痛い木曜日

第10話


 早朝。

 拓斗はソファーのうえで目覚め、心地好いまどろみのうちに「どうしてベッドに寝ていないんだ?」と、半ば真剣に考え込んだ。

 ベッドを仰ぎ見ると、頭の真っ白い何者かが眠っていた。


 思い出した。

 まったく信じられない経緯の果てに重傷を負った親友をわが家に連れ帰り、そのおそるべきダメージを覆い隠すため透明人間のように包帯をグルグル巻きにして、すべての厄介ごとをまとめて真っ白い布の下に封じ込めた、と信じたことを。

 封じ込めたのはいいが、封じ込められたモノは依然として、わが手中にある。


「はあ」


 ことなかれ主義者が溜め息を漏らしたが、現実は揺るがない。

 いま、犯罪者・青木はベッドで静かな寝息を立てている。


 それにしても怪しむべきは、あれほど戦慄すべき重傷を肉体に刻み込まれているにもかかわらず、まだすこしも痛がるようすがないことだ。

 昨夜は酒替わりの睡眠薬のほか、偏頭痛持ちの母親が愛用しているアスピリン等を失敬して飲ませた。

 この緊急時に、処方箋なしの投薬の禁止、などという悠長なことはいっていられない。

 とにかく拓斗としては、できるかぎりの手を打った。


 そしていま、青木は落ち着いている。

 ふだん薬を飲みつけないひとには強めに薬効が作用する、という傾向はたしかにある。

 だからといって、あの重篤な火傷と打撲に対して、一握りの鎮痛剤や睡眠薬で一晩じゅう痛みを止めていられるものだろうか?

 やはり青木は、なんらかの原因で痛感神経が完全に麻痺し、痛みを感じることができなくなったのだ、と考えるのが妥当のような気がした。


 と、そのとき視界の端になにか動くものが見えて、拓斗は顔を上げた。

 白い繭のようなものが動いている。

 ようやくお目覚めか、マーさん。


「起きてるのか、拓斗」


 かさついた声が聞こえたが、昨夜ほどヒドくはないようだった。


「ああ。おはよう、マーさん」


 拓斗は十年来、眠りなれたベッドに近づき、青木のかたわらに腰を下ろした。

 室内は適温に保たれている。

 寒がりの拓斗は、クーラーはなくてもヒーターがなければ死ぬ、という体質なのだった。


「ごめんな、ベッドとっちゃって」


 もちろん拓斗が強いて勧めたのだ。

 おまえは怪我人なんだから、と。


「いいって。それより頭、大丈夫か? 痛かったら薬とってくるけど」


 本来なら「痛む」どころの騒ぎではないはずだ。

 脳天を痛烈にカチ割られ、さらに揮発油の火炎に長々と包まれたのだから。

 だが、彼は小刻みに首を振った。


「いや、いいよ。だいじょうぶ。ぜんぜんんだ。さっきまですこしけど、もう平気だよ」


 まるで痛痒ない、だと?

 やはり痛感神経が完全に麻痺しているとしか思えない。

 視線を上げ、青木の包帯顔を見た。

 皮膚は見えないし、できれば見たくない。


「これからどうするつもりだよ、マーさん。いや、わかってる。マーさんのことだから、全部の罪をかぶってつもりだろ」


 青木の肩がピクリとふるえた。

 まちがいない。彼ならそうする。


「いや……」


「早まるなよ。オレでできることなら、なんでもするから。……ま、とにかく包帯を替えようや。傷口も消毒しなきゃな」


 コンビニでありったけ買い込んだ包帯と、救急箱に備えられていたありきたりの消毒薬を引き寄せ、ベッドのうえ無造作に置いた。

 たったこれだけの手段、これだけの処置しかしてやれないのだと思うと、なんとなく寂しく、かつ青木を哀れだと思った。


 すなおに身を任せる彼の頭部から、きのうよりは慣れた手つきで包帯を巻きもどす手が、ピタリと停止した。

 もっと正確にいうなら、視覚によって脳に認識されたその映像が、それが可能であればわが心臓をも停止させんとするほどの衝撃力をもって、ガツンと一発かましてきたのだ。


「あ、あお、き、い、マサ、マサ」


 理性的唯物論者であればこそ、拓斗は自分の目を信じるか人類の常識を信じるか、相反する二者択一を迫られることになっていた。

 恐怖と驚愕。

 昨夜とまったく同じような局面だが、いまこの瞬間は、恐怖という点では昨夜よりマシであるものの、驚愕という点では昨夜をはるかに上まわっていた。


 まだ夢のつづきを見ているのだ、と思った。

 ついに「包帯をほどく」などという悠長なことができなくなった拓斗は、残りを強引にすっぽ抜いた。


「ひどい状態か?」


 青木はまだわかっていない。

 彼の想像しているかぎり最悪の状態であっても、けっしてこれほどまでには驚かなかったはずだ。

 驚くべきは青木が、青木の顔が!


「うそ、だろ、マー、さん」


「どうしたんだよ?」


 訝しげに首をかしげる青木、その表情たるや!

 わなわなとふるえる拓斗の口から、説明が漏れることはない。


 当人はしかたなく、おそるおそる自分の顔に触ってみた。

 重度の火傷を負って二目と見られない顔面を予測しつつ己が面皮に手を触れた彼は、まず自身の触覚を疑っただろう。

 きっと自分の皮膚感覚、触覚は狂ってしまっているのだ、と思ったにちがいない。


 青木の手は感じた。

 火傷の跡がない、と。

 自分はまるで何事もなかったような、きれいな顔をしているのではないか、と疑った。

 そして「ありえない」と考え、首を振った。


 重度の火傷を負った皮膚に想像される「グチャッ」や「ザラッ」としたイヤな感触を、わざわざ思い出そう、想像しようとしているかのように、思慮深い表情を浮かべたりもした。

 そう、そういう表情をするだろうという表情を、つくったのだ。


「火傷、だろ?」


 自分にか、それとも拓斗にか、青木は問うた。

 拓斗は恐怖にふるえているかのように首を振った。


「治ってるよ、マーさん……」


 かろうじて言葉をしぼりだした。

 どうしてだかわからないが、とにかく火傷の跡がないということを、彼は理解しなければならなかった。

 自分の感覚が狂っていないとすれば、火傷の跡などはないと思うしかない。

 青木の両手は自身信じられない感触を味わい、拓斗の返答を受けた上でそれを信じなければならなかった。


 が、驚くのはまだ早い。

 感触どころの騒ぎではない、そんなことで驚いている場合ではないのだ、青木よ。

 いや、たしかにその点も驚くべきことではあるが、もっと愕然たる事態が、おまえの顔面には生じているのだ。

 マーさん!


 机の上のスタンドミラーをひったくって、ふるえる手で差し出した。

 まず彼にもその事実を理解してもらって、ふたりで考えなければならないと思った。


 青木正広の顔を期待して、それをのぞいた青木正広。

 ぴたり、と動きが止まった。

 鏡のなかの青木は、拓斗とまったく同様に二重の衝撃を受け、バカのように開口していた。

 彼らは仲良く、ふたり揃って、しばらく茫然自失した。


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