[3-1] 古びた鏡台

「悠真、踊りのお婆ちゃん、昨日の夕方、亡くなったんだって」

 よく晴れた土曜日の午前。

 八月となり、まだ朝だというのに、もう夏本番の陽光は道端に濃い影を落としている。

 今日は午後から、結衣さんが地元の図書館へ連れて行ってくれる約束になっていた。

 朝餉が終わって、さて準備を始めるかと思った矢先、母親が食後の茶を卓上に置きながら、誰それが亡くなったと、そんな話をし始めた。

「踊りのお婆ちゃん……、ですか?」 

「やっぱり分からないよね。『踊りのお婆ちゃん』は、結衣ちゃんのお婆ちゃんよ? 悠真も結衣ちゃんと一緒にすごく可愛がってもらったの。踊りの先生してたから、うちでは『踊りのお婆ちゃん』って言ってたの」

「なるほど」

 すぐ脇に置いていたスマートフォンの画面に目をやると、ちょうど結衣さんから、【今日は行けなくなった】と文字通信が入った。

 椅子に腰掛けながら、母親が私の顔を覗き見上げる。

「それでね? 今夜がお通夜なの。うちは今日は仕事で遅いから明日の葬儀に一家で行こうと思うって言ったら、結衣ちゃんのお母さんが悠真だけ今日一緒にお通夜に行かないかって。親族だから、ほかの人より早く行かなきゃいけないけど。どうする?」

 きっと、結衣さんが私を一緒に連れて行こうと進言したに違いない。

 もし明日、私が両親と一緒に行って、結衣さんの居ないところでなにかボロを出しはしないかという危惧だろう。

「そうですか。そう言ってくださるのなら、今日一緒に行くことにしましょう」

「お昼前には出るみたいだから、準備しといてね」


 昼、約束の時間少し前におもむろに玄関を出ると、ちょうどお向かいの玄関に黒いワンピースの結衣さんが姿を見せた。

「あ、悠くん。今日は図書館行けなくてごめんね?」

「いえいえ、それどころではないでしょう。お察しいたします」

「お婆ちゃん、去年からずっと入院しててね。癌があちこち転移して、もう最後だからって、先週、お家に戻してもらって……」

 当然だが、元気がない。

 私はなんとも居たたまれなくなり、制服ワイシャツの襟首に指を入れながら首を左右に振った。

 人の死に似つかわしくない、蒼々とした空。

 その空をじわりと見上げたとき、結衣さん宅の車庫から自動車の発動機の音が聞こえた。見ると、その窓から結衣さんによく似た、品のいい良妻賢母がひょっこりと顔を覗かせる。

「悠ちゃん、せっかく予定があったのにごめんね? もう出るけど、いい?」

「はい。こちらこそ、今日はすみません。母が一緒に来られたらよかったのですが」

 結衣さんの家の自動車は、横田家のそれと違って、黄色の登録標が付いた、実にこじんまりとした黒い小型車であった。

 市街地に入ってモノレールの軌道が見え始めると、自動車が軌道の上の陸橋道路へと上る。

 かつての兵器工廠跡の広大な都市公園の脇をうねるように走る陸橋道路は、それから高層建築の間をぬって海岸へと至った。

 開けた視界いっぱい、海の寸前まで拡がった乱立する工場群。

 そして、その至るところに雄々しく屹立する、もうもうと白い煙を放つ巨大煙突たち。

 聞けば、ここは帝國随一の官営製鉄所があった街とのことだが、私の記憶ではこのような海に張り出した平坦な土地は無かった。

 それにしても、度肝を抜かれる。

 そうして眼下臨海に広がる工場群に目を奪われていると、突然、さらに度肝を抜く巨大構造物が眼前に現れた。

 燃えるように真っ赤な、巨大吊橋。

 青々とした洋上に、紅の鋼鉄橋がその威容を誇示している。

 母親の話によると、この橋はかつて、東洋一の大吊橋だったそうだ。現在はこの海の下に新たな海底隧道が掘られ、橋を渡らずとも海底を通って対岸に行けるようになっているとのこと。

