第8話

 花屋に辿り着いた時にはもう遅く、凄惨な光景が広がっていた。荷車はバラバラに壊され安易に近づけない。それよりも異様なのは血生臭さだった。地面には一滴の血も垂れていないし死体も転がっていない。胃がひっくり返りそうになるも魔法で打ち消した。ヴァドの隣にいるエルはペンダントを握りしめ堪えている。

 怯えているのかルマはヴァドの足にしがみつく。羽根はぺたりと閉じたまま。

「……家の中に人がいる」

 恐々と震えるルマが声を絞り出した。

「生きているのか」

「うん。一人、だけ。怖がっ……てる」

 それが店主ではないとヴァドは感じ取った。

「ヴァド。あっちだ、向こうに何かいる」

 エルが指したのは森と住宅街の境目。声色こそ落ち着いているが焦りも現れている。数歩引いて彼は少しだけ身を低くした。いつでも後退出来るように。

「とにかく……ニーナの花と種は無関係だったわけか?」

 そうであってほしい。願うように呟く。

 彼女が事件の発端にでもなったら本当に魔女のせいになる。考えすぎも承知だったが嫌なシナリオが浮かんでしまう。魔女が、メアリーが悪役として語られるのは慣れている。だがもしも。もしも、我慢ならないと森に討ち入られ燃やされるのは、存在を消されてしまう、それだけは、

「ルマはここに、魔物の気に触れるな。エル、奴が姿を現したら離れろ」

 何であろうとメアリーが全てを被る必要はない。人間が招いた魔物や事件まで受け止めなくていい。そのために動いている。深い息を零し、メアリーが託してくれたブレスレットの鉄槌をなぞった。

 足元のルマが嫌がるように密着する。今にも座り込みそうであった。離れろと制止しようとしたが遅かった。魔物が近くにいる。普段ならなんて事もなかったが、

「いた、痛い、頭が……痛い……ッぅあ……!」

 ハラハラと羽根が抜け落ちてゆく。魔物の発する気に蝕まれだした。すぐにエルが彼の頭を掴む。苦々しく面倒臭そうであったが「落ち着け」と沈静魔法をかけた。エルのペンダントから淡い緑色の光が溢れ、ルマの耳に集まってゆく。

「っは、は……あり、がと……エル」

 歯痒さと悔しさで泣きそうな顔だった。一瞥してヴァドが数歩進む。ブレスレットにくくりつけられた鉄槌を元の姿──子供を叩き潰せるぐらいの大きさに戻し、しっかりと握りしめた。


 踏み締めているレンガ敷の地面は泥のように柔らかい。頭から肩までグンと重たくなる。奇妙な音が耳の奥にへばりつき、腐臭が鼻いっぱいに広がった。鉄槌で振り払うと、不快感や負荷も消え去った。風が唸り、森へと飛んでゆく。

 花屋の左側は半壊状態で、視線を戻し、木々が織りなす薄暗闇を睨む。気配は向こうから放たれていた。

 店主はあの後どうなったのか。推測を固めるほんの数秒、左肩に強い痛みが刺さった。

「……っ!」

 上着越しに鋭利な何かが食い込み、皮膚までも突き破った。奥深く抉られる前に鉄槌を振りかざすと、鈍い感触が手に残る。深くて重い。決して引かず右腕に力を込める。鉄槌は何かに当たったまま動かない。

(見えない。やはり姿を消す魔法……厄介だ)

 姿を消す魔法は身近なもので、特別難しくない。魔物もよく使う。打ち破るには魔法で対抗するか、弱らせるか。ヴァドは後者を選んだ。

 このまま鉄槌越しに魔力をぶつける。息を鎮めて目を細めた。それしか選択肢がない。左肩の痛みは強く、火に炙られている錯覚もあった。ルマが見たらなんと喚くか、エルが見たらどれだけ心配するのか。不安に埋もれている場合ではなかった。

 何のためにこの鉄槌を授かった?

 己に問いかけてヴァドは口の端を持ち上げる。見えない魔物はジリジリと押し返していた。決めるなら一撃。迷わず躊躇わず、強く、強く、柄を握る。掌から鉄槌へと魔力が走り、貫いた。骨を割る音が伝わる。自分の骨か。魔物の骨か。目眩を覚えつつもヴァドはそこにいるだろう魔物を蹴り飛ばす。

 ふと思い出す。メアリーに反抗したルマを蹴ったことがある。それも何回も。感情任せのまま天使の腹を爪先で痛めつけた。

(あの時と同じだ)

 それでもルマは死ななかった。天使という丈夫な魔力の塊に等しい、神に祝福された清き存在。では魔物は何に祝福された。憎まれた。

 魔物と天使は何が違う。

 血生臭さがヴァドを呼ぶ。

 ブヨブヨとした肉の塊が森の方に転がっていた。地面と鉄槌は赤黒い粘液で汚れている。

「……ぅっ」

 ひどく甘ったるい香が鼻を付く。咄嗟に顔を覆うも不快感は拭えない。気持ちが悪いと胃が騒ぎだす。深呼吸をしたくても体は拒絶した。ソレはまだ動きそうにない。

 ヴァドよりも大きな魔物がそこにいる。ずんぐりむっくりな人間と似た体型をし、上半身は白い花に覆われていた。花びらは大人の男性が手を広げたぐらい大きく、いくつも咲き誇っていた。中心にあるのは人の目玉。どの花にも目玉が埋まっている。

 肉の塊は痙攣しながら身を起こし、顔を向ける。顔と言っても見えるのは引き裂かれ横長くなった口のみ。あとは白い花々に覆われていた。

「ヴァド! ぅえっ何この、うぅ……っ」

 右方から来たのはルマだった。隠すように左肩を見せず、続きを待った。

「ルマ。あの花は何だ」

「こんな時に何言ってるの」

「答えろ。あの花は、ニーナの──」

 言い切る前に魔物は血飛沫を放ちながら、森の奥へ逃げ出す。見覚えのある後ろ姿はまるで、この花屋で怒鳴り散らしていたの店主のようだった。

 このまま森に潜ればこちらのものだとヴァドは走り出す。森はメアリーの領域。彼女の加護がある鉄槌へ込める力は普段より強くなる。仮に逃しても主人であるメアリーが葬る可能性だってあったが、それは避けたいところ。

 あの人にこれ以上背負わせたくない。

 手放さないよう鉄槌を握る。呼応するように柄が熱を持った。

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