第13話


 宵闇。

 駅で待ち合わせた拓斗と青木は、そこで密かに合流し遅い電車で帰途についた。


 拓斗は昼間から何度も、きのうの現場へ赴いて証拠湮滅を図ろうかと思ったのだが、根っからの犯罪者ではない者がよけいなことをすると藪蛇になりそうだったし、なにより死体が怖かったのでやめた。

 殺戮の舞台となったグラウンドゼロは、拓斗らのようにあの廃ビルを不法使用する者でもあまり行かないような奥まった場所だったし、だからもしかしたら永遠に見つからずにすむかもしれない……などという現実味のない淡い希望を抱いたりもした。

 とにかく拓斗は、このイヤなほうの現実から、当面、目を背けることに決めていた。


 電車を降り地元駅から家に帰るあいだじゅう、拓斗も青木もそれほど口を開かなかった。

 学校生活はうまくいったのだろうか?

 広瀬とはどんな会話を交わしたのだろうか?

 クラスメートとは万事遺漏なく接することができたろうか?

 万一の事態に直面して緊急避難的に役割交代を余儀なくされた際、ぜひとも拓斗が知っていなければならないような連絡事項はないだろうか?


 それらの疑問符に対する回答は、いずれ青木の状態が落ち着いたら聞けばいいと思った。

 とにかくいま、極端に消耗しているらしい青木自身が問題だ。


 拓斗は腫れ物に触るように、ゆっくりと、優しく彼の身柄を自分の部屋に連れ帰った。

 家にはもちろん福子がいたが、あいかわらず拓斗に干渉しようとはしなかった。

 状況が状況だけに、ありがたくもあったが。


 青木は両手で頭を抱え、いまにも呻き出さんばかりにもがいていた。

 それが精神的な煩悶なのか、肉体的苦悶なのかは、拓斗にはわからない。

 あるいは「力を尽くして狭き門より入」ろうとしているのだろうか。

 いずれクリスチャンを破門された拓斗としては、ただ彼をそっとしておいてやることしかできない。


 雑事をこなしているうちに、午後八時をまわった。

 ようやく落ち着いてきた青木と、拓斗はひさしぶりに湯船をともにすることにした。


 洗濯機に二人分の服を詰め込むと、ちょうど一杯になったようなのでスタートボタンを押した。

 上島家では、洗濯だけは自然に分担している。

 洗濯機に服を入れたとき、中身がある程度あったら、そのひとが洗濯機をまわすのである。


 干す覚悟のあるひとだけが洗濯機をまわす資格がある、という名言がある。

 うちの場合は、たたむ覚悟がなくても洗濯機はまわしていい。


 風呂に関しても同様で、浴槽の汚れが気になったひとが、メーカー指定の粉末洗浄剤を混入して、コンソールから「洗浄」コマンドをピッと出す。

 この技術力にしても、風呂という習慣にしても、大日本帝国万歳!

 などと想念をあちこちしつつ、拓斗は青木にいろいろと語った。


 青木は精神と肉体の苦痛が小康状態にあるらしく、シャワーを浴びながら弱々しく、その「上島家ルール」を聴いていた。

 その顔はつまりオレだから、オレってけっこう格好いいな、と自画自賛した。


 ウィッグを取った青木は、驚くべき変化の集中している頭部を無造作にゴシゴシとこすった。

 外見的にも驚くべきことに、髪の毛はたった一昼夜で一センチほども伸びていた。

 奇妙なのは前髪と後れ毛の伸びる早さの差で、まるで拓斗のヘアスタイルを目指しているかのように、適度なバランスを保って伸びつつあるようだ。


「頭、だいじょうぶか、マーさん?」


 大事そうにウィッグを洗っていた青木は、何度もうなずきながら、


「ありがとう、拓斗。だいじょうぶ、これ以上わがままいって拓斗に迷惑はかけないよ」


 そういう問題じゃないような気がしたが、黙ってうなずいておいた。

 ……彼は果たして、なんと痩せてしまったことだろう。


「しっかり食べなきゃ駄目だな、マーさん」


 父親のような気持ちで言うと、彼はダイエットに成功した娘のような口調で答えた。


「せっかく痩せられたんだぜ。オレ、じつはちょっとうれしいんだ。ほら、広瀬って痩せてるだろ。だから彼女の横に立つには、やっぱり拓斗くらいにスリムじゃないとおかしいだろうなと思ってた。いままでのオレじゃ似合わないだろうな、って。それがいま、こうしてスリムになってる。夢が実現したんだ。うれしいなあ、信じられないよ」


