[4-3] 開戦前夜
「下衆め。早々に立ち去れ、リューキチ」
結衣さんがハッと振り向いた。
愛らしい瞳を、これ以上ないほどに大きくして驚愕している。
「秋次郎さん……」
「結衣さん、迎えに来ましたよ?」
結衣さんの隣まで足を進め、リューキチを見下す。
「去れ」
「はぁ? お前、頭大丈夫か? いや、もう既に記憶喪失でおかしくなってたんだっけ? まぁ、仕方ないか。口のきき方がなってないのは許してやるよ」
そう言って、リューキチは水の入ったコップをゆっくりと手に取ると、それからぱしゃりとその水を私の足元へ放った。テント地ズボンの脛下に水が散る。
「横田、許してやるから大人しく帰れ。俺は絶対、今日を交際始めの記念日にしたいんだよ。今日は柏森の誕生日だからな」
反吐が出るような言い草。
「それはお前の唯我独尊な願望ではないか。結衣さんの気持ちは考えないのか」
「お前? 先輩に対する口のきき方が全くなってないな。思い知らせてやろうか?」
「私の質問に答えろ」
じわりと周囲の喧騒が静まる。
結衣さんは、下唇を噛んでリューキチを睨み付けている。
「はぁ? 柏森の気持ちは考えてるさ。柏森はな? 本当は、記憶喪失になっちまった幼馴染みからどうにも手を引き辛くて困ってんのさ。だから俺が助けてやるんだよ」
ガタンとテーブルが音を立てた。
見ると、身を乗り出した結衣さんが、肩を怒らせて膝に置いた拳をがたがたと震わせている。
私は、その結衣さんを制するようにそっと手を出し、それから鋭い眼光をじわりとリューキチへと向けた。
「ひとつ、
「……は?」
「お前は早々に去り、そして海軍五省を読め」
私はそう吐き捨てるように言うと、やや身を折ってぱっぱっと脛下の水を払って、それから震える結衣さんを優しく覗き見上げた。
「結衣さん、帰りましょう」
「は、はい」
結衣さんが立ち上がる。
「あー? ちょっと待て」
するとすぐに中腰になったリューキチが、結衣さんの手首を掴んで乱暴に引いた。
「まだ終わってないだろ? 横田、邪魔すんなっ!」
「痛いっ」
思わず手が出た。
衣擦れの音と共に、ぎりりとひしぎ上げられたリューキチの手首。
「えっ? あ、痛てててて!」
「私の
結衣さんがハッとした。
リューキチの顔がこれでもかと歪む。
「い、いいなずけ? 痛てててて!」
「どうした。掛かって来い。真に結衣さんを想い、命を投じてもその幸せを護らんとするならば、これしき厭うに値せんはずだ」
「け、結局、暴力かっ、野蛮人がっ」
「戦って護ることこそ男の使命だ。真に大切なものに手を掛けられ、その幸せが脅かされんとしておるのに、御託を並べて銃を取らず、正義の戦いすら否定するような奴は……、それは男ではない」
「痛ててて、お、お前、なに言ってんだ? バカじゃね?」
「大人しく去れ。ここでのお前の無様は、他の者には黙っておいてやる。二度と結衣さんに近づくな」
私がそう言って、さらにリューキチの手首を締め上げたとき、背後からずいぶんと慌てた様子でボーイが駆け寄って来た。
「お客さま、あの……」
「騒がせて済まない。もう終わる。金はこの男が払うから心配するな。そうだな? リューキチ」
「い、痛ててて。分かったよ。分かったから離せっ!」
「ふん」
私が手を緩めると、すかさずリューキチがそこから手首を引き抜いた。
「横田っ、お前、警察に訴えてやるからな」
「構わんぞ? そうすればお前が結衣さんに為した暴行も、併せて白日の下に晒されることになるのだ。そして、お前の男としての安さが学校中に拡散することになるだろう。好きにしろ」
どさりとリューキチが腰を落とす。
私は、ゆっくりと手を差し出して、結衣さんを覗き見上げた。
「結衣さん、行きましょう」
「え? あ、はい」
立ち上がった結衣さんが、ペコリとリューキチに頭を下げた。
しんと静まり返る店内に、天井の拡声器から降る清楚なピアノ小曲だけがゆらりとしている。
私は、ホールの中央へと振り返ると、それから他の客らに深々と一礼した。
「お騒がせして申し訳ありませんでした」
結衣さんの手を引いて、ゆっくりと歩き出す。
