[3-2] 空襲警報
「秋次郎さん、鏡台、懐かしい?」
「はい。本物の悠真くんがこの部屋へ戻って来たら、さぞかし驚くことでしょうね」
志保の鏡台を持ち帰った通夜の翌日、葬儀を終えた結衣さんが「鏡台を見たい」と言って私を訪ねた。
ベッドに腰掛けた結衣さん。
そして、結衣さんに正対して壁に背を付けた、その鏡台。
昨晩、白い電球の下では分からなかったが、今朝、陽光に照らして初めて、その鏡台はなんとも年季の入った趣きある重厚感を伴っていたことが分かった。
経年によって重々しい赤黒さが増してはいるが、作られた当時の気高さを充分に残す、
「引出しの中は見た?」
「いいえ、まだ」
「あたし、ちょっと見ていい?」
ニコリと笑った結衣さんは、至極楽し気だ。
やはり年頃の女学生らしく、このようなめかし道具に興味があるのだろう。
私が、「どうぞ」と手を差し向けて学習椅子に腰掛けると、結衣さんは待っていましたとばかりにベッドから立ち上がり、志保の鏡台をあちこち触り始めた。
「ん? なにか引っ掛かってるみたい」
「どうしました?」
見ると、結衣さんが左下の引出しの取っ手に手を掛けて困惑している。幾つかある引出しのうち、どうやらこの引出しだけが開かないようだ。
「鍵が掛かっているのでしょうか」
「うーん、鍵穴はないみたい」
私は、あまりにも一生懸命な結衣さんの姿を微笑ましく思いつつも、どうも
「なにか引っ掛かっている様子ですね」
手応えでは、どうやら側面になにかが挟まっているようであったので、私は上部の引出しを全部引き抜いて、そこからそっと手を差し入れた。
指先になにやら、冊子のようなものが触れる。
そしてその冊子を引っ張りつつ引出しの表を少し揺らすと、それは容易に間隙から抜け出た。
「おお、これは懐かしい」
そこにあったのは、表紙に海軍の記章が印刷された、『皇軍手帖』。
布張りの表紙は元は凛々しい紺色だったが、それが窺えないほどに黒ずみ、ところどころに小さな虫食い穴が開いていた。
「うわー、古い手帳。なんなの? それ」
「これは、海軍に入ったときにもらう手帳です。なぜこんなところに」
そう言って手帳を開こうとすると、その綴りの間から、はらりと一葉の紙片が落ちた。
「え? なにこれ」
紙片を拾い上げた結衣さんが、ポカンと口を開ける。
どうしたのだろうと思い、私もその紙片を覗き込んだ。
「これは……」
突然、ドキリと胸に衝撃が走る。
それは、ずいぶんと古い、色褪せた写真。
一瞬息が止まり、それから、ぐっと圧が込み上げた。
「秋次郎さん、もしかして、これって」
懐かしい。
私は小さな咳払いをひとつすると、それからゆっくりと鏡台の横に立ち、私を追う結衣さんのあどけない瞳を、少々頬を緩めて見つめ返した。
「結衣さん、この鏡台、古いでしょう?」
「やっぱり、この鏡台の持ち主だった『志保さん』って……」
「はい。『宮町志保』さんという結衣さんの曾お婆さんは、私の幼馴染みの志保です。間違いありません。ちょっとこれを見てください」
目を丸くした結衣さんが、写真を手にしたまま私の横に並ぶ。
私は、「ちょっと見にくいですが」と言いつつ、鏡面に掛かっている鏡覆いの背面を指し示した。
「刺繍? 『祝 高等女学校卒業 昭和十五年三月吉日 贈 川島秋次郎』……?」
「はい、ご覧のとおり。これは、私が志保の女学校卒業の祝いに贈ったものです」
「じゃ、もしかしてこの写真って」
「はい。志保です。そして、軍服を着て志保の隣に立っているのが……、私です」
いまでも、この写真を撮ったときの光景が眼前にあるかのように思い出される。
海軍に志願して三年目、二等水兵の折に、志保の高等女学校卒業を祝して撮った、記念の一枚。
撮ってくれたのは父親が昵懇にしていた写真屋であったが、祝いだからと言ってどうしても手間賃を受け取らなかったのを覚えている。
清楚なセーラー服姿で、慎ましく椅子に腰掛けて微笑む志保。
そしてその隣に、真っ白な第二種軍装をまとい、なんとも仰々しく直立する私。
