第9話


 二ケツした原チャが、埼玉エデンの東あたりをトロトロと走っていた。


「病院へは、行かないよ……警察も」


「わかってる。オレを信じろ」


 うなずく拓斗は、もちろんイサクを捧げたりしない。

 旧約聖書で、アブラハムが神の求めに応じ、一人息子を捧げたように。


「……でもオレ、人殺しなんだよ」


 青木にも常識や良識はある。

 おそらく拓斗の信仰心よりも。


「わかってる。おまえは、イシュマエルを何人かブッ殺しただけのことだ」


 イシュマエルは旧約聖書に出てくる人物で、アブラハムとその侍女ハガルの子であるが、かわいそうに母ハガルのために追放される社会の憎まれ者、のけ者の代名詞だ。


「いしゅ……?」


の善人ってことさ」


 これ以上、思い出したくもない。

 拓斗は着なれない衣服を引っ張りながら、静かに裏道をまわる。


 万一にも身バレせぬよう、制服の上にチーマーのダブダブのズボンを重ねて履き、センスのわるいジャケットを重ね着してサングラスをかけ帽子をかぶっていた。

 一方、青木にはフルフェイスのヘルメットをかぶらせる


「だけど拓斗が、原付の免許をもってるなんて知らなかったよ」


 皮肉を言えれば幸いだ。

 おかげさま勢いを得て、拓斗は口を開いた。


「そうだな。原付といえばオレ、オレといえば原付だからな」


 背後から青木が、ちょっと首をかしげる気配が伝わってきた。

 そこで拓斗は、あまり話したことのない自分の過去を聞かせてやることにした。なぜかこれを話すと、青木が喜んでくれるような気がした。

 自分の名前が拓斗になった理由。


「へえ、そういえば聞いたことないかも」


「マーさんも知ってると思うけど、うちの母親、頭おかしいだろ?」


 あいまいに首を揺らす青木。

 親友の親をあまり腐したくない気持ちはわかる。


 イタリア人とのハーフで、永遠の名画『ローマの休日』を愛する貴族のお嬢である母親。

 一方、当時司法修習生、現在裁判官の父親はマジメいっぺんとうの善人だ。

 当時、いろいろお見合いなどしていたお嬢は、めずらしいタイプの男に出会った。高級なクルマを乗りまわすことがステータスと信じ込んでいるバカ野郎どものなかで、ものを大切にする父親が乗っていたのは、原形をとどめないほどレストアされた「旧車」だった。

 遅刻ギリギリで駆けつけたデート、そのにふたり乗りをしたことが、両親のなれそめらしい……。


「いい話じゃない」


「いや、そのバイクはベスパじゃなくて、国産のだったんだよ」


 イライラした母親から、投げつけられたことば。

 ──あんたなんか、謎の原付のくせに。

 その意味を知ったとき、拓斗は殺意の波動をおぼえた。


「え、それって……? もしかして拓斗って、ホンダの……」


「オヤジは、逆によかったって言ってくれてるけどな」


 ──だって本物だったら、ベスピーノとかいうキラキラネームになっていたかもしれないからね、タクトでよかったよ。

 なるほどと同意し、あらためてゾッとした。

 あのバカな母親ならやりかねない。


「そうかー。拓斗にもいろいろあったんだねー、はじめて聞いたよ」


「オレというか、親だけどな。盗んだ原付にふたり乗り~♪ とか、オヤジにも若いころがあったんだな、と思うとしんみりするよ」


「いや盗んではいないでしょ」


 乾いた笑い、ほんとうに、乾いた……。

 そうこうしているうちに、青木の心と身体もほぐれてきたようだ。


 目が覚めてきたのか、肩をつかむ手にも力がこもっている。

 ちょっと痛いよ、と忠告しなければならないくらいだった。

 かぶらせたフルフェイスからは、蒸気のように熱いものがヒューヒューと漏れ出しているように見えた。


 やおら無常感が押し寄せてくる。

 すると背後から、意を決したように語りだす青木。

 彼は拓斗が親友であることをいまさらながらに認め、すべての記憶を彼に残していこうと決めたかのよう。


「まったく、オレがわるかったんだ。なにもかも、全部」


 高慢なフランス人なら、そんなことは絶対に言わないだろう。

 拓斗に「信仰」を伝えてくれた、フランス人の神父の思い出が脳裏をよぎる。

 ともかく、そういう話の向きはよろしくないと思ったので、風圧に負けないくらいの声で言った。


「そんなことはないさ。自分を責めるのはよせよ、マーさん」


 青木がゆっくりと首を振ったのが感じられた。

 彼は、まるで遠い遠い昔のようになってしまった、ほんの数十時間まえの出来事を語る。


「おととい、オレはつよしくんを突き飛ばして、殺しちゃったよな」


 動転した青木自身がそう告白した声が、救急センターのレコーダーには録音されていたらしい。

 もし「滑って転んだだけです」と言っていれば、青木はなんの罪にも問われなかったかもしれない。

 そのバカ正直なところが、らしいといえばらしい。


「でも、そんなのは単なる過失なんだから」


「いや、いいんだ。わかってる、もちろん殺すつもりなんてなかったさ。運がわるかった。たしかに、そのとおりかもしれない。つよしくんは打ち所がわるくて死んだ。でも当然、それはオレのせいだ」