背後でリューキチがなにやら雑言を言っていたが、捨て置いて私たちは店をあとにした。
バスを待つ間、結衣さんはずっと下を向いて黙っていた。
いつもの、飛行甲板のような歩道下の停留所。
バスが通るたびに、ガス混じりの熱気が頬を撫でるが、デッキの下で日陰となったそのベンチは意外にも清々しかった。
隣に座る結衣さんは、なにやら制服スカートの膝の上で、絡めた両手をもじもじとさせている。
「結衣さん、すみませんでした。また諍いを起こしてしまって」
「い……、いえ。ありがとうございました。あの……、とっても、嬉しかったです」
顔を上げては、私の顔を見てハッとまた下を向く結衣さん。
「結衣さん、お誕生日、おめでとうございます。ごめんなさい。今朝、母に教えてもらったのですが、結局まだ贈り物を用意できていなくて……」
「え? いえ、その……、あたし、とっても素敵なプレゼント、もうもらいました」
「いや、私はまだなにも……」
「あたしのこと、『許嫁』って言ってくれました」
「ああ、あれは――」
「分かってます。でも、嬉しかったんです。だから、それでいいんです」
そう言うと、結衣さんは絡めていた両手を離し、それからゆっくりと私の手を取った。
「最初は、秋次郎さんが悠くんをどこかへやってしまったって、ちょっと恨んでました。全く秋次郎さんのせいじゃないのに。でも、だんだん秋次郎さんのことが分かって、あたしを護ってくれるたびに……、その……」
「悠真くんのことは今でも申し訳なく思っています。しかし、二瀬が方法を見付けてくれて、私があちらの時間線へと戻ることができれば、悠真くんが帰ってくるかも――」
「いえ、あたし……」
結衣さんが、じわりと私を見上げた。
「あたしは大丈夫です。いまのあたしには、秋次郎さんが居てくれますから」
「結衣さん……」
右手の高層建築の窓に、傾き始めた太陽がきらりと映った。私は両手を膝の上に揃えると、背筋を伸ばして結衣さんへしっかりと瞳を向けた。
「私は、悠真くんの代わりにはなれません」
「代わりじゃありません。あたしはちゃんと、秋次郎さんを秋次郎さんとして大切に思っています」
「それは光栄です」
「だから……、秋次郎さんは居なくなってはダメです」
「しかし、二瀬も結衣さんも、私を元の世界へ戻してくれると言ったではないですか」
「そんなこと忘れました。勝手に居なくならないでくださいね? あたし、許しませんから」
「これはこれは」
「あはは」
バスを降りる寸前、結衣さんの電話に母上からの文字通信が舞い込んだ。
【あとどれくらい? 帰ってきたら悠ちゃんを家に連れておいで】
珍しい。
結衣さんが横田家に長居することはしばしばだが、私が柏森家へとお邪魔することは稀だ。
「秋次郎さん、帰ってから何も用事はありませんか?」
「え? はい。特に何も」
停留所から坂を上りながら、私を見上げた結衣さんの満面の笑み。
いつにも増して愛らしい笑顔だが、どうやら言葉遣いは元に戻らなくなってしまったようだ。
我が家を背にして、柏森家の玄関をくぐる。
「お帰りー、結衣っ! 悠ちゃん、いらっしゃい!」
「おーう、悠真、お帰りーっ。ちゃんと結衣ちゃんにプレゼントあげたー?」
出迎えたのは、結衣さんの母上と、悠真くんの母親。
廊下の先に見えた居間の卓上には、処狭しと料理が並んでいる。
「え? ただいま……。あの、どうしたの?」
「いやー、サプライズよっ? 結衣の誕生会っ! 悠ちゃんのお母さんと準備したの」
大きく手を広げた結衣さんの母上が、ぎゅっと結衣さんを抱きしめながら私に目をやる。
「悠ちゃん、一緒にお祝いしてね? 結衣っ、十七歳、おめでとうっ!」
「お、お母さん、苦しいっ」
母上に抱きしめられたまま、居間へと連れられて行く結衣さん。その後ろ姿を眺めつつ、悠真くんの母親が私に耳うちした。
「結衣ちゃんの誕生日のお祝いと併せて、新悠真が横田家へ来て四か月のお祝いね」
双方の父上は、先ほど家路に就いたばかりでまだ帰らぬとのこと。
卓上の中央には、
居間に座して、食卓を囲む。
