第14話


「あいつは独りじゃ生きられないから、オレはだいじょうぶ」


 それが青木の第一声だった。


「あいつ……?」


 異常な話には、異常な展開が伴う。

 青木は目を細め、ゆっくりと語った


「オレのなかには、べつのオレがいる」


 ほとんど哲学的、精神現象学的なテーマからはじまったかのように思われる青木の告白は、しばらくのあいだ、あまりにも荒唐無稽のような気がした。


 ──手術室では当然ながら深い麻酔、いわゆる昏睡状態にあったはずなのだから、大脳や中枢神経は眠っているし、だからいわゆる自動性をもつ呼吸と心臓の脈動以外は完全に機能停止状態で、なにかを聞いたり理解したり記憶に保存したり、そんなことが可能であるはずはない、と思う。


 だが青木は、

 すくなくとも本人は聞いていて、記憶していると信じていた。

 彼は自分の身体になにをされたのか、それを客観的に判断するための材料をある程度まで与えられたのだ、ということになる。


 ニューロトロフィン、特異受容体レセプター、シナプス結合の可塑性、アポトーシス・コントロールに、修復修飾因子──と聞いたところで拓斗には、なんなら語っている青木自身にも、おそらくさっぱりわかっていない。

 およそ一般ピープルに縁のない世界の単語、専門用語がつぎつぎ並べ立てられる。


「ともかく、それ、治療、なんだよな?」


 拓斗の問いに、しばし首をかしげて考え込んでいた青木は、やや内容に具体性を増して語り直す。


「救急隊員の心臓マッサージからはじまって、電気ショック、気管内挿管、点滴、X線CT、MRI、切開、穿刺、いろんな器具がオレの身体にめり込んできた。ありとあらゆる手がオレを奥まで広げた。脳の、さらに奥まで」


 青木は哀しげに自分の手を見た。自分の手であることを確認するように。

 彼はゆっくりと、どこかとりとめなく、記憶のかぎりを、できるかぎり整理しながら、滔々と暴露する。彼の周囲ではこんな言葉が飛び交っていた。


 救急車のなか「心臓マッサージ、一、二、一、二……」「呼吸停止、気管内挿管」──初

療室「ニアDOAです」「深昏睡、蘇生術を」──手術室「急いでっ」医師の声「デフ用意」引きつづいて行なわれた電気ショック。

 医師はパドルが横滑りしないように力を入れて押しつけ、三からカウントダウン。看護師らがすばやく一歩退く。

 五〇オームの負荷抵抗へ、二〇〇ジュールの電撃が炸裂。全身の筋肉が収縮し、青木の身体が飛び跳ねる。一斉に心電図モニターを見やる手術室の人々。

 一瞬の沈黙に引きつづき「つぎ、三〇〇」。

 出力を三六〇まで上げて、つごう三回にもおよぶ体表からのマクロショックをくらった彼は、数キロボルトの電圧に叩きつけられた瞬間をこのように表現する。


「死ぬかと思ったよ」


 いや青木、死んでたから電気ショックくらったんだろ。

 とにかくこうして彼は「心肺再開」したが、肉体の混乱はつづいていた。


 処置室「自発呼吸、消失」医師の声「人工呼吸器による強制呼吸に切替え」看護師の声「脳波検査、低振幅確認」技師の声「CTでは脳腫脹の徴候が見られます」青木の身体は簡易人工呼吸器をつけたまま、看護師たちの手で運ばれた。

 再び手術室「頭蓋内圧は?」医師たち「現在、七四、七八(ミリHg)です」看護師たち「灌流圧、理論値三〇を切っています」「内圧一四〇を記録」「灌流圧、理論値ゼロです」「先生!」看護師の悲鳴のような叫び。医師の「やれやれ」という溜め息。


 ──クロベさんに連絡いってるから。家族は? あ、そう。

 高齢らしい医師の気怠い声。倦怠。無造作な処置。

 生きた肉塊を扱うように。


 病室「瞳孔、固定。左右とも径四ミリ以上」準夜勤と交替したらしい看護師「アトロピンテスト、マイナスです」「微弱ながら、いまのところ頭蓋内循環は確認されています」ひどく疲れたような声は「瞳孔、散大」そして「こりゃあもうダメだな。無呼吸テストでもやってみるか」医師がぼやいている。

