哀しい金曜日

第15話


 午前十一時、学校。

 きのうと同じように帽子をかぶり、黒縁のダテめがねをかけて、拓斗はついぞ訪れたことのない図書室にいた。


 なぜこんなところにいるのか。それは、ここにはまちがっても工藤がくるはずはないということを知っているから、でもあるがそれだけではない。

 この伝統の図書室で、一度も触れたことのない種類の書籍に囲まれた拓斗は、がらにもなく沈思黙考していた。


 浅薄にもたったいま、脳に詰め込んだばかりの情報を使って表現するなら──シナプス結合の赴くままに思索の触手を伸ばし、かくの如き神経細胞の有機的結合によってその内容量を拡張している、かァ?

 ふざけんな!


 だいたいオレは根っから文系で、くそったれの理系にはミジンコも縁がないのだ。

 座右にバイブルやシェイクスピアはあっても、『たのしい理科』は断じてない。

 畢竟、ページを繰るほどに、不可解な暗号の羅列への憎悪は募るばかりだった。


「マーさんは、こういう本を書くような不逞不遜の輩に変えられてしまったんだな」


 心のなかを吹き抜ける一抹の寂寥が、潜在的憤怒を蓄積させた。

 いずれにせよ、もう勝手にしやがれだ、と捨て鉢に吐き捨てながら、こむずかしいそれらの本を重々しく本棚にもどして「ハァ」と溜め息を漏らしたとき、


「あら、上島くんじゃない。あんまりめずらしいところにいるもんだから、わからなかったわ」


 憎まれ口の暴風をまとい、ビン底めがねの奥で嘲弄する女は──広瀬ではないか。

 しまった、考え事をしていたせいで周囲への注意が疎かになっていた。

 しかし、なぜ文化祭準備と称して授業休止となった楽しい日、つまり図書室にくる必要のない休息の時間(?)を、この女はこんなところで費やそうというのか。

 はっきりいって、おまえ異常だぞ。


「学校のなかで帽子かぶるのやめなさいよ。それになんなの、そのダテめがね。ぜんぜん似合わない」


 両手を腰に当てたお得意のポーズから、広瀬は拓斗に向けてまっすぐに人差し指を突き出した。

 ──くっ、ひとを指差すとは無礼なやつだ。


 それにしても、よく見抜いたな。

 いま巧妙に変装したオレの姿は、母親だって見分けられないだろうに。いや、そういえばきのう工藤にも見破られたっけ。

 もしかしてオレ、変装ヘタなのか?


「うるせ……」


 反駁は呼気とともに止まった。

 青木──図書室のドアのところに見えるあの姿は、まちがいない。

 なにを思って現れたのか、ここで鉢合わせしたら非常にまずいことになる。


「どうしたのよ、上島くん。うしろになにか」


 ふりかえろうとする広瀬を、拓斗はあわてて抱き寄せるしか手がなかった。

 そして考えるよりも早く、彼女の耳元に寄せた口がまわる。


「キミがどう思うかわからないけど、このめがねは、すこしでもキミに近づきたくてかけてみたんだ。でも滑稽だよな、もう二度とかけないよ」


 恋というものは、まず相手に恋愛対象として意識させることが肝要だ。

 そのために適切な語句を選び、歯が空を飛んでいくかもしれない危険な甘いセリフを広瀬の耳に囁いたのは、むろん唯一、青木のためである。

 晩生おくての青木と、超晩生の広瀬をくっつけるには、こういう密かな努力が欠かせない。


 広瀬が拓斗の言葉の意味を脳裏で反芻し理解しようとするあいだに、急いで図書室から駆け出し、青木の身柄を確保した。

 ──彼は危険な状態だった。




 拓斗は青木を人気のない体育館裏に連れ込み、その身をいたわった。

 体躯には異常な兆候が見られた、というか最初から異常しかない。

 全身から脂汗が噴き出し、筋肉が不自然に痙攣している程度なら、まだましだ。


 青木はぐったりとその場に座り込んで、つらそうに短い呼吸をくりかえしていた。

 己の心臓を握り締めるように押さえて鼓動を確認し、まだ活動している生命を再確認しているようだ。

 無力な拓斗がどうしていいのかわからずオロオロしているうちに、青木は小康状態に落ち着いた。


「だいじょうぶか?」


 陳腐な台詞しか思い浮かばない。

 青木は乾いた唇を唾液で濡らし、それでもまだ遠慮を捨てきれていないらしく恐縮の体で顔を上げ、


「すまん、迷惑かけて」


「そんなこと言ってる場合か。──けどやっぱりヤバイぜ、マーさん。いろいろ本を読んでみたけど、わかったのは、オレなんかがどうこうできる問題じゃないってことくらいだ。もうどうしようもねえよ。病院に……もどったほうがいいのかもしれないぜ」