母親ふたりは缶詰入りの麦酒をコップに注ぐと、なにやら恭しくカチャリと乾杯を交わした。
「結衣も悠ちゃんも、もう十七歳かぁ」
「結衣ちゃんと悠真、なんかついこの前まで、ふたりでお父さんお母さんごっこしてたような気がするけどねぇ」
ニヤリと上げた口角を我々に向けるふたり。
「あああ、もう、変なこと言わないでっ」
結衣さんが顔を赤らめて、地団駄を踏んでいる。
十七歳。
あの鏡台を贈り、ふたりで記念の写真に納まったときの志保も、結衣さんと同じ十七歳であった。
「はい。結衣ちゃん、おばさんからのプレゼントはお化粧のスターターセットね。そろそろ覚えてみたら? 美人さんだから、お化粧すっごく似合うと思うわよ?」
「いやー、美人じゃないし。それにあたし不器用だから、お化粧なんて自信ないなー」
その答えに、結衣さんの母上がハッとした。
「あ、お化粧と言えば、結衣、あのお婆ちゃんとこから持って帰った鏡台って、まだ悠ちゃんの部屋に置いたままなのよね。もういい加減に迷惑過ぎない? ね? 悠ちゃん」
「え? んんっ」
結衣さんの横顔に見入っていたところに、突然振られた問い。口に運んでいた清涼飲料が、不意に喉をむせさせた。
「い、いえ、迷惑ではありません。毎日、とても美しい鏡台の姿に癒されております。大切になさっていた、曾祖母さまのお人柄が窺えるようです」
「ほーう、悠ちゃんって、なかなかシブい趣味してるわね。そう言えば、その曾お婆ちゃんの誕生日って、結衣と一日違いなんだよ? 明日、八月八日」
そうだ。
たしか、志保の生まれは、大正十一年八月八日であった。
結衣さんの母上が、私のコップに清涼飲料を足しながら、思い出話に花を咲かす。
「志保お婆ちゃん、ちょっとだけ誕生日のこと話してくれたことがあったなー。戦争最後の年の誕生日は大空襲があって、爆弾が雨のように降る中、ずっと防空壕で震えてたって。あのときお婆ちゃんが死んでたら、お前もこの世に居なかったんだよーって」
「へぇ、曾お婆ちゃん、大変だったんだ」
「すぐ隣の防空壕には爆弾が直撃して、みんな亡くなったって言ってたし」
戦争最後の年、昭和二〇年の八月といえば、志保は既に宮町本家を頼って、あの製鉄所を囲む農村で暮らしていた。
あの辺りは、私が南方戦線で戦っていたころ、既に二度の大規模空襲を受けていた。
標的はもちろん、帝國最大の製鉄所だ。
いまは巨大な赤い鋼鉄の橋が架かるあの湾の周辺は、当時、帝國有数の工業地帯であり、軍艦に使う鋼鉄などはすべてあの湾沿いの製鉄所で作られていた。
二度の大空襲のあと、何度か小規模の空襲があるにはあったようだが、あの一帯は、既に製鉄設備の多くが失われており、併せて、他の地方に未だ勇猛に稼動している工場群が多数あったことから、その後、あの地区へ対する大規模空襲はもうないだろうと、誰もがそう思っていた。
それに加えて、宮町の本家は湾の北西、工場群を囲む田園地帯にあり、製鉄所からはやや距離があったため、志保も勲も工廠の傍らからあの集落へと疎開したのだ。
「お爺ちゃんは武器を造る工場の兵隊さんだったから、家から離れて遠くに居たみたいね。ふたりとも生き残ったから、終戦後に結婚したんだって。お母さんからも何回も聞かされたなー」
「よかったよねー、運がよくて」
「なーにー? 結衣は他人事ね。曾お婆ちゃんがそのとき亡くなってたら、結衣もここに居ないんだよ?」
「あはは。でも、いまちゃんとここに居るってことはもう変わらないもん」
そう、この現代はもう変わらない。
それはこの現代が、『既に過去が確定した時間線』の上にあるからだ。
しかし、別の時間線上はそうではない。
この、我々が居る時間線と短絡を起こしている、かの昭和二〇年の世界の八月八日はまだ確定していない。
私と本当の悠真くんとが、互いに元に戻るために短絡点を超え合わなければならない、あの昭和二〇年を生きる志保の命は、まだ全く保証されていないのだ。
「秋次郎さん、どうしたんですか? 難しい顔して」