「だけど……」


 言葉を挟みたい拓斗を制して、青木は大きく息を継いだ。


「ところで、なあ拓斗。どうしてオレが、つよしくんを突き飛ばしたと思う? いつもなら考えられないことだろ? オレが手を出すなんてさ」


 たしかに。いつも温和な青木が稲葉に腕力をふるうなんてことは、到底ありえない話のように思える。

 拓斗自身、青木が「滑って転んだ」と言ったならそのまま鵜呑みに信じたであろうくらい、冗談でも虫さえ殺さないような男なのだ。


「なんでなんだ、マーさん」


「つよしくんがさ、広瀬の……広瀬涼子の悪口を言ったんだ」


 妙な固有名詞を聞いたので、思わずふりかえった。


「はあ?」


「もちろん、それだっていつものことさ。拓斗が広瀬とヤイヤイやってるあいだじゅう、つよしくんはいつも広瀬をさんざんにこき下ろす。オレがそれを聞くのをどれだけつらく思っているか、つよしくんは露ほども知らずにね」


 わけがわからない。もしかして青木も夢を見ているんだろうか。

 だがどうやら夢でも冗談でもないらしい。拓斗は黙って聞くことにした。


「オレは、広瀬の悪口を言われるのが耐えられなかった。あの子はいい子だよ。そうさ。広瀬の悪口を言うつよしくんが、そんなつよしをオレは、許せなかった」


 一瞬、当時を思い出したのだろう青木が腕に力を込めたので、拓斗の呼吸は止まった。


「ぐふ……っ」


「そうやって、オレのなかにはつよしくんへの憎しみが募っていった。募っていったんだろうと思う。でも、まさか殺意まで抱いていたわけじゃない。ただあのとき、どうしてか、手が出た。つよしくんも、まさかオレが手を出すとは思っていなかったんだろうな。あんなに……強く。突然のことで、バランスを崩した。そして通用門の外の段差に頭をぶつけて……ああ、それからあとは拓斗も知ってるとおりさ。つよしくんは逝ってしまった。そうやって彼を殺したオレが、つよしくんのこと、ざまあみろと思ったとでも?」


「まさか。だれより悲しんだのはマーさんだろ。そのくらい、オレにもわかるさ」


「うれしいよ。やっぱり拓斗は親友だ。広瀬のことがなければもっと……」


 彼があまりにも含蓄深く言葉を濁すので、たまりかねた拓斗は言わずもがなを言う。


「誤解があるといけないから言っとくぜ。マーさんがどう思ってるかは知らないが、オレは広瀬涼子なんか、なんとも思ってない。カケラほども。むしろ迷惑に思ってるくらいさ。あの女、まったくお節介で図々しくて偽善者で鬱陶しくて……」


 稲葉の轍を踏みかけた拓斗は、あわてて口を閉ざした。

 青木は何度も何度もうなずいて、


「わかってる、よくわかってるよ。だからさ。拓斗が広瀬をなんとも思ってないって知ってるから、広瀬と同じように片想いしてるオレは、だれよりも彼女の気持ちがわかるんだ。広瀬は拓斗が大好きなのに、拓斗はそれを無下にあしらってる。オレにとっては歓迎すべきなんだろうけど、広瀬の気持ちがわかるだけに、やりきれないよ」


 広瀬は拓斗が?

 思わず笑い出しそうになった。

 彼は、やっぱり夢を見ているようだ。


「あのなあ、マーさん。それはありえないと思うぜ。広瀬がオレを好き? 片腹よじれる話だ。そんなバカな話があるか。だってアイツは、オレを目のカタキにしていて」


「いや、そうじゃないよ。広瀬はたしかに、拓斗のことが好きなんだ」


 んなわきゃあない、と突っ込みたいところだが、いまここで問題視すべきは、ずっとそうつづけてきたことのほうだった。


「百万歩ゆずって、たとえそうだったとして、だったらオレはどうしたら……」


「いや、拓斗は拓斗で、せいいっぱいいい友だちでいてくれた。それ以上はないんだよ。オレもがんばったしな。拓斗にとってちょうどいい偏差値ランクの高校に、広瀬はわざわざランクを落としてはいった。そんな彼女と同じように、オレにとってはちょっとつらい偏差値の高校に、広瀬と同じ学校にはいるために、猛勉強してはいった。単純な話だろ」


 いくつかの過去のパーツが、因果律的に組み合わされた。

 ちなみに稲葉は、たまたまスポーツ推薦がとれただけだ。

 しかし、いや、まさか……。


「そんなこと言われたってさ、ひどいぜマーさん。そんな話って」


 戸惑い、弱り、困っている拓斗をみかねたように、青木は拓斗の肩でかすかに首を振った。

 焼け焦げた首の皮膚が、ペリペリと剥がれる音がした。

 炭化した奥にのぞく彼の目が、一瞬だけ見えた。


「ごめんな、拓斗。拓斗はなにも、わるくないのにな。──わるいのはオレなんだ。全部、わるいのはこのオレだけなんだ」


 沈黙と走行音。閑静な住宅街。

 信号などという無粋なものは、ほとんどない。

 現地点から拓斗の家まではあと五分くらいだろうと推算した。それは青木ももちろんよく知っているはずだった。


 周囲の景色は、あまりにも見なれたものへと変わっていた。

 拓斗にとっても青木にとっても懐かしいその景色のなか、彼らはゆるやかに刹那の安息地へと帰還した。


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