第7話

 軽食は済んだ。いつもの日替わりパスタセット、今日はカルボナーラ。時計を見てヴァドはどうするかと腕を組む。三十分後には教会へ戻らなくてはいけない。きっと遅刻はダメだとルマが騒ぐ。

 小さな天使は些細な規律に厳しい。何度もヴァドの心を刺激した。ああだこうだ煩いので、どうにかして口を塞いだこともある。聖職者がしてはならない行いだった。それでもルマは決して「ヴァドは心から神様を信じていない」と言わない。信仰心の無い不届き者だと叫ぶこともなかった。あくまで人として正しい道へ導こうと奮闘している。果たしてそれは天使としての本能だろうか。

「おいしぃなぁ。ね、ヴァドも食べる? 一口ならあげても良いんだけど? ほら」

 無邪気な笑みを浮かべたルマが、グイとスプーンを押し付けてきた。淡い色合いのプリンが一欠片だけ揺れている。

「おい」

 冷たく割り入ったのはエルだった。負の感情に満ちた瞳がルマを刺す。

「な、なんだよ。エルにはあげてやんないから! いっつも意地悪するし」

「……ヴァドに食べさせるつもりか? さっきまで使ってたスプーンで」

「文句あるの」

 ルマが風船のように頬を膨らます。何をもめているのかヴァドは理解しないまま両者を見つめた。こんなことをしている場合だろうか。膨れたルマを突き、拗ねたエルに声をかけた。

「昨日の夜、何か感じなかったか。些細なことでもいい」

「夜?」

「真夜中ぐらい。声がした、とか」

 少し考え込んで、エルは「わからない」と返す。

「そうか」

「何かあったの? 僕知らなかったけど」

 割入ったルマが大きな目で見つめる。興味に満ちていて眩しかった。ゆっくりとヴァドは顔を背ける。

「昨日、ノアンに聞いたが良い情報はなかった。それで……ヴァドはこの後戻るんだよな。その間にやれることやっておくよ、どうせ今日休みで暇だし。役に立ちたいからさ」

 どこか切迫した声だった。力になりたいというエルの気持ちはよく伝わる。それなら、とヴァドが言いかけた瞬間、ぐらりと体が傾いた。ヴァドだけでなく世界そのものが左右に揺さぶられている。プリンを飲み込んでいたルマが激しく咽せ、エルは身を乗り出し周囲を見渡す。

 波のような揺れはすぐに収まった。奇跡的にも机の上は荒れておらず、天井から下げられている電球も落ちなかった。

「なんだ、今、の……」

「えっと、地震ってやつ? なの?」

「地震なんかじゃない。これは。ヴァド、大丈夫か?」

 心配の声をかけるエルだが顔が青い。ヴァドも妙な気配を感じていた。揺れの衝撃はまだ背筋に残っている。

「エル」

「……っぁ、えっと、な、何?」

「行くぞ」

 後悔が湧き上がる。あの時、メアリーの元へ向かっていたら。帰らずにいれば。

 ヴァドは魔力で震源地を探っていた。間違いなくあの花屋だった。

 代金はまとめて机の上に置いた。慌てて出てきたウェイターの少年を一瞥しヴァドは出てゆく。急足でエルがついていき、呆然しながらもルマは事情を話すなりすっ飛んでいった。パタパタと羽根を揺らしながら。

「ちょっと、ちょっとねぇ待ってってば! ヴァド! どこに行くの!?」

 呼ばれても振り返らず返事もしなかった。痺れを切らしたのかルマはギュッと足に力を込め、腰の翼を大きく広げた。半透明から薄緑色に染まってゆく。魔力を一枚一枚に満たしながら跳躍し、ルマの小さな体が宙を舞った。

 エルの頭上を超え、軽やかに着地する。息を切らしながら彼はヴァドを睨んだ。

「ねぇってば! 教会に、戻らないの!?」

「なぜ」

「遅刻するじゃないか! 午後の仕事! まだあるのに!」

 憤るのは想定内だった。無視すればいい。気がつけばエルも近くにいた。帽子が飛んでいかないよう片手で抑えている。

「帰ればいいだろう」

 冷たい言葉で刺され、ルマは泣きそうな顔を浮かべる。どっちが正しいのか決められない。助けてと訴えかけていた。仕方がなくヴァドは口を開く。

「教会に戻ることは、今大事なことじゃない」

 仕方がないとルマを片手で引っ張り、上へと放り投げた。クッションよりも軽い天使は勢いよく舞い上がる。そのまま落下せず、喚きもせず、ふわりと浮いた。

 体力はないけれど魔力で飛んでいられる。不服ながらもルマはついていった。ごめんなさい、と教会に目を向けて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る