第16話
午後七時三十分。
街灯の弱々しい光が点滅する下、走り抜けた冷たい北風が残り少ない枯れ葉を散り落とし、空中に渦を巻いているのが見えた。
「こりゃ、明日の朝は冷え込むな」
ブルッと背筋をふるわせ、厚手のピーコートの襟をかき合わせた。
生粋の夏男にとってはつらい気候条件だが、自分から言い出した手前、いまさら引っ込みはつかない。
なにより青木のためだ。青木のためなのだ……!
自分を慰め励まして、だれもいない児童公園のベンチに人目を憚って小さくなった。
──
そして広瀬は処女膜の恩人に
うまくいったらお慰みだな、とちょっとばかり冷静になって考えた。
だいたいきょう、これから最高のシチュエーションで広瀬がここを通過するなんてことが、ほんとうに実現していいものだろうか?
青木の予測はそれほどアテになるのか?
恥ずかしそうに「拓斗たちといっしょに帰らない日は、広瀬と帰っていたんだ」と告白した青木。
問い詰めると、すこし訂正した。
──広瀬のあとをつけてたんだ。
そんな彼の情報が不正確なわけがあるだろうか?
そのときケータイが鳴った。広瀬が駅に着いたという青木からの連絡。
拓斗は立ち上がって公園の傾いた金網に寄り添い、そっと道路のようすをうかがった。
駅からここまでは、ほんの五分くらい。
広瀬と同じ道筋をたどる帰宅者は数人いるかもしれないが、広瀬は歩くのが遅いのでその道にさしかかるまでには必ず遅れる。
「ホントかよォ」
いまのところ、青木の前提はドンピシャだった。
目のまえを二、三人、サラリーマンふうの男とOLふうの女が通り過ぎた。
彼らをやりすごし、完全に人通りが途絶えた頃合ピタリ、曲がり角を曲がってその道筋に現れたひとりの女子高生。
弱々しい街灯の光を受けて四方にシルエットを落とし、見なれた制服を着た高校生が近づいてくる。考えるまでもなく、あの型にはまった着こなしは広瀬以外に考えられない。
さすがにドキドキしてきた。
身長一五〇センチとちょっと、体重は知らないが痩せっぽち、出るとこ出てない寸胴。
度の強いビン底めがねがトレードマーク。背中の真ん中くらいまで伸びた髪の毛は、百年前から連綿とつづく伝統の三つ編み。良識ある大人たちが、女子高生かくあれかしと望むままの服装で、望むままに勤勉かつ廉直。
教育行政の効果は浸透し、責任感が強くクソまじめ、悪を許せぬ正義感に恵まれ、他人の、ことに上島拓斗の曲がった性根を叩き直してくれることに命をかけているらしいところがうかがわれる、お節介焼き。
あれが広瀬ではないと証明することは、青木が拓斗ではないことを証明するよりも困難だった。
ああ、青木の情報はなんと正確なのだろう。さすがは広瀬涼子のストーカー。
こうなっては覚悟を決めるしかないと思った。
完全に寂しくなった暗く細い通り。
すこし俯きがちに視線を落として、足元しか見ていない広瀬。
十メートル先にストリーキングがいても気づかないのではないか。
「襲ってくれって言ってるよーなもんだぜ」
他人事ながらヤキモキした。いるはずがないとはわかっていたが、自分よりまえに襲うやつがいたらどうしよう、などという心配さえわいてくる。
もちろんそんなやつは現れず、こうなったらタークィンが餌食となってもらうしかないぞ、ルークリース!