 キラキラと海面が陽光を反射している。

 橋の上から左を見下ろすと、そこがかつて製鉄の街があった湾であることはすぐに分かった。

「悠ちゃん、もうすぐ着くから。結衣、幸子おばちゃんには、悠ちゃんが記憶喪失になったこと話してないんだけど、どうしよう」

「そっか。ただでさえお婆ちゃんが亡くなって大変なんだから、悠くんがおばちゃんのこと全く覚えてないなんて聞いたら……。今日は話すの、やめておいたほうがいいかもね」

 幸子さんというのは、どうやら結衣さんの母親の妹らしい。

 独り身で実家に残っており、病気になった母親、つまり結衣さんの祖母である『踊りのお婆ちゃん』の看病をずっと担っていたそうだ。

 子が居ない幸子さんは、我が子のように姪である結衣さんを可愛がり、同様にその幼馴染みである横田悠真も、『踊りのお婆ちゃん』と一緒になってずいぶん可愛がってくれていたそうだ。

 巨大吊橋を渡って湾沿いにしばらく走ると、あたりにちらほらと緑が増え始め、そのうち田畑のほうが建物よりも多くなったところで、不意に自動車は脇道へと入った。

 するとさらにしばらく行った田畑の中、風除けと思われるこんもりとしたくぬぎばやしがぽつんとあって、その旧家はなんとも寂しそうにそこに佇んでいた。

『故 浦田美智子 儀 葬儀会場』

 小さな看板。

 そう無味に書かれた看板が立て掛けられた門柱は石造りで、さらに母屋を見れば、そこは単なる百姓の家ではなく、明らかに地の名士か、それと同等の名のある主が居宅としていた屋敷であることがすぐに窺われた。

「悠くん、着いたよ。ここがお婆ちゃんち」

 力なくそう言った結衣さんに促されて自動車を降り、結衣さんのお母さんの旧姓は『浦田』なのかと、どうでもいいことを思いながら改めてその母屋を眺めたとき、私はなんとも不思議な感覚を覚えた。

 懐かしい。

 まるで一度ここへ来たことがあるような、そんな懐かしさ。

「あ、悠真くんも来てくれたんだね。ありがとう。結衣ちゃんも。着いて早々悪いけど、姉さん、ちょっと手伝って。結衣ちゃんは悠真くんとしばらく待ってて」

 出迎えたのは、黒ズボン姿の女性。

 話に出ていた結衣さんのお母さんの妹、幸子さんだろう。

 結衣さんはちらりと私の顔を見て、それからすぐに母親と幸子さんの背中を追った。

「悠くん、しばらく待ってて。幸子おばちゃん、あたしも手伝う」

 人が死んだときの数々の儀式は、実はその辛さを紛らわすためにあると言われている。

 次から次へとやらなければならない行事を敢えて作り、座って悲しみに打ちひしがれている暇なぞ与えぬよう、先人がそう仕向けたのだそうだ。

 私が死んだあとも、志保や戦友たちが、同じように忙しくしていたのだろうか。


 ふた間続きの仏間で坊主が経読みする間、結衣さんはずっと下を向いてハンケチを頬に当てていた。

 話しによると、現代ではこうして家で通夜や葬式をするのは稀なのだそうだ。

 一定の会葬者が見込まれる葬儀の場合、自動車での移動が当然の現代では広い駐車場を要すうえ、多人数を招き入れられるほどに屋敷が広くなければならず、場所ごと全部賄ってくれる業者に頼むのが一般的だとのこと。

 今日のこの浦田家の葬儀は、場所は自宅だが、看板や遺影、祭壇などは業者が準備したものらしい。確かに、遺影は葬式らしくない色付きで、空のように真っ青な背景となっていて、いかにも業者然としている。

 しかし、なんと温和な表情の遺影か。

 踊りの先生であったという結衣さんの婆さま、その豊かで優しい人柄が見て取れるようだ。


 焼香が終わり、偉そうな説法をぶった坊主が帰ったあと、通夜振舞いの前に残った数人以外は、皆早々に帰っていった。

「ちょっと台所でお茶にしない? 結衣ちゃんと悠真くんもおいで」

 一段落したところで、幸子さんが少し休憩すると言って、私たちを台所へと促した。

「あ、私は結構です。皆さんで積もる話をされてください。その間、すこし家を見せてもらってもいいですか?」

 思い出話は、良く知る者同士でしたほうがいい。

「いいわ。散らかってるのは勘弁してね? それと、どっかにクーちゃんが居ると思うけど、お客さんがいっぱい来てちょっと恐がってるだろうから、脅かして引っ掻かれないようにしてね」