「これが、本物の秋次郎さん……。そして、志保さん」
写真を眼前に引き寄せた結衣さんが、肩をすくめてじわりと息を吐いた。
「もう、その写真のことはすっかり忘れていました。志保がずっと持っていてくれたんですね。もしや、この『皇軍手帖』は、戦後に誰かから譲り受けて、私の形見代わりにでもしていたのかもしれません」
結衣さんは、私の声が聞こえているのかどうか分からないほど、真剣な眼差しをその写真に注いでいた。
しばらくの無言が過ぎたあと、結衣さんがおもむろに口を開く。
瞳は写真へと向けたままだ。
「あの……、秋次郎さん、これ、いくつのとき……です……か?」
「志保の卒業のときですから、志保が十七歳、私は海軍に入って三年目となった満十九歳のときですね。『私の時間』で、今から六年ほど前になります」
「秋次郎さん、軍服似合いますね。すごくカッコイイ……です」
「ありがとうございます。この真っ白な第二種軍装に憧れて海軍に志願したのです」
「……そっか。志保さんって、私の曾お婆ちゃんだったんだ」
そう言って、また無言になった結衣さん。
きっと、会ったことのない曾祖母の若き日の姿を見て、とめどない感慨を覚えているのだろう。
どれくらいそうしていたろうか。
不意に階下から、「お茶を淹れたわよー」と母親の声がした。
それを聞いて、結衣さんに「さ、お茶ですよ」と私が促すと、結衣さんは変わらず放心したようにその写真を眺めたまま、ゆっくりと息を吸って柔らかく言葉を紡いだ。
「あの……、秋次郎さん、あたし、志保さんに似てますか?」
「どうしたのです? 急に。そうですね。とてもよく似ています。病院で初めて会ったとき、志保が現れたのかと思いました」
「ほ、ほんとですか? あたし……、嬉しい……です」
「はい?」
どうしたのかと私が首を傾げると、結衣さんが急に居住まいを正した。
「あっ、あのっ、秋次郎さんっ! あたしっ、あたしが志保さんみたいに、その、秋次郎さんがずっと大切に思っていたこの志保さんみたいに素敵な女性になれるには、どうしたらいいと思いますかっ?」「は? 結衣さんが志保のように? どうしたんです? 突然」
「その、私、志保さんのようになりたいんです」
その目は真剣だ。
一文字に結んだ唇の端が、ほんの少し震えている。
どうしたのだろう。
私は努めて朗らかにして、なぜか高ぶっている結衣さんの心がさらに荒れぬよう、あまり似合わない笑顔とともに柔和に言葉を返した。
「そう……ですね、当時の志保を現代に連れて来られたとして、果たして現代でいうところの、『素敵な女性』と言えるかどうか、それは甚だ疑問です。時代が違います。結衣さんはこの現代で、今のままで充分に素敵な女性だと思いますよ? 私が保証します」
私の言葉を聞いて、結衣さんがポカンと口を開ける。
「え? ええ? あの、そういうことじゃなくて」
「と、言いますと?」
「いや、その、やっぱりいい……です。ごめんなさい。変なこと言って」
どういう答えを望んでいたのか見当がつかないが、結衣さんはそこで自己完結し、それからそっと私に写真を差し出した。
写真を受け取り、一瞥する。
「そうですか。結衣さんがいいのなら、それでいいのですが。それから、どうしたんです? 急によそよそしく改まって」
「え? いや、あの、本当の秋次郎さんの写真を見たら、やっぱり、秋次郎さんってずいぶん年上の人なんだなぁって思ってしまって……」
「ははは、そんなこと気にしなくていいですよ? いままでどおりで結構です。ざっくばらんで元気が良いほうがずっと結衣さんらしい。私もそのほうが楽しいですし。さ、お茶にしましょう」
「え? えっと……、うん」
そう口ごもったように言ったかと思うと、すぐに両手で顔を押さえてそそくさと私の横を通り過ぎた結衣さん。続けて階段を駆け下りる足音がすると、すぐに階下で母親と話す結衣さんの元気な声が聞こえた。
私が、志保の忘れ形見とでも言うべき結衣さんに会えたのは、なにかわけがあるのかも知れない。