眉根を寄せでもしていたのか、結衣さんは小声でそう言うと、やや心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「いえ、なんでもありません」
私はそう返しつつ、すぐにスマートフォンで『その日』を検索し始めた。
昭和二〇年、八月八日。
程なく、あの地区に三度目の大規模な空襲があったことが詳細に記されている頁を探り当てた。
表題は、『八幡大空襲』。
湾の沿岸は壊滅的被害を受け、その周辺の地域でもかなりの民家が焼けている。そして、三〇〇〇人近い人々が、その中で命を落としたことが記されていた。
この空襲は、本当の悠真くんが居る時間線ではまだ起こっていないのだ。
志保は宮町本家の集落に、勲は小倉陸軍兵器工廠に、そして悠真くんは、川島秋次郎上等飛行兵曹として、岩国海軍航空隊に居る。
真剣にスマートフォンを覗き込む私を変に思ったのか、結衣さんがいよいよ心配そうに眉を寄せて私の膝に手を置いた。
「秋次郎さん、あの……」
「すみません。ちょっと気になることができたので」
「独りで悩んだらダメです。なにかあたしが役に立てること、ありますか?」
「そうですね。それでは、この会が終わったあと、少しだけ話を聞いてください。結衣さんには話しておきたい」
こくりと頷いた結衣さん。
同様に頷き返し、それから空襲の記録を表示したままのスマートフォンをそっと卓上に置いて、私はまた誕生会へと戻ったのだった。
「もう、初めてのお化粧だから、あの曾お婆ちゃんの鏡台でやりたいのっ」
「明日でもいいじゃない。もう、九時過ぎよ?」
結衣さんの誕生会は、その後に帰宅した両父親を迎えてさらに盛況となり、お開きとなったのは午後九時を回ってからであった。
もらった化粧道具を抱え、どうしても志保の鏡台で練習がしたいと言って、我が家へと来てくれた結衣さん。
母上は、「まぁ、誕生日だからね。悠ちゃん、よろしくね」と、苦笑いしつつ折れてくれた。
「コーヒー、ここに置いておくわね。結衣ちゃん、あとでおばさんの口紅も貸してあげる」
「うん、ありがと。その前に、ちょっとだけ悠くんとお話するね」
ニコリとして頷いた母親が部屋の扉を閉めると、結衣さんが振り返って真剣な瞳を私へと向けた。
「秋次郎さん、話したいことって何ですか?」
学習机に置かれた香り立つふたつのカップ。
結衣さんがベッドへ腰掛けたあと、私はどう話したものかと思案しつつ、ゆっくりと椅子を回して彼女へ向き合った。
「二瀬が話した時間線の短絡の話、覚えていますか?」
「はい、ちょっと難しくて、いまもよく理解できていないかもですけど」
「実は、私はこの部屋で、あの宮町本家で起った不思議な現象と同じような、突然現れた時間線の短絡点を通して……」
一瞬、言い淀んだ私を、結衣さんが首を傾げて覗き見上げる。
どう話すことが適当かと思い躊躇したが、私はすぐに腹を決めて、一度伏せた目を再び結衣さんへと向けた。
「短絡点を通して……、私は、悠真くんに会ったのです」
きょとんとする結衣さん。
「悠くんに……、会った?」
「はい。悠真くんは、ちゃんと生きていました。私が現代の悠真くんの中に入り込んでしまったのと同じように、悠真くんは昭和二〇年の私、川島秋次郎の中に入り込んでしまっていたのです」
「えっと」
眉根を寄せたままゆっくり立ち上がると、結衣さんは私の前を横切り、学習机の上のカップを取った。カップが愛らしい唇へと当てられ、すぼめた肩が小さく揺れる。
「えっと……、悠くんと秋次郎さんが、現代と昭和二〇年とで入れ替わっていた……ってことですか?」
「はい。そして……」
結衣さんが焦点の合わない瞳を足元へ落とし、そっとカップを置く。
「悠真くんは昭和二〇年の世界で、想像を絶する苦難をひとつひとつ克服して、そして立派な海軍軍人となっていました」
「軍人?」
「あの奇怪な現象で私と入れ替わってしまったあと、勲と志保の力を借りて普通に暮らせるようになったようですが、どうもその後、あの時代の時流に飲まれてしまったようなのです」
すとんとベッドに腰を下ろした結衣さんの唇が、かすかに動いた。しかし、言葉は発せられず、瞳はただただつま先へと向かっている。
