第17話


「急いては事を仕損じる。まさにそのとおりだったな、マーさん」


 拓斗と青木は、暗い夜道をふたりトボトボと帰路についていた。


「冗談じゃすまないぜ、拓斗。もういやだ。二度と広瀬に顔を合わせられない」


 この世の終わりに直面したかのように、青木は慨嘆していた。

 大事そうに広瀬のお子様ローファーを握り締め、はたと気づいてそれが手のなかで潰れないように力をゆるめ、そして再び悲しげに見入る青木。


 彼の気持ちがわからないわけではない。

 彼は失恋した、すくなくともそう思い込んでいた。

 ──だが待て。考えてみれば、上島拓斗はこのオレではないか。

 なんのことはない、接しづらくなるのはオレじゃないのか?

 と言ってやるのも大人げないと思ったので、青木の肩を叩いてこう言った。


「まあまあ。明日は文化祭だし、どのみち交代しなきゃならなかったんだよ。年に一度の晴れ舞台、明日ばかりはDJサボるわけにはいかないからな。マーさんは客としてきて、遠くからようすだけ見ればいいじゃないか。

 まだ諦めることないよ、希望も持たないほうがいいと思うけど。もちろんくるだろ、文化祭。ビクビクしなくても、さっきみたいなことがあったあとだし、広瀬が学校にくるかどうかもわからないしさ」


 慰めるつもりで言ったのだが、青木には逆効果だったようだ。

 彼は心のなかで急激に膨らむ罪悪感に責め苛まれながら、


「そうだ。オレたち、もしかしてとんでもないことをしちまったんじゃないか? 広瀬の心に一生消えないかもしれない大きな傷を残してしまったんじゃ……」


 愕然として苦悶する彼を慰められるのは、パリピ拓斗しかいない。


「大袈裟だって。たかがレイプくれェ、アメリカじゃ路地裏のぞけば必ずやってるくらいのもんだ。相手はジョディじゃないから告発に行方はないし、なにより今回のは未遂だから、そう心配することもないさ。マクだってちゃんと残ってるだろう」


 思わず下品な言い方をしてしまった。

 これもすべて青木のためである。


「そういう問題じゃないんじゃないか? 彼女にとって重要なのは、見知らぬ男に力ずくで襲われ、犯されそうになったこと。その厳然たる経歴自体が……」


「それならだいじょうぶだ。なにしろオレは広瀬にとって、けっして見知らぬ男ではない」


「ということを、広瀬は知らないじゃないか」


「そりゃそうだ。知られていたら大変なことになる」


 無理におちゃらけて青木の罪悪感を煙にまこうと企図する。そのひたむきな努力が功を奏したか、当面、青木は少なくとも強姦未遂の罪業カルマを口に出さなくなった。

 表層からの隠匿が罪悪を昇華するわけではないことは重々承知だが、傷を癒すためにもっとも重要なのは時間である。

 その時間を稼ぐための献策を、青木は従容として甘受してくれたようだった。




 ──第二幕、帰宅。

 ふたりとも、どんよりと沈み込んで、裏切り者イスカリオテのユダのように悄然としていた。

 拓斗の場合は、落ち込んでいる青木がかわいそうで。

 青木の場合は、落ち込んでいるであろうことが想像される広瀬を心配して。


 ドアを閉めれば、拓斗か青木が開けないかぎりこれが開くことはない。

 福子の寝室は一階の奥だし、だからこの部屋のまえを通ることすらないはずだ。


 こうして安心すると、沈黙が覆いかぶさってきた。

 疲れきったようにソファーに沈み込んでいる青木に「風呂」とも「食事」とも言い出せず、なんとなく気まずい時間がすぎる。

 ふだんは逃げの一手をきらうのだが、やせ我慢はしない主義なので、なにげなくテレビのスイッチを入れた。

 なにか間をつなぐものがほしかった。


 民放では、あいかわらずばかげたバラエティー番組をやっていた。

 時刻は午後十時をまわっていた。

 張り詰めたような空気のなか、ふとテレビ画面に見覚えのある総合感冒薬『アンチコールド』のCMが流れ、単調なメロディーに乗って「ザッツ、クローバ」というコピーと、画面に会社マークと社名──。


 クローバ・ファーマ・ホールディングス!