手には、赤茶けた一葉の写真。
「志保のようになりたい……、か」
不意にそう独りごちたとき、ほのかにゆらりとした、柔らかな花のような甘い香り。
彼女の香りだろうか。
同時に、得も言われぬ郷愁が私の胸をいっぱいにした。
「悠真ー? なにしてるのー?」
「はぁい。すぐ参ります」
母親の声に応えて、それから手帳に戻そうとした写真にもう一度目をやったとき、私は思わず破顔した。
そして、私はいつの間にか結衣さんに志保の姿を重ねていたのだなと、そう独りごちたのだった。
「秋次郎さん、柏森さん、おはようっ!」
「二瀬か。おはよう」
結衣さんと共にバスを降りたところで、男にしてはずいぶんと愛らしい声が我々を呼び止めた。
私がこの世界へやってきて、早くも四ヶ月。
確かに暦は暑さ厳しい八月となったが、それにしても早朝からこの暑さはなんだ。
だいたい、今日は鉛色の雲が空を覆って太陽などどこにも見えないというのに、なんとも解せない傍若無人な暑さだ。
ところがどうしたことか、二瀬はいつもと変わらぬ涼し気な顔。
その笑顔は健在で、暑さをものともせず、遠くから手を振りつつ駆け寄ってきてくれた。
今日は、夏季休業中に設けられた出校日だ。
我々が子どものころも、夏季の長期休業期間を『夏休み』と呼んでいたが、戦時になってからこの名称は廃止された。
「あら、柏森さん、なんか元気ないね? どうしたの?」
「え? そ、そんなことないよ?」
二瀬に顔を覗き見上げられて、結衣さんがぎょっとする。
かの写真発見の一件から、結衣さんは少々様子がおかしい。
今日もそうだ。
以前の周囲を
「そうなんだ。僕にはずいぶん元気がないように見えるけど。もしかして、それって、秋次郎さんのせい?」
その問いにハッと顔を上げた結衣さんは、なにやら急に頬を赤らめて、二瀬をじろりと睨み返している。それに対して、ニヤリと笑い返す二瀬。
よく分からんやり取りであるが、ふたりは互いに意味が通じている様子。
なんなのだ。
すぐにケラケラと笑った二瀬が、満面の笑みを私へ向ける。
「秋次郎さん、大丈夫だよ。柏森さんは具合が悪いんじゃないみたいだ」
これで具合は悪くないというのか?
結衣さんは口を尖らせて、あさってのほうを向いている。
まぁ、二瀬がそういうのであればそうなのだろうが、なんとも腑に落ちない。
「あはは。大丈夫だって。そうそう、そう言えば、この前の資料館に行った日、秋次郎さん、僕のお父さんからずいぶん変な話を聞かされたみたいだね」
「ん? いや、変ではなかったぞ? 非常に興味深い話だった。特に工藤俊作艦長の話には瞠目した」
あのあと、結衣さんに頼んで、工藤少佐に関する書籍をインターなんとかで取り寄せてもらった。
読めば読むほど、『敵兵を救助せよ』という前代未聞の大号令と、その命令に秘めた少佐の想いが私の胸を突いた。
敵兵も人間だ。
そして、彼らも我らと同様、命を懸けて国を護り、そして愛する者を護らんとした闘士であり、少佐はその勇敢なる義を称えて敢えて敵兵を救ったのだ。
その武士道精神たるや、これぞ海軍魂ぞと心から感服した。
「そう? それならよかった。それにしても、お父さんもずいぶん秋次郎さんのこと気に入ってたみたいだよ? 『横田くんはまるで現役の海軍士官のような口ぶりで面白かった』って」
「それはそうだろう。予備役となる前に戦争が始まったので、私はずっと現役のままなのだ」
「いやいや、そうでなくて」
「こら、冗談だぞ? 笑うところだ」
「あはは、秋次郎さんの冗談は分かりにくいや。ところで、今日ちょっとどこかでお昼食べて帰らない? ねぇ、柏森さんも一緒に」
ハッと顔を上げた結衣さん。
急に話を振られたことに驚いたのか、可愛らしい瞳をぱちぱちとさせている。
「え? 何? 聞いてなかった。ごめん」
「えっと、お昼一緒にどうかなって話」
「え? あ、うん! いいよ?」
そう言ったあと再び目を伏せた結衣さんを見て、二瀬が私にそっと肩を寄せた。