「クーちゃん……ですか?」

「うん。黒猫のクーちゃんね」


 もう、空は櫟林の向こうにかすかに朱色の余韻を残すだけとなっていて、東を見れば夏の星座が待っていましたとばかりに顔を覗かせ始めていた。

 おそらく、母屋は大正時代に建てられたものだろう。

 玄関はガラガラと音を立てる重厚な引き戸で、内側には動かなくなった上下する太いかんぬきがまだ取り付けられたままになっていた。

 玄関の内はよく踏み締められた土間で、ところどころ灯りを受けてつやつやとしている。

 土間の隅には、いまはもう使われていない手漕ぎポンプの井戸があり、その横にはコンクリートで造った土台の上に、場違いな電動ポンプが据えられていた。

 井戸はまだ生きているようだ。

 庭は砂地で、ちょっとした公園にしてもよいほどの広さ。周りは一周ぐるりと、レンガとしっくいにょうが取り囲んでいた。

 すぐ横は小川だ。

 川に面した囲繞の一か所に小さな扉があり、そこから石造りの階段が川面まで延びていて、一番下は洗い場になっていた。おそらく昔は、そこで洗濯をしていたに違いない。

 それにしても、懐かしい佇まいだ。

 いや、それも少し違う。

 懐かしいのではなく、どうもこの場所を、『知っている』ような錯覚が続いている。

 歩き回っていると、土間の奥の突き当りの台所から結衣さんの声が聞こえた。

 見ると、通夜振舞いがなされている土間の横の畳部屋に、大きな急須を持った結衣さんが茶を運んでいた。

 不思議な感覚は、まだ続いている。

 その畳部屋を通り越して縁側へと出ると、砂地の庭が目の前に開けた。

 縁側には照明が無く、敷地の外にある街路灯の灯りがじわりと入り込んで、縦に真っ直ぐ伸びる板の筋を薄暗く照らし出していた。

 その筋は、ずっと先で左へ直角に曲がって、暗がりへと消えている。

 料理の前で話している年寄りたちのぼそぼそ声を背にして、私はゆっくりとその縁側を進んだ。

 話し声が遠のき、人の気配がおぼろとなる。

 暗がりに目が慣れて、突き当りの壁一面に、ずいぶん大きな網が掛けられているのが見えた。

 幾つものおもりがぶら下がった、川漁の投網とあみだ。

 その横に立て掛けられているのは、実に丹精な水墨画が描かれたふすま

 おそらく、既に亡くなった先代、あるいは先々代が描かれたのだろう。埃をかぶったままだが、その襖を見れば、ご先祖の多芸ぶりがつぶさに窺える。

 しかし、なぜだ。

 なぜか、私には分かるのだ。

 この先、あの突き当りの暗がりを左へ曲がったその先に、大きな南京錠が掛けられた分厚い扉の納戸のあることが。

 間違いない。

 私は、ここへ来たことがある。

 それも、そう驚くほど昔ではない。しかしそれは、『私の時間』で、だ。

 建物も建具もずいぶんと古くなっていて、おそらく私の記憶にあるものとは少々違っているかもしれないが、やはり、私は間違いなくここに来たことがある。

 その異様で確かな既視感がぞっとするほどに私を支配し始めると、さっきまで聞こえていたはずの背後の話し声が、全く聞こえなくなっていることに気が付いた。

 そのときだ。

 縁側をゆっくりと進む私の視界の端で、なにかがゆらりと光った。

 それは、眩さを伴う直線的な光ではなく、ぼんやりと、まるで残像のごとく視界の端をかすめる光。

 思わず立ち止まる。

 そして、ゆっくりとその光のほうへと首をむけると、そこは縁側に面した障子がすべて開け放たれた、薄暗い一〇畳程度の畳部屋であった。

 その一番奥の暗がりで、なにかがぼうっと光っている。

 生唾を飲み込み、じわりと足を踏み入れる。

 すると、なにかが足に触った。

 ハッとして目を向けると、そこに居たのは一匹の黒猫。

 闇に紛れ、その瞳だけがぎょろりと光っている。

 そして猫は、立ち上がって大きな欠伸あくびをひとつすると、それから部屋の奥へとゆっくり歩きだした。

 その先には、淡く光る四角い輪郭。

 猫を追う。

 じとりと、背中を走る汗。

 淡い光が近づくと、その手前に猫がすとんと座り込み、首を回して背中の毛づくろいを始めた。

