。いや、とっても似合っているからな……可愛いよ、ナギサ」

「ちょっとルシファー、あたしが新しい服着ても感想聞くまで言わないくせに、ナギサには自分から言うのね?」

 私がお礼を言うより先にレヴィさんがくってかかって、ルシファーさんはわかりやすくうろたえました。

「いや、だって君に言う時とはニュアンスが違うというか……勇気がいるんだ……」

 あーはいはい、そういうのはよそでやってほしいです。

「おほん。あの、説明してほしいことはまだたくさんあるのですが」

 私が咳払いすると、二人はそっくりな照れ笑いを浮かべました。


     *     *     *


 それから数日、私はルシファーさんやレヴィさんと同じ時間を過ごしました。

 セイントの仕組みと使い方。ルシファーさん曰く私は筋がいいそうで、同世代の天使と同等のコントロールができるようになれたみたいです。

 レヴィさんからは天界と魔界についての知識を教えてもらっています。レヴィさん、教えるの本当に上手なんですよ。私、徳川十五代将軍は家康しか言えないのですけど、七罪しちざいという魔界幹部は新旧合わせて十四人、すべてそらんじれるようになりましたもの。


 そんな天界での日常も楽しいのですが、日が経つにつれて、人間界に残したお父さんとお母さんの心配もどんどん膨らんでいきました。

 だからでしょうか。

 朝から、二人の様子がおかしいと感じてしまうのは。


「ルシファーさん。私、人間界と天界を行き来するあのセイントを使えるようになりたいです」

 そうお願いしたら、ルシファーさんは少しだけ目を伏せて、肩を震わせました。

「……やっぱり、人間界に帰りたいのか」

 そのセリフを、どうして悲痛そうに言うのでしょう。

 私はまた、ここへ来たいから言ったのに……。


「レヴィさん。ここの食材を使えば、フレンチトーストができると思うんです。ちょっとやってみていいですか?」

 レヴィさんは、エプロンの端をきゅっと握って、ぎこちなく微笑みました。

「天界のお料理は、口に合わないのかしら……」

 そんなつもりで言ったわけではないんですよ? ただ、私の得意料理を知ってもらいたかっただけなのに……。


「あの。私はいつ、人間界に戻れますか?」

 夕食の最中、ぽつりと放った質問は、ルシファーさんとレヴィさんの手を全く同時にピタリと止めました。

「な、ナギサ? 待ってくれ、戻るなんて」

「そうよ、ずっとここにいていいのよ?」

 私は静かに首を横に振りました。

 少しだけ勇気を振り絞って、告げます。

「私は、ヴィーラさんじゃありませんね。お二人も、最初から気づいていたのでしょう?」

 ルシファーさんとレヴィさんは、顔を見合わせるでもなく、ただただ、真剣に目を瞑るだけ。

 ……やっぱり、そうなんですね。

「ナギサは、いつ、気づいたの」

「いつというより、だんだんと……です。一つひとつの違和感は、別にたいしたことじゃないんです。勘違い、言い間違い、ど忘れ……そういうことってよくあるじゃないですか。私だって、よくありますし」

「じゃあ、どうして確信できたの」

「お二人と過ごして受ける違和感は、不思議と一貫性があるんです。普通そういうのって、とりとめがないものなのに。一貫性があるってことは、理由があるってことです。気持ちのせいか、事情のせいかは、物事によるんですけど」

「……すごいな。そういうことが、わかるのか」

 ルシファーさんが、肩の力を抜くように息を長く吐きました。

 どうやら、降参してくれるようです。

 あらゆるすべてを信じきること。それを突き詰めた私は、

 すべてを正しいと信じて矛盾が起きれば、信じたどれかが間違っているわけですので、どうしてそうなったのかを考えると、自ずと矛盾の原因がはっきりします。あとは、その回数と、関連性で、かどうかがわかります。

「私が人間ではなく天使というのは本当でしょう。そして親が天使というのも本当でしょう。けれど、二人は違います。私をヴィーラさんに見立てることで、寂しさを埋めたかっただけ。違いますか」