と、拓斗はこれが芝居であることを再確認してから、目のまえを広瀬がゆっくりと歩きすぎた瞬間、飛び出した。
「暴レルト殺スゾ」
背後から羽交い締めにし、マスクに仕込んだボイスチェンジャー越しに脅しをかける。
広瀬はなにが起こったかわからないようだった。一瞬、叫ぶのも忘れて驚いたように目を見開き、なにかを探すように目線をさまよわせた。
拓斗は左手で背後から相手の腹部を抱え込み、右手で口許を押さえ、そのまま彼女の華奢な肢体を引き摺って公園のなかへ舞台を移した。
アッという間の出来事であった。
なかなかの実行力だと、自分で自分を褒めてやりたい。
だれにも褒められることではないから、それしかない。
だれもいない公園の大木の影、ここでなにかが行なわれていると知っている者でもなければ、見咎められるおそれはほとんどないと思われた。
さすが青木、すばらしい舞台を選んだと思う。褒められることではないが。
ガタガタとふるえる広瀬は声帯が萎縮して声も出ないようだったが、念のため猿轡を噛ませ両手両足を緊縛する。
はじめて足をバタつかせて暴れる彼女の、お子さま仕様のタッセルローファーが脱げて飛んだ。
「やめ……やめ」
猿轡の隙間から哀れな声が聞こえる。
広瀬には興味ないが、このシチュエーションにはなかなかそそるものがある。
「ヤメネエヨ」
努めて冷酷に聞こえるよう言い放ち、広瀬の身体を蹂躙しつつ衣服をはぎ取った。
これは、あとにつづく青木の手間を省いてやる意味もある。
──青木はどこにいるだろう、と見まわしたが、だれの姿も見えなかった。
被害者にとっては、犯人が目撃者を警戒して周囲をうかがったようにしか見えなかっただろう。
広瀬はあいかわらず痙攣的にふるえ、身も世もあらぬ体の恐怖に満たされているようだった。
拓斗は広瀬のブレザーをはぎ取り、リボン・タイを引き抜いた。
つづけてVネックの、できればこれを着なさいという学校指定のセーターを脱がせ、はじめて露出したワイシャツは第一ボタンまではめられていた。
──工藤のやつに見習わせてやりたい。
拓斗は左手で広瀬の両手を木の根元に押さえつけ、つぎなる淫蕩な動作を、わが黄金の右手に委ねた。
弾くようにワイシャツのボタンを外し、手を突っ込もうかと思ったがもちろんそれは青木に任せ、標的を下方へと移行させた。
指定どおりの理想的な長さのスカートの下は、これまたお子さま仕様の綿ヒャクパー黒タイツ。
広瀬はじたばた動いていたが、まだ痙攣的なふるえがおさまらず力ははいっていない。
──にしても、そろそろ現れていいんじゃないか、青木。
すこし不安になったが、腕の動きだけは止まらなかった。
据膳食わぬは男の恥というが、べつにこの据膳まで食うつもりはないんだがなあ。早くこいよ、青木。
と思った刹那、ちぢこまってふるえていた広瀬が、いきなり思い出したように渾身の力を込めて拓斗を跳ね除け、大事な部分に蹴りをくれた。
──なんてことをするんだ、この女は!
「ヤロウッ」
反射的に、拓斗はかなりキツく広瀬のみぞおちに拳を埋めてしまった。
「かは……っ」
一瞬呼吸の止まった広瀬は滂沱と涙を流し、以後は完全に脱力したようにピクリとも動かなくなった。
──やばい、ちょっとやりすぎたかもしれない。
いや、でもこのくらいはあたりまえだよ、と拓斗は自分に言い訳する。
だって男の大事なところに蹴りをくれるなんて、それは女として、いちばんやっちゃいけないことじゃないか。
そして拓斗はいま、自分が男として、いちばんやっちゃいけないことをやっているのだということに、知らないフリをする。
──だってべつに、そのつもりはないのだ。
眼下では哀れな広瀬が死んだように脱力して、全身をかすかにふるわせている。
いかな拓斗でも、やっぱりわるいことしてるなあ、と悔恨の念をおぼえ腕の動きが緩んだ。
どうしてこんなことになっているんだろう。オレはいったいなにをしているんだ?