 呼吸器が外される。炭酸ガスの増加。苦痛。


 本来、人間の死を客観的に判定するための無呼吸テストは、最後に行なわれなければならない。

 だが、たった一晩、いや数時間のうちに最後のテストまで行なうのは、あまりにも早すぎる──と、が言っていた。


 看護師の声「無呼吸テスト、マイナスです」「各種脳幹反射、消失を確認」「脳波、フラット後三十分。一応、脳死判定基準を満たしています」「心停止」医師の溜め息。

 視界がフラッシュしたように、青木はハッと目を開けた。

 それからしばらく黙して頭を抱え込んでいた彼は、やがてゆっくり顔を上げ、


「そして──黒服のやつらが現れたんだ。あいつらはオレの両親を説得して、オレの身体を使ことをって言ってた。はは……勝手にしやがれだ。つぎに、白衣のやつらが現れた。医者とはちがう、なにかの研究所のひとみたいだった。オレを眺めていたよ、しばらく。それからあいつらは、ここから」


 そう言って青木は自分の鼻を指差した。

 上半身を起こして座らされた手術台の上、脳を三次元的に固定する「定位法」用の台に載せられ、ピクリとも動かぬようにガッチリと固定された頭部にCTとMRIによるデータに基づいて、脳下垂体に向け三次元のベクトルを決め、なにやら金属の棒のようなものを挿入。これは「マイクロ・サージェリー」と呼ばれていたらしい。


「この鼻の穴から太い針みたいなものを突っ込んで、そして注ぎ込んだんだ、を。手術室に集まった白衣の連中は、オレを囲んで、さっきみたいなむずかしいことを言ってた。オレにも意味はよくわからない。けど、要は脳に受けた損傷を治癒させるための、ある種の有機化合物を打ち込んだっていうことらしいんだ。太い注射針で、脳の損傷部へ──直接。そいつの名前は……ソロモン」


 ぞわり、と拓斗の背筋にいやな感覚が走る。

 ソロモンって……聖書でじゃん。


「名前ってなんだよ、マーさん」


「いや、オレもよくわからないんだけど、なんか特殊な配合の化合物で、ウイルスとか細胞とかDNA混ぜ合わせて、えらい研究者さんがつくったんだって。デビッド佐藤さん、だったかな」


「たしかにソロモンのオヤジはダビデだけどさ……」


 まさか聖書も、ここまで冒瀆的なプログラムに、自分たちの名前が採用されるとは思っていないだろう。


「そのときオレは、意識なんてあるはずないのに、いや、それまでだってずっと意識なんてなかったはずなのに、一気に思い出した。思い出したんだよ、拓斗、救急車に乗せられてから以後、自分の身に起こったこと。そうさ、がオレのなかの記憶を呼び覚ましたんだ。あいつらが……オレは、オレはおぼえてる、が、オレのなかに、はいってくるようすを、はっきりと」


 ひとことひとこと、かっきりと区切って語る青木。

 ブルブルとふるえて、蔓延する恐怖はすさまじい。


 その後ICUに移された彼の身体は、点滴や尿道カテーテル、心電図の電極板、酸素吸入のビニール管など、さまざまなチューブ類に拘束された。先日、拓斗が埼東病院で見たとおりの(青木の隣人ではあるが)スパゲッティ・シンドロームに落ち着いたのである。