 次の瞬間、背後から差す街路灯の弱光が、ついにそれを私の目につまびらかにした。

 そこにあったのは、古い鏡台。

 一脚の、古めかしい鏡台が暗がりにぽつんと置かれていて、縦長の鏡面に掛けられた鏡覆いが、半分ほど後ろへめくり上げられている。

 ハッとした。

 そして私の既視感が、確信へと変わる。

 私は、この鏡台を知っている。

 さらにもう一歩、足を進めた。

 そして、私はそっと鏡台の横へと進み、それからおずおずとその裏側を覗き込んだ。

 鏡覆いの裏面、そこにあったのは……、私が想像したとおりの文字。

 『祝 高等女学校卒業 昭和十五年三月吉日 贈 川島秋次郎』

 実に丁寧に施された、手縫いのしゅう

 絶句した。

 間違いない。

 これは……、志保の鏡台だ。

 私が、志保の高等女学校の卒業祝いに贈った、父が懇意にしていた腕のいい家具屋が誂えてくれた、この世にふたつとない鏡台だ。

 暗がりで判然とはしないが、金色であったはずの覆いの刺繍は色褪せているのか、朱色がくすんで赤黒くなった覆い布と見分けがつかないほどになってしまっている。

 しかし、これを見紛うはずがない。

 なぜだ。

 なぜ、ここにあるのだ。

 手の震えが止まらない。

 当惑しつつ、その震える手が鏡覆いへと伸びる。

 そして、半分ほどたくし上げられていたそれをさらに上げて鏡面を覗き込もうとしたとき、突然、その違和感が私を襲った。

 猫が居ない。

 ハッとして鏡台の前を見ると、そこには黒猫が偉そうに寝そべっている。

 そして、その弱光に浮き立つ毛並みの艶をしかと確かめて、私はもう一度鏡を見た。

 「なぜ、映らないのだ」

 思わず声が出た。

 鏡台の真横に立っている私が斜めに鏡面を覗き込めば、当然、そこに鏡台の前の畳が見えるはずだ。

 そしてそこには猫が居り、当然にして、鏡の中にもその猫が居なければならない。 

 しかし、そこに猫の姿は無く、ただただ弱光で群青色となった畳が映っているだけなのだ。

 背中にぞわりと冷たいものが走る。

 息を飲んで、それから私はさらに覆いをたくし上げて、じわりじわりと鏡の前に顔を突き出した。

 すると、どうしたことか。

 覗き込んだ私の顔も映らない。

 いや、違う。

 私はすぐそれに気が付いた。

 鏡に映っている部屋は、いま私がいる部屋と良く似ている。

 しかし、もっと古めかしさがなく、奥に見える縁側の先には街路灯もない。

 天井の真ん中からぶら下がっている電球の傘には、光が漏れない厚手の布が掛けられている。

 いま、この鏡の中に見えているものは、私の背後の風景が映り込んでいるのではない。

 それが、そこにあるのだ。

 戦慄が走った。

 私は咄嗟に覆いを下ろすと、すぐに撥ねるように退いた。

 なにがどうなっているのだ。

 そんな馬鹿げたことがあるか。

「秋次郎さん、どうしたの?」

「うわっ!」

 突然掛けられた声に、心臓が口から出そうになる。

 振り返ると、不思議そうな顔をした結衣さんが、私を覗き見上げていた。

「なにか面白いものでもあった?」

「結衣さん、あの鏡台、あの奥にある鏡台について、なにか知っていますか」

「え? あれは……」

 結衣さんはそう言いながらその部屋へと足を踏み入れ、部屋の中央に垂れ下がっていた紐を引いた。カチリと音がして、ふわりと部屋が明るくなる。

「これ、お婆ちゃんが使ってた鏡台だけど、これがどうかしたの?」

 私は大きく息を吸い、それからもう一度その部屋へと足を踏み入れて鏡台の横に立った。

「結衣さん、よく見てください」

「ん? なに?」

 結衣さんが、鏡台の鏡を覗き込む。

「別に、変わったところはないけど」

「え?」

 私は鏡を覗き込む結衣さんに肩を寄せて、再度じわりとその鏡を覗き込んだ。

 映っている。

 私ではない私の、横田悠真のあどけない少年の顔が、しっかりとそこに映っていた。

 見ると、さっきまで鏡が放っていたおぼろげな光も、いつの間にか消えている。

「秋次郎さん、なにか見たの?」   