 信じられないのは拓斗も同様だった。

 それにしてもあまりに急激すぎる変化、こんなに痩せちまった青木に捧げる一句が、ふと脳裏に浮かんだ。

 痩せマーさん、負けるな拓斗、これにあり。




「マーさん」


 部屋にもどり、ボーッとしている青木の愛称を何度目かに呼んだとき、


「あ、ああ」


 彼はハッとして、こちらに顔を向けた。


「だいじょうぶか?」


「うん、だいじょぶ。すまない、心配かけて」


「それはいいんだけどさ。──学校、どうだった?」


 青木が忌避している話題がなんとなくわかってはいたが、問わずにはいられなかった。


「うまくいった、とは言えないと思うよ。拓斗みたいに行動するのって、思った以上にむずかしいから」


「そうか。まあそうだろうな。ひとがひとり、そっくりそのまま入れ替わろうっていうんだから、そりゃ当然のジレンマだ。──授業のほうはどうだ?」


 広瀬のことを訊いてやりたかったのだが、なんとなく遠慮した。

 青木は首をかしげて、


「わからない。きょうはテスト返しと答え合わせで終わったから。あ、そうだ。これ、きょう返されたテスト。けっこうできてるんだな、拓斗」


 カバンを開けて答案用紙を返す。

 ふつう他人にはあまり見られたくない紙片だが、小学校時代から青木と稲葉とは、あまり気にせず互いのテストなど見せ合っていたから、それはぜんぜんかまわない。

 が、広瀬によれば「わたしのおかげ」らしいことを思い出し、拓斗はちょっといやな気分に襲われた。


「オレはオレのおかげで点数を取ったんだ……」


「明日は文化祭準備で授業がないからいいけど、先々のことを考えると不安だよ」


 そんなに先があればいいが、などということは思っても言わない。


「そうだな。来週は月曜日が片づけで、火曜日が振替休日で、授業は水曜日からか。まあ、まだまだ時間はあるよ。来週からはお勉強をはじめよう」


「勉強かあ……」


 彼はつまらなそうにぼやいていた。

 それはそうだろう。彼にとって、いや大多数の人間にとって、生存する価値はその快楽の大きさに比例する。

 知的快楽を強く求める高等遊民などは別として、こと若さ横溢する青少年の求める快楽というものは、きわめて即物的なベクトルをとりやすい。

 すなわち、青木は勉強したいわけではなく、広瀬とラブラブになりたいだけなのだ。


「とにかくメシにしようか。ちょっと待ってろ」


 階下に降りて、さっき山ほど買ってきたインスタント食品をレンチンする。

 どこかで福子を見かけた気がしたが、あんなものに気をとられてはいけない。

 相互に徹底的無視、というルールは青木にも貫徹させている。


 多すぎる食料を抱えて二階にあがる息子に対しても、母親は読みかけのイタリアの雑誌から目を上げようともしない。

 世の中この家くらいチョロければいいのに……。


 拓斗はため息まじりに自室へともどった。

 そこにはあいかわらず、疲れきった表情の親友。

 食事を勧めると、最初は食べたくない、と思春期の女子のようなことを言っていたが、いざ一口ほうりこむや否や、目の色が変わった。


 ガツガツと、まるでこれが人生最後の食事であるかのような、それこそ「最後の晩餐」の勢い。拓斗は呆気にとられて、しばしそのさまを眺めていた。

 拓斗がエビピラフを半分も食べきらぬうち、青木は残りの全部を残らずいただいてしまった。

 これほど豪快にその健啖ぶりを発揮してもらえれば、食べられたメニューたちも食品冥利に尽きたことだろう。

 オレンジジュースを一息に飲み干す青木がコップをテーブルにもどして一息ついたとき、拓斗は思わず自分の食べかけのピラフを差し出し、


「これも食べる?」


 と問うた瞬間、青木はハッと我に返ったようだった。

 自分の行動に気づいて、廉恥と自責と懊悩に身悶えしつつ、彼は言った。


「すまない、オレ……」


 青木は頭を抱えてベッドに横臥した。

 そのくりかえす小刻みな呼吸以外、防音設備の整っている拓斗の部屋は完全な沈黙が支配した。


 考えてみれば、終始、青木の歩調は頼りなかった。

 綱渡りの状態であるらしいことは明白だった。

 もとより無理な仮象なのであろうことは、ブンブク茶釜を思い出すまでもなく察しがついた。

 とにかくいつ破局が訪れるのか、まったく予断を許さない状態であることに、疑いをさしはさむ余地はない。


「頭が……」


 抱え込んだ頭蓋の奥から、搾り出すように声帯を揺らす青木。

 この現象、この病態はもはや一個人の対応限界を超えていると思った。

 最初から超えているのだが、ついに第三者の介入を求める時期が到来したのだと推察する以外に手はない、と確信した。


「救急車、呼ぼうか」


 電話に手を伸ばそうとする拓斗は、しかし即座に青木の鋭い目線に射抜かれてピタリと動きを止めた。

 やはり目は口ほどにものをいうのだな、と初めて実感した。

 彼は真っ赤な瞳で拓斗を凝視していた。


 なんて恐ろしい目。

 青木の目。


「マーさん?」


 青木ではない何者かの介在を本能的に予感して、思わず問うた。

 彼はしばらく答えなかった。刹那、その目に青木自身がもどって、彼はふっと表情をゆるめた。


「言わなきゃな、やっぱ」


 彼は覚悟を決めたようだった。


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