 目を開かず、身体も動かさず、ただ人工呼吸器によって無理やりに呼吸させられた。


 巡回にまわる看護師のヒタヒタという足音。

 集中治療室で休むことのない人工呼吸器の規則的な排気音。

 突然響き渡るアラームによるナースコール。

 うなり声、いびき、呻き。


 青木はそれらの音を聞いていた。

 目も口も、体中のあらゆる感覚をも閉ざしていたが、不思議に聴覚だけは残っていた。

 彼は彼の周囲で交わされた会話を、おしなべて記憶している。




「――第三次救急医療にまわすんですか?」


 面倒を他人に押しつけたがる傾向を察知しているらしい看護師の声と、


「まがりなりにもICUを持っている総合病院が?」


 なにやら思惑ありげな中年男の応じる声。


「す、すいません」


 時間の感覚は、あまりない。

 なんとなく自分について話されているらしい内容だけ、記憶している。


「尿崩症みたいですね。視床から脳下垂体に近い手術だったからでしょうか。脳下垂体ホルモン異常――ADH(抗利尿ホルモン)の分泌低下ですか」


「だろうね。まあ多くは一過性だから、とりあえず輸液で対処しておけばよかろう」


「わかりました、谷村医長」


「頼んだよ。じゃ、私はこれで帰るから。あとはよろしく、仲里くん」


 立ち去る谷村の足音。仲里の憮然とした嘆息。

 そういえばあのとき、救急の初療室にいた医師の名も──。


「尿量が多いな。キミ、水溶性バソプレシンを五単位ほど、皮下注射しといて。三時間しても尿量と尿浸透圧に改善がなかったら、引きつづき同量の注射を」


「わかりました、先生」


 仲里の声。

 看護師の気怠げな応答。


「血清ナトリウムが一一〇を切っていますが」


「やれやれ、今度はADH分泌異常症候群か。こりゃ下垂体がパニクってるな。谷村医長も面倒な患者を残して行ってくれたよ。──高張食塩水の輸液、それからループ利尿薬。脳浮腫があるから時間をかけて」


 断続する看護師と医師の会話。


「おはよう。どうかね、彼のようすは」


「どうなんでしょうねえ。APACHEⅡ(重症患者の客観的評価法のひとつ)では死亡率92%のはずですけど」


「ふふん。それじゃ高炭酸許容方針(生命を優先し多少の機能的損失には目を瞑る、というやり方)でやってみるかね?」


「動脈血二酸化炭素分圧が高値でpHペーハーが低い、理想的な呼吸性アシドーシスだったら(その場合、高炭酸許容方針により死亡率は半減する)いいんですが」


 このとき夜が明けていたらしいことは、青木にもなんとなくわかったらしい。


「頭蓋内圧、危険レベルにあります」


「まいったな、専門家(谷村医長のことか)は帰っちゃったし。ううん……ああ、とりあえず筋弛緩薬を投与、自発呼吸を止めて機械的呼吸に切り換えよう」


 青木につながっているベンチレータのアラームが鳴った。

 彼の無呼吸を感知した人工呼吸器のバックアップ機構が作動し、強制的に肺へ酸素が送り込まれた。


 呼吸しちゃダメだ。オレは死ぬんだから……。

 そのとき青木は一心に念じていたが、機械的人工換気の目的と患者自身の目的は相反していた。


 心拍数が異常に増加。

 引きつづき心電図のアラームが鋭い電子音を発した。

 呼吸・心拍が弱まった患者に対する措置として、心臓マッサージのほかに、昇圧剤、呼吸促進剤、強心剤の投与が行なわれた。


 青木には

 病院によっても、によっても。


 そこまで言って、彼は口を閉ざした。

 全身がガタガタと小刻みにふるえていた。


「あいつ……って」


 ソロモン。

 なんだよそれ、現代のホラーにもほどがあるだろ。


「もしかしたら、こいつはオレを、罰しようとしているのかもしれない。そう思うこともあるよ。だってオレは、つよしくんを殺したオレは、もう……ただの人殺しなんだ」


 人殺しは罰を受けなければならない。

 父も言っていた。

 罪人はすべて罰を受けなければならないんだよ、と。


 それは古来、神のなさる仕事とされていた。

 だが現代は、そうはいかない。

 ──われわれが、やるしかないんだ。

 黒いだぶだぶの裁判官服を着た父の面影が、拓斗の脳裏をよぎる。

 父に裁かれるなら、それはそれでいいような気もする。

 だが青木の場合は……。


「がんばろうな、マーさん。学校、明日もさ」


 いま、拓斗にできることは、いま、拓斗がやっていること。

 生きるんだ……。


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