 私は、じわりと鏡から顔を離すと、それから少しだけ口角を上げて結衣さんに瞳を向けた。

「結衣さん、これ、頂いて帰りましょう。わけはあとで話します」

「え? これを?」

「はい。二瀬に見せたいのです。もしかすると、謎解きに有用かもしれません。それに――」

 思わず、さらに笑みが出た。

「それにこれは、私にとってずいぶんと思い出深い品ですので」


 自動車の貨物室に、分離した鏡と化粧台をそれぞれ積み込む。

 小型の自動車なので積めないかもしれないと結衣さんは心配したが、ふたつに分けられるのだと教えるとずいぶん驚いていた。

 幸子さんは、「そのうち捨てるつもりだったから」と言って、結衣さんが鏡台を持って帰ることを快く承諾してくれた。

 しかし、結衣さんの母親は少々呆れ顔だ。

「結衣、本当にそんな古いもの持って帰るの? だいたい、結衣の部屋はいっぱい物があり過ぎて、置く場所なんてないじゃない」

「え? もう、そんなことないもん。えーっと、でも、お片付けが済むまで悠くんがお部屋で預かってくれるからいいの」

「ええー? そんなの悠ちゃん、大迷惑じゃない」

 しかし、どうしてこの鏡台がここにあったのだろう。

 帰りの自動車が、再び赤い巨大吊橋を渡る。眼下の湾の沿岸には、星のような大小さまざまの灯りが瞬いていた。

 私の膝の上には、赤茶けた鏡覆い。

 己の名が縫い込まれた刺繍を不思議な気持ちで撫でつつ、私はそれとなく結衣さんの母親に鏡台のことを尋ねた。

「ずいぶん古いものですが、この鏡台はずっとあの家にあったのでしょうか」

「うん? あの鏡台は、私のお婆ちゃん、結衣からすれば曾お婆ちゃんの、嫁入り道具だったんだって」

「そうですか。その方のお名前はなんというのですか?」

「名前?」

 鏡覆いに添えた手に、思わず力が入る。

「名前はね、『みやまち志保』。志保お婆ちゃんね」

 思わず息を飲んだ。

 志保だ。

 間違いない。

 結衣さんはハッとして、まん丸にした愛らしい瞳を私に向けた。

「悠くん……、志保さんって」

 私はゆっくりと頷いて、それから、それよりももっと激しく胸に湧き上がった問いを、おずおずと母親に投げた。

「苗字は、宮町……なのですね?」

「なんか変? あ、私の旧姓と違うから? 私の実家の『浦田』っていう苗字は、私の父が持ち込んだ苗字でね。元々あそこは、『宮町』っていう家だったんだって。このあたりの地主だった宮町家の本家ね。だからお婆ちゃんは、宮町さんなの」

 そうか。

 志保は戦後、この宮町家へと嫁いだのだ。

 私は、猛烈に胸に込み上げる感慨を押しころし、平静を装った。

 宮町だ。

 あの男だ。

 この『宮町』という名が、私が知るあの男のものならば、これは奴が生涯を懸けて男の約束を果たしてくれたということだ。

「宮町家は地の名士だったのですね。お爺さまはなんという方なのですか?」

「お爺ちゃん? お爺ちゃんはね、『みやまちいさお』。元々は分家の子だったらしいけど、戦争が終わってから本家を継いだって話だったね。戦争でみんな死んでしまって」

 宮町勲……。

 その、志保の夫の名を聞いて、私はすべてを悟った。

 宮町と聞き、すぐに思い浮かべた私の無二の友、宮町勲。

 そうか、そうであったのか。

 勲が、志保を生涯ずっと護ってくれたのだ。

 勲は、私の親友だ。

 同じ隣組で親同士も飲み仲間で、祭りでも節句でも、幼いころから事あるごとに共に肩を並べていた。

 当然、私の幼馴染みである志保とも、気心知れた友人である。

 勲は私よりひとつ年下で、勉強がよくできる神童であった。

 尋常小学校を卒業後、高等学校高等科へと進み、さらに猛勉強して最高学府である帝國大学へ進んだ。

 将来は学者になりたいと言っていた。

 しかし、特殊電波工学なる高等な学問に類稀なる才気を発揮し、卒業後は帝大に残りいよいよ研究者としての一歩を踏み出そうとしていた矢先、勲は陸軍に乞われて技術将校となり、東京から帰郷して小倉陸軍造兵廠で兵器製造に携わることとなったのだ。