「男がこんなにも男らしく、女がこんなにも女らしい時代があったとは知らなかった。男として、海軍軍人として、この世界での自分を全うする……、そう、彼は言っていました」
「全う……ですか」
「はい。そうではない、時流に惑わされてはならない、君は現代へと帰るのだ、その方法はあるのだと、そう告げました。おそらく彼は夢の中だと思って信じていないでしょうが、実際、二瀬はその具体的な方法を思い付いていて、来る八月九日に――」
「秋次郎さん」
突然、私の言葉が遮られた。
ハッと顔を上げると、私に向かうそのあどけない瞳は、白い灯りを受けてゆらりとしていた。
「悠くん、どうしてそんなこと言ったんでしょうね。もしかして……」
小さく上がった口角。
覗き見上げるように、その愛らしい眼差しがふわりと私に投げられる。
「もしかして……、命を懸けて護りたいって……、志保さんを護りたいって、そう言ったんじゃないですか?」
息が詰まった。
悠真くんを慕っている結衣さんには、志保を護りたいと言った彼の言葉が誤解されるのではないか……、色恋沙汰などではない、あの時代の感性が彼女には理解してもらえないのではないか……、その思いが私を言い淀ませた。
「確かに悠真くんは、志保を護りたいと……、そう言っていました。しかしそれは――」
「あはは」
すっと上を向いた結衣さん。
見ると、満面の笑顔の頬を、美しい雫がゆっくりと伝っている。
「悠くん……、悠くんなら、そう言いそう」
結衣さんが立ち上がる。
「秋次郎さん、悠くんは時流に飲まれてしまったんじゃないって思います。たぶん、悠くんも……、いえ、悠くんは、志保さんのことを本当に、本当に大切に想ったんだと思います」
「結衣さん、このままでは彼は戦火に身を投じて死してしまいます。既に飛行技術の一部を会得し、特攻隊への志願をなさんばかりの勢いです。明日の大空襲を知れば、志保を護るために空戦に赴くかもしれません」
私を見下ろす結衣さんが、笑顔とも泣き顔ともとれない面持ちで、きゅっと口を一文字に結んだ。
「あたし……、どうしたらいいんだろう」
どうしたのかとその顔を覗き見上げると、結衣さんは結んだ唇の端を小さく震わせて、それから私の前に膝をついた。
「あたし、どうしたらいいの? 悠くんが生きていてくれて嬉しい。悠くんに戻って来てもらいたい。でもそうしたら……」
「結衣さん」
「でもそうしたら……、秋次郎さんは居なくなってしまう」
椅子に座った私の膝に握った両手を置くと、それから結衣さんは静かな嗚咽を漏らしながら、その顔をそっと埋めた。
膝に掛かる、温かな重み。
埋められた頬を、溢れた雫が音もなく伝う。
私を昭和二〇年へと戻す……、それは、結衣さんと二瀬が、私のために目指してくれていたことだった。そして、もしそれが成功すれば、悠真くんがこの肉体に戻って来てくれるのではないかと、ほのかな期待を寄せた。
しかし、その後、その悠真くんが短絡した時間線の向こうで健在であることが分かり、図らずも私と悠真くんの魂と肉体が互いに入れ替わっているという事実が明るみとなった。
そして、『魂の通り道』と『時間線』のからくりを逆手にとれば、私と悠真くんを元通りにできるのではないか、そして、その鍵はあの志保の鏡台が握っているのではないか、そう推理し、二瀬は既に具体的な方策の検討にかかっている。
無論、それらがすべて正しいとは限らず、さらに実行に移せたとしても、それが望んだ結果を成功裡にもたらすかどうかは分からない。
しかし、私はなんとしても、彼をこの世界へ取り戻さねばならない。
いま、眼前で震えているこの小さな肩を、生涯その傍らに居て護り愛しむのは、彼でなければならないのだ。
「結衣さん……」
私はその肩に手を掛けようとしたが、小さく頭を振って、そしてすぐに思い直した。
「結衣さん、私はこのことを二瀬に相談します。八月九日を待っていては、悠真くんを連れ戻せないかもしれない……と」
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