 つねづね考えていたことを口にした瞬間、彼はまたしても強硬にそれを否定した。

 あそこにだけはもどりたくない。拓斗の迷惑になるなら、もう二度と迷惑をかけなくてすむところへ、遠くへ行く……と、駄々をこねる。

 そして最後は、いつものように広瀬への思慕のみをくりかえすのだ。

 そんなにいい女か? アレが。


「広瀬はいい子だよ。拓斗が好きなんだ」


 拓斗は半ば呆れつつ、親友の思い込みの根強さを思った。

 とすれば先刻、彼のためだけに口走ったセリフを報告してやれば喜ぶだろう。

 そう思って、広瀬を抱き締め「キミに近づきたくて」からの名台詞を並べ立てたのだということを話してやった。

 すると彼は溢れんばかり満面に笑みを湛え、


「オレうれしいよ」


 予想以上の喜びようだった。


「そ、そうか、うれしいか」


「うん、うれしい。拓斗がそんなこと言ってくれたなんて。オレ、広瀬に対してだけは、どう接していいのかわからなかったんだ。いままでは拓斗、すごく冷たく当たってただろ。それがいきなり豹変したらおかしいじゃないか。

 だから……でも、これできっかけがつかめた気がするよ。──ああ、わかってる。もちろんオレのために言ってくれたんだろ? やっぱり拓斗は親友だ。楽しみだ。文化祭準備にも張りができたよ。広瀬とどんなふうに接したらいいかな」


 これほど喜んでもらえれば拓斗としても悔いはなかったが、一応、釘を刺しておく。


「裏目に出ていても知らないぜ」


「平気さ。だって広瀬は拓斗のことが好きなんだから。むかしからそうなんだ、ずっと、ずっと。オレは知ってる。ずっと広瀬を見つづけてきたオレにはわかる。広瀬がいま、どんなにうれしい気持ちになっているか」


「はいはい。まあ、おまえがどう思っているかは、おまえの自由だ。けどオレの意見を言わせてもらえば、広瀬はオレのことが大きらいだと思うぞ」


 互いの憎悪関係こそが、上島拓斗と広瀬涼子の存在理由だ、とすら言い放ちたいくらいだったが、朴訥な青木はただ笑って首を振るばかりだ。


「平気さ。広瀬は拓斗が好きなんだ」


 断固とした口調であった。

 世の中がどれほど曲がっていても、彼のこの意見だけは決して曲がらないだろうと思われるほどの信念が、そこには垣間見えた。


 そして同時に、どこか物悲しげだとも思えた。

 もっぱら恋愛関係の精神現象には鈍感な拓斗であるが、一瞬後その真の意味に思い至って、激しく胸を締めつけられた。


「なあ、マーさん」


 思いきって質問してみようと思った。


「ん、なに?」


 うながされても即座に言葉が出ない。

 なんとか意を決して、ようやく口を開く。


「マーさんはいま、オレの姿してるよな。そんなマーさんを、仮に広瀬が好きになったとする。でも、それってマーさんが好かれてるわけじゃないだろ。それでいいのか?」


 すると彼は、驚くほど平然と答えた。


「ぜんぜんいいさ。望むところだ。オレ、中身はたしかに青木正広だけどさ、広瀬と接しているときは、まちがいなく上島拓斗なんだよ。すくなくともそう信じてるあいだは。オレがそう信じることで、広瀬は拓斗のことが好きであると同時に、オレも好いてるってことになるんだ。そうさ、広瀬は好きでいてくれるんだ。こういう考え方って不健康かな。いけないかな?」


 いけないわけはない。彼がそれでいいなら。

 むしろそこまでの決意だと知った以上、より強力な協力を惜しまないことを、ここに誓おうではないか。


「OK、了解、わかったよ、マーさん。そこまで思い切ってるんだったら、オレにはもうなにも言うことはない。こうなったら、広瀬涼子をさっさとマーさんのモノにしちまえ」


「モノに? うん、そうだな。ちゃんと告白したほうがいいかな、やっぱり」


 テレテレと言う青木。

 なんて愛らしい姿なんだ。おっと、思わず自分を褒めてしまった。

 しかしそれもそうだが、そうじゃないんだ、青木。もうすこし即物的かつ直接的な想像力を働かせられないか?


「できればもっと手っ取り早い手段を使おう、マーさん」


 青木の背中を押すことに義務感さえも感じていた拓斗は、計略としてはかなり古いかもしれないが、それだけに効果的な策を脳裏に巡らせていた。

 広瀬がカバンに大量の教科書と、ピンクのカバーの変態的な文庫本を詰め込んでいることは、拓斗も知りたくはないが知っていた。が好む傾向もだ。

 拓斗は開陳した、ほとんど古典的ともいえる、そのシナリオを。


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