 最後に勲に会ったのは、今年、昭和二〇年の正月だ。

 所属していたブインの航空隊が解隊され、ほとんどの隊員が陸戦隊として残留する中、本土防衛を主任務とする航空隊再編の関係で私は内地へと戻されて、年明けまで幾ばくかの暇を与えられた。

 戦時下において本当に申し訳ないことだと思ったが、寺から知らせを受けたのみで、死した両親の墓前に手を合わすことも叶わないままであったし、隣家であった志保の一家がどうなったかも気掛かりであったので、謹んで帰郷させてもらうことにした。

 志保は生きていた。

 私がまだ遠い南国の空で戦っていた昨夏、空襲により家を焼け出された志保の一家は、降り注ぐ焼夷弾の雨の中を逃げ回り、皆が一命を取り留めていた。

 同じくして、その空襲の目標であった工廠から断腸の思いで撤退した勲も帰る家を失い、一時的に宮町本家を頼ることとしたらしいが、たまたまこのときに志保の一家のことを知り、本家総代に所有の空家があれば彼らを住まわせてやって欲しいと頼んだのだそうだ。

 寒風吹きすさぶ暮れにいろいろと手を尽くし聞いて回り、やっとその事実が分かると、私は滞在させてもらう予定であった寺で早々に両親の仮位牌を預かり、それから一目散に志保の元へ向かった。

 志保が両親共々に私との再会に目を潤ませ、そしてこれを勲に知らせると、勲はすぐに勤務を切り上げて、本家へと戻って私と志保を招いてくれた。

 なるほど、あの家が記憶にあるはずだ。

 私は一晩をあの家で過ごし、勲と志保と共に束の間の安寧を満喫し、そしてまた基地へと戻ったのだ。

 戻る間際、最後に私は勲に頼んだ。

『もし私が帰ってこなかったら、お前が志保を幸せにしてやってはくれまいか』

 勲の驚いた顔が、今も鮮明に思い出される。

 そして春となり、私は開隊された新岩国航空隊へと配属され、そしてあの光の雲に飲み込まれてそのままこの時代にやってきてしまったので、その後の勲や志保のことを知らない。

 おそらくは、だ。

 おそらく、私が戦死したあと、勲が志保をめとってくれて、生涯大切にしてくれたのだろう。

 そして、志保が勲との間にもうけた子に男児が居なかったのか、それとも最初から、踊りのお婆ちゃんこと、結衣さんのお婆さん独りしか居なかったのかは分からないが、宮町の名は勲の代で終わり、あの家が志保の娘と身を固めた男の姓である、『浦田』なる家になったのだ。

 結衣さんに志保の面影を感じたのは、偶然ではなかった。

 結衣さんの曾祖母こそ、私の幼馴染みであり、私が生涯を懸けて護りたかった志保であったのだ。

 私はいま、心から慕っていた志保の忘れ形見とも言うべき結衣さんと毎日を過ごしている。

 感謝すべきは親友の宮町勲だ。

 志保を護ってくれた。

 志保は戦後の混沌から平静の世まで、どのような人生を送ったのだろうか。戦死した私のことを、どう思っていたのだろうか。

「おばさん、よかったら今度、その志保さんのこと、いろいろ聞かせてくださいませんか?」

「ん? どうしたの? 突然」

「いえ、あの鏡台はとても大切にされていたようですから、どのような方だったのかと、少し知りたくなりまして」

「そっか、結衣と悠ちゃんが生まれたときはもう亡くなってたもんね。お婆ちゃんは学校の先生だったそうよー」

 そこで言葉を切った結衣さんのお母さんに次の文言を向けようとしたとき、私はその横顔を見てそれを飲み込んだ。

 口角を上げて、遠くを見つめる結衣さんのお母さん。

 流れる夜空を背景に、港灯りが柔らかにその顔を描き出している。

 いまは、そっとしておこう。

 きっと、そのなにかに想いを馳せる結衣さんのお母さんの瞳の奥には、若かりし頃の祖母、志保の姿が色鮮やかに舞っていることだろうから。

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