「柏森さん、ずっとこんな調子でしょ?」
「そうだな。実は少々困っているのだ。ここ最近、一緒に行こうと誘う割には、顔を合わすとなかなか喋らず空気が重たくなるし、かといって黙っているとそのうち機嫌が悪くなる。そんな感じでな」
そう小声で返すと、二瀬は「やはり」と腑に落ちた様子で、きゅっと肩をすぼめて笑顔になった。
「あはは、そっか。それなら全然普通だね。女の子だからね」
「普通なのか? そうは思えんが。ところで話は変わるが、『全然』は否定のときに使うものだぞ?」
「そうだね。本当はそうだけど、いまは肯定でも、全然、普通に使うよ?」
「それは、全然、なってない使い方だ」
「あはは」
そうして、校舎の横を抜けて下駄箱前のたたきまで歩いて来たとき、ちょうど頭上の拡声器から学生声の放送が聞こえた。
扉の横にある畳大の鏡に、拡声器を見上げて立ち止まった二瀬と、それにならって足を止めた私と結衣さんが映った。
『皆さん、おはようございます。こちらは生徒会執行部です。今日、八月六日は広島原爆の日です。広島市に原爆が落とされた午前八時十五分になったら、一分間の
二瀬が急に真顔を私に向けた。
結衣さんは私の後ろで下を向いている。
そうか。
今日は、この八月六日は、米国の新型爆弾が初めて実戦に使われた日だ。数々の書籍で、その凄まじい威力と、都市と市民の惨状を知った。
火薬では絶対に発生させることができない、想像を絶する高温の熱線と強烈な爆風。
そして、一瞬にして蒸発する人間と、跡形もなく吹き飛ぶ家屋。
初めてそれらを目にしたとき、私は震えが止まらなかった。
原子爆弾。
その驚異的な威力に、帝國は早々に尻尾を巻くのだ。
幕僚は、あれほど簡単に飛行機で体当りして死ねと我々に命令したのに、己らが街と共に一瞬で消え去る恐怖を目の当たりにした途端、無様に狼狽して取り乱し、そして両手を高々と挙げて降参したのだ。
我々の思い。
我々がどのような思いを抱いて戦地へと赴き、そして散っていったのか、その高き志のわずかな末梢すら、そのような輩には理解し得まい。
その歴史を思い出し、私は静かに
そして私の怒りに追従するかのように、拡声器の声が静かに、そして厳かに、『その時』を告げたのだ。
『一同、黙祷』
結衣さん、二瀬と共に整列して、おもむろに
続けて、一斉にサイレンが鳴り響く。
思わず、ハッと空を見た。
空襲警報。
それと同じサイレンが全天を満たし、突然に私の肩にのし掛かる。
どんよりと空に垂れこめた雲。
脳裏に湧き上がったのは、きっと志保が恐怖におののきながら見上げたであろう、その雲間の光景。
鳴り響く発動機の轟音と、全天を覆い尽くさんばかりの爆撃機の大編隊。
腹から焼夷弾を垂れ流し、嘲笑しつつ街を火の海にしてゆくその姿の鬼畜ぶりが、私を憤怒の念で満たしてゆく。
カタカタと奥歯が鳴り、両手両足がこれでもかと強張った。
そして、いまにも操縦桿を握って舞い上がりたいという衝動が私を支配した、そのとき。
「うわっ!」
脳裏の大編隊が、眩い光と共に一瞬にして弾け飛んだ。
思わず目を背ける。
そして、ハッと背後へ目を向けると、壁の大鏡に真っ青な空が映った。
澄み切った蒼天。
同時に、背骨をなぞる悪寒が、ぞぞぞと這い上がる。
結衣さんと二瀬が見えない。
校庭のほうへと再び振り向くと、そこには戦闘機の風防ごしに見渡したような、一点の曇りもない青空が広がっていた。
当惑して一歩退く。
すると、ぞわりとしていた悪寒が今度は背骨を折らんばかりの張力と変わり、私の背中を引き裂こうとした。
私を吸い寄せる鏡。
負けじと踏ん張った途端、ごつりと背が鏡に打ち付けられ、肩がなに者かに押さえ付けられた。
「結衣さん! 二瀬っ!」
声にならない叫び。
そして、ぎりりと奥歯を噛むと、次の瞬間、ピシッと薄いガラスがひび割れるような音がして、私の耳には何の音も聞こえなくなった。
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