「ああ……。ナギサの言うとおりだ」

 ルシファーさんとレヴィさんに、悪意があったわけではないのです。

 ただ純粋に、子供――ヴィーラさんに会いたいという気持ちが強すぎて、私の誘拐という形で、魔が差してしまっただけ。

 私と過ごす数日は、きっと二人にとっても間違いに気づくきっかけとなったはずです。だから日に日に、罪悪感が増していった――それをずっと、私も感じていたのです。

 だから私は、二人を責めるつもりはありません。……ふふ。こんなことを言ったらまた、お母さんに自分のことを大切にしなさいと怒られちゃいそうですけれど……ね。

「ルシファーさん。レヴィさん。一つ、折り入ってご相談があります」

 椅子に座ったまま気をつけの姿勢をして話しかけると、二人のまっすぐな目が私を見ました。

 大人の人の真剣な顔を向けられると、ちょっとドキドキします。

「私、私と血の繋がった両親を探したいです。きっとルシファーさんやレヴィさんのように、私がいないことで苦しんでいるかもしれないから……」

 レヴィさんが瞳いっぱいに涙を浮かべました。呟いたごめんなさいという言葉は、顔も名前もわからない、本当の私のご両親に向けられた言葉でしょう。

「だから協力していただけませんか? 天界に、私のご両親がいるかどうか、探してほしいんです。私は私で、人間界にヴィーラさんがいないか探してみますので」

 ルシファーさんが両目をまん丸に開きました。そんなに驚く提案だったでしょうか。

「君を攫ったんだぞ……俺たちは……ッ」

 そんなこと、私は気にしませんってば。

「私の大怪我をこんなに早く治してくれたじゃありませんか。それだけじゃないですよ。セイントだって、熱心に教えてもらいました。ほら」

 私は両手の人差し指を立てて、顔の左右で踊らせました。するとセイントのラインがリボンのように宙を舞って、光り輝きます。

「ひぐ……っ、君という子は……っ!」

 ああもう、せっかくの男前が台無しですよ、ルシファーさん。

 私がセイントを引っ込めると、ルシファーさんも涙を引っ込めて……力強く、頷いてくれました。

「……わかった。俺からも、ぜひ頼む」

「もちろん、あたしからもよ」

「決まりですね」

 食事中にお行儀が悪いですが、私は拳を突き出しました。ルシファーさんとレヴィさんも、こつん、と拳を合わせてくれます。

 やることが決まったら、後はもう動くだけでした。天界から人間界へ帰る前の、最後のごはんをしっかり味わっておかないと!


     *     *     *


 ルシファーさんがお庭に開いてくれた青い光のドーム――人間界へ続く転移セイントへ飛び込む前に、私は今一度、二人に声をかけました。

「あと二週間もすれば夏休みが始まるはずです。早速、調べてみますから」

 天界で過ごしている間に、人間界では六月から七月に移っているはずです。

「夏休み……ナギサ、時間に自由が利くのか?」

「一ヶ月以上は」

「なら先に、挑戦してもらいたいことがある」

 ルシファーさんの声が、より一段と真剣なトーンになりました。

「な、なんでしょうか……」

「二十日後。聖杯カリス協会本部が運営する雛天使向けの夏期合宿があるんだ。そこに参加して、大天使の資格を取ってきてほしい」

 天使には階級があります。上から順に、聖天使、熾天使、智天使、座天使、主天使、力天使、能天使、権天使、大天使、雛天使。

 誰もが最初は雛天使から。資格試験をパスすることで、上への階級へとあがっていきます。

 ちなみに、ルシファーさんはなんと熾天使まで上り詰めたことがあるそうです。しかし、悪魔のレヴィさんと駆け落ちしたので、堕天使として資格を剥奪されているのでした。なんだか警察ドラマのお話みたいですね。

「大天使の資格って、そんな簡単に取れるんですか?」

 去年、大学生の常連さんが、合宿免許とやらで二週間で車を運転できるようになっていましたが……それと同じような感じでしょうか。

「そりゃ、最初の資格試験だからな……セイントの基本ができていれば大丈夫だ。ただ、一人前かどうかを見極める試験だから、落とされないわけじゃないぞ」

「が、頑張ります……。ちなみに、大天使になると、どうなるんですか?」

「いくつか使えるセイントが増える。人間界から天界に移動する【転移セイント・ホワイト】が、まさにそうだ」

 言われて、私は首だけ後ろを向きます。今さっきルシファーさんに開いてもらった青い光のゲートが、煌々と輝いています!

「これが使えるようになるんですね!」

「あ、ナギサ? 天界から人間界へ移動できる【転移セイント・ブルー】は、権天使からよ。あなたやあたしたちが特殊なだけで、一般の天使は権天使以上の責任者がいないと人間界へ行けないの」

「ああ、そういうルールなんですね。わかりました、頑張りますっ」

 敬礼のように右手をおでこに添えると、なにが面白いのか、ルシファーさんとレヴィさんにくすりと笑われました。……さすがに子供っぽかったでしょうか。

「じゃあまた、連絡しに行くからな。それまで元気でいろよ」

「ナギサ。誰かのために無茶しないでね」

「はい。お待ちしてます! ルシファーさんとレヴィさんも、お元気で!」

 大きく一度手を振って、私は【転移セイント・ブルー】へと踏み込みました。


     *     *     *


 眩しいほどの青い輝きに包まれること数秒で転移は完了し、私はこの間トラックに撥ねられた地点へ戻ってきました。

 どうやら、ルシファーさんが私のセイントを感知した地点がここだったようですね。

「……よしっ」

 帰ったら、お母さんたちに、心配をかけてしまったことを謝らないと。

 そして、信じて貰えるかどうかわからないけど、私が天使だってことや、これからのことを伝えなきゃ。

 そう考えて歩いているうちに、懐かしい『あまやどり』が見えてきました。

 扉の前で立ち止まって、深呼吸します。

 急に帰ってきたら……怒られますよね?

 ううん、ここは元気良く!


 からんからん!

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優しい天使に嘘はつけない 千馬いつき @itsuki-senma

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