 ぞわり、と寒気が走った。

 青木を一瞥したが、どうやら反応はない。「クロベさん」と「クローバ・ファーマ」が、まだつながっていないのだろうか。

 拓斗はなぜか彼にばれないように、スマホをいじるふりをして検索をかけた。


 クローバ・ファーマ。

 そのはじまりは、越中富山の反魂丹はんごんたんを製造する末端の下請けだった。

 黒部渓谷から身を起こし、薬問屋として、有名な富山の薬売りの一角を担って昭和初期までを過ごした。


 戦中戦後の混乱期はいろいろあったらしいが、それでも戦後の経済成長に合わせ、着実に力を増した。

 バブル黎明期、世界の老舗・中堅製薬企業に声をかけて、クローバ・グループを形成。

 この時期はまだ、ただパテントを融通し合う「仲良しクラブ」にすぎなかった。


 莫大な先行投資が実ったのは、昨今のコロナ流行だ。

 日本勢で唯一、高性能なRNAワクチンを開発し、日本の技術力の底力を見せつけた。

 それまでもクローバ・グループの名で統一ブランド化は進めていたが、いよいよクローバ・ファーマ・ホールディングスとして、世界のメガファーマに仲間入りを果たした。


 さらに検索していると、青木にぴったりの案件が見つかった。

 先進医療、画期的修復術といったくくりで、DARPA(米国国防高等研究計画局)との共同研究が進められているという。

 「組織再生のためのバイオエレクトロニクス(BETR)」プログラムに、もっとも優秀な参加企業として名を連ねるクローバ・ファーマ。その「複雑な損傷治療のための技術」は、戦場で爆風などによって失われた組織の再生に活用が企図されているらしい。


 拓斗は、ゴクリと息を呑む。

 五日まえに読んでいたら気にもしなかった記事だろうが、いまはちがう。

 顔面が焼け落ちるほどの重傷、ほとんど致命傷とも思える全身に受けたダメージを、おそろしい速度で治療する。

 そんな「夢の技術」が、ごく身近に。


 ──このドラスティックともいえる研究開発への傾注は、そもそもクロベに七三一部隊の血が流れ込んでいたことにもよるだろう、などという都市伝説サイトを見つけてどきりとした。

 光あるところ、つねに闇がある。


 そこからさきの検索ワードは、かなりヤバい。

 濃い闇を掘り下げれば下げるほど、キナくさい検索ワードが積み重なっていく。

 癒着、逆コース、医療過誤、人体実験……。

 突っ込んだ手が、とうてい底まで届かない。

 ワードをたどればたどるほど、クローバ・ファーマ──クロベの闇が濃く、黒部渓谷のように深く広がっていく。


 ふと、インターネットは記名の精神で動いている、ということに気づいて慄然とした。

 このような検索が、あとあとに影響を及ぼさないものだろうか。

 あわてて世界との接続をシャットダウンし、ぎゅっと目を閉じた。


 単に怖くなっただけだ。

 危ない場所にはなるべく近づかない。それが拓斗の生き方だ。

 で嗅ぎまわるのは、なにもやらないよりなお、わるいことが往々ある。

 そう教えてくれたのは、藤原先輩だ。


 そう、こういうときこそ藤原先輩の助力が必要だ、という思いを新たにSNSを開くが、ここ数日、まったく既読がついたためしがない。

 チョク電してやんよ、と再び標準アプリから携帯番号をリダイヤルするが、つながらない。

 あのひと、なんのためにケータイもってんだろ。スマホの使い方とか知らないのかな。

 無礼なことを思いながら、電気を消した。


 青木はすでにソファーに横になり、酸素消費量の多そうな寝息を立てている。

 その日、悪シ鷹とMakaSが大規模な戦争をくりひろげ、多くの若者が重軽傷を負い、また数名の死者さえ出したといわれる大激突が夜のしじまを騒がせていた……という事実を拓斗が知ったのは、それから十二時間以上が経過したあとだ。

 それを誘発した元凶たちは、まだなにも知らない。

 明日は文化祭初日である。


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