なぜ、こんなやりたくもないことをやって、おぼえなくていい罪悪感をおぼえなければならないんだろう。
逃げ出したい。この状況から脱するには……。
早く出てこいよ青木、と思ったつぎの瞬間、拓斗の身体が宙に浮いた。
背中に激痛が走る。
広瀬とは比較にならない怪力で蹴り飛ばされた、らしい。
──神に? いや、まさか。
「グハァ……ッ!」
悲鳴をあげてゴロゴロと地面を転がる。
いったいだれが現れたのかと疑った。
青木なら、これほど本気で蹴るはずがない。その必要がないからだ。
しかし──否、それはやはり青木だった。
どうやら彼は、拓斗の行為に本気で怒ってしまったらしかった。
こういう直情径行、情緒不安定が稲葉を殺してしまったんだぞ……と叫びかけて、言葉を飲み込んだ。
とりあえず、いまは青木の欲望(愛というべきか)成就を優先させるべき、と英断を下したのだ。
そそくさと塀の影に隠れ、青木たちのようすをうかがう。
どんな喜劇になるか、まったく見ものであった。
青木はしばし、その場に呆然と突っ立っていた。
自分がなにをしたのかわかっていないかのようだった。
──まったく今回ばかりは、オマエはひどいやつだ。背骨が折れたかと思ったぞ。
拓斗は背筋をさすりながら、木陰の特等席で、いまから青木と広瀬のくりひろげようとしている喜劇に見入った。
そこではようやく自分の役割を思い出したらしい青木が、地面に横たわる広瀬のそばに寄り添って、
「だ、だだ、だいじょうぶかい、広瀬」
うわずった声を発していた。この喜劇王は。
一方、まだ意識朦朧としている広瀬は、
「助けて……くれたの、上島くん……が?」
搾り出すように、それだけ言った。
「そ、そうだよ。偶然、通りかかったんだ。身体、だいじょうぶ?」
一発殴ってしまったが、だいじょうぶに決まっている。
最初からそれが前提じゃないか。おまえがもうすこし早くきていれば、もっとはるかにだいじょうぶだったんだぞ。
「ありがとう、上島くん。もうダメかと……思った」
青木のふるえる手が、広瀬の肩にかかった。
──そう、そこだ。やれ、青木!
「だいじょうぶ、もうだいじょうぶだよ」
拓斗が教えたとおりに、青木は優しく広瀬を抱き締めた。
抱き返すかなと思ったが、広瀬が動く気配はない。されるがままという感じだ。
青木には「むこうから求めてくるぜ」などと大見得を切ってしまった手前、この展開はマズイかな……と危ぶんだが、大局に影響はあるまいと楽観思料して見守る。
せめて抱き返してやればいいのに、性懲りもなく照れてでもいるのだろうか、広瀬は人形のように動かなかった。
青木の手が、ぎこちなく広瀬の上を這っていた。
だらしないな、あいつは。もっとこう、粘りつくように濃厚な、アレをな、ほら、コレして、そう、いやちがうよ、マーさん、ああもどかしい。
木陰でひとり、身をくねらせる拓斗。
青木と広瀬の喜劇は、依然として佳境にさしかかってもいない。
青木の手はモタモタとふるえ、拓斗が四秒で脱がせたものを一分かけても脱がせられないでいる。
「ブルッ。さむ……」
冷たい北風が吹き抜けたので、寒がりの拓斗は思わず全身をふるわせた。
あたりを見まわし、脱ぎ捨ててあった防寒用ピーコートを探し出すと、すばやく羽織った。
青木、寒いよ。おまえらはポカポカとほてっているかもしれないが、観客のことも考えてくれ。なんなら手近のホテルに連れ込んだほうが楽じゃないか?
と、拓斗なら応用をきかせるところだが、青木の場合はそういうわけにいかなかった。
拓斗の教え込んだマニュアルどおりに動くしか、彼にはなす術がないのだ。
あいかわらず広瀬はマグロだった。
──アイツも、もっと情熱的になっていいと思うんだが。
命の、いや貞操の恩人だろうが。これだからお子様ランチだっつーの、おまえは。
たったひとりの観客は、俳優たちを野次り倒していた。
だが、青木に急がなければならない事情があるのと同様、広瀬のほうにも広瀬の都合というものがあったのだろう。
彼女は、助けてもらった恩に報いようとでも思ったのか、しばらくは青木のたどたどしい愛撫を黙って受けていたが、その手がようやく重大な局面まで移行するに及んで、
「ダメ! もうダメなのっ」
またしてもいきなり理性のすべてをとりもどすと、激しく青木の身体を突き飛ばして、衣服を羽織るのもそこそこに立ち去って行った。
こういう場合についての次善策がなかった青木は、どうすることもできず、ただ呆然と走り去る彼女を見送るしかなかった。
視線を下ろすとシンデレラの靴が片方、彼の足下に転がっていた。
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