第8話
その場にへたりこんだまま、拓斗はこんどこそ腰が抜けて動けなかった。
午後7時40分。
たった十分間ほどの出来事であったが、そこには百年分の生命の終焉が凝縮されていた。
五つの死体のうえで、その返り血により燃え上がっていた炎を鎮火した鬼が一匹、大きな呼吸をくりかえし、ゆっくりと上半身を上下させている。
この十分間に、なにが起こったのだろう?
これは夢ではないのだろうか?
鬼は、いや青木は、炎に包まれながら五人の男たちを、つぎつぎ血祭りにあげていった。
彼はけっして機関銃をもっていたわけではない。
素手で、武器をもった大の男を五人も、順に殴り殺していったのだ。
その攻撃力はしだいに増大した。
最初の男を殺すのには、十数発のパンチが必要だった。駄々っ子のように、あのタツヤというホモを殴りつづけることによって斃した。
そこに強烈な反撃が加わった。
鉄パイプで脳天を殴られ、青木は吹っ飛んだ。
殴り倒された彼は地面に横たわって一度ビクリとふるえた。こんどは青木が殺されてしまったのではないかと憂慮した。
が、生きていた。
彼はゆっくりと起き上がり、自分を攻撃した鉄パイプの男に殴りかかっていった。
闘争本能の塊。
そのときの青木を表現するのに、これ以上適切な表現はないだろう。
彼は鉄パイプを受け止め、反対の腕でパンチを放った。
殴られた男、イサムの顔面は人間の首の限界を超えた方向へと向けられ、倒れた彼に数発の追い討ちが放たれた。
その背にナイフが刺さり、釘つきの棍棒が振り下ろされた。
どちらも甚大なダメージを与えたはずだが、つづく青木の「反撃」はさらに強力になっていた。
無敵の戦闘マシーンはふたりの男を捕まえ、その頭を叩きつけて潰した。
ふたりぶんの頭蓋骨が、ひとりぶんの大きさに縮んだように見えた。
残されたひとりは金属バットを恋人のように握り締めたまま、全身をガタガタとふるわせて立ち尽くしていた。
その気持ちがあまりにも理解できるので、当時彼が失禁していたことを知っても拓斗はべつだん驚かない。
ギャングかぶりしたキャップからロン毛を垂らした彼は、逃げ出そう、ここから逃げ出すんだ、と自分を励まし、痙攣的にふるえる下肢をぎこちなく動かしたが、青木はそれを許さなかった。
ただのパンチが、まるで錐のように男の肋骨を砕いて胸腔へ深々と突き刺さり、ゆっくりと引き抜かれたその腕には、若い心臓が握られていた。
溢れる血が、青木の身体に燃えていた最後の炎を消した。
哀れな五人の被害者の生命の炎とともに。
──とにかく青木は、これだけのことをした。
正当防衛を主張するのは、残念ながらむずかしそうだ。過剰防衛として、せめて情状酌量を訴えたい。
そのとき自分が生き残っていれば、だが。
拓斗はごくりとかたずを呑んだ。
はたして青木は正気だろうか。このまま自分までも殺さないだろうか。
そんな心配が一瞬以上、その胸に去来したことを否定しない。
青木はふりかえった。
ようやく拓斗の存在を思い出した、かのように。
「よ、よくやったな、マーさん。さすがだ、見直したぜ」
機械的に言う。青木は笑った、ような気がした。
ハッキリいって、わからない。なぜなら青木の顔は無残に焼けただれ、表情などというものを判別できる状態ではなかったからだ。
この現実離れした殺戮劇を理解するのに、拓斗はすべての知性を動員しようとした。
これは青木の、いわゆる火事場の馬鹿力だったのではないか。そしていま、火事が鎮火した以上、馬鹿力を出しつづける必要もなくなった。
いつもの青木にもどってくれ。いつものマーさんに。
お互いの身体に手が届く距離まで近づいたところで、青木は足を止めた。
拓斗は絞り出すような声で言った。
「だいじょうぶ、か?」
身体がだいじょうぶなのか、それとも精神か、おそらくその両方。
いつまでも見上げる態勢は変だと思ったので、渾身の力を込めて立ち上がろうと努力した。
努力は報われ、なんとか腰がいうことをきいてくれた。
同じ目線の高さで、青木は首を振った。
だいじょうぶだよ、なのか、それとも、わからない、なのか。
彼はそこに佇んだまま動こうとはしなかった。力を使い果たし、緊張の糸が切れて動けないのかもしれない。
「ここでジッとしてろよ。すぐに救急車を呼んでくるから」
ぎこちなく駆け出そうとする拓斗の腕を、熱くてカサカサした腕がつかんだ。
ビクッとふるえた瞬間、どうにか身体を支えていた腰が再び抜け、またしてもその場に座り込んでしまった。
「すまない、熱かったか?」
と、青木はあわてて手を放し言った。
どうやら努めて優しく語りかけようとしているらしい、という気持ちまで読める言い方だった。
口内や声帯も焼けているらしく、イントネーションは微妙に変化してガサついていたが、青木の語り口にちがいはない。
「あ、ああ。いや、だいじょうぶだ。マーさんこそ、平気なのか?」
拓斗の問いに青木は微笑んだ、ようだ。
確信はできない。
「痛くないから平気だよ、たぶん」
「いまは感じないだけさ。火傷ってそういうもんだ。そのうち痛くなってくる。そのまえに救急車を呼ばないと」
再度立ち上がろうとするが、うまくいかない。
「いや、いいんだ。だれも、なにも呼ばないでくれ。拓斗はここにいなかった。だからオレやこいつらが、ここにいたことを知らない。なにも知らず登校し、下校した。それでいいよ、そういうことにしよう、そういうことにしてくれ」
拓斗が登校していないことを、もちろん彼が知る由もない。
青木がいつもの青木にもどっていることを確信した拓斗の心からは、急速に恐怖感が薄れ、同時にさっきまでのかりそめの心配が本物の憂慮に変わりつつあった。
「なに言ってんだよ。とにかくマーさんは重傷なんだから、すぐに救急車は呼ばないと」
「だいじょうぶだって言ってる」
すこし強い語調。やや気圧されて反問する。
「だけど、どう見たって、なあ、マーさん」
青木は噛み締めるようにゆっくりと、自身の決意を披瀝した。
「焼けてるだろ、オレ。一見したら、すぐにオレだってわからないだろ」
「そんなの、ちゃんと治るさ。日本の医学は進んでるんだぜ。心配するなよ」
「いや、それでいいんだ。オレとわからなくて。青木正広はここで死んだ。つよしくんを殺したオレは、チーマーどもを殺したオレは、もうこの世にはいない。いるとすれば、顔面の焼けただれた化け物だけさ」
このとき拓斗は、正確に青木の内心を推し量れた自信はない。
ただなんとなく、察した。終わりにするのだ、という強い気持ちを。
……許されない。
それは宗教的に、許されないことになっている。
拓斗はポケットから白い錠剤を取り出し、
「これ、飲めよ。睡眠薬だけど、我慢すれば眠らずにすむ。眠らなければ、酒に酔ったみたいに気持ちよくなってくるんだ。そのままだとぜったい、そのうち痛くて気が狂いそうになるぜ」
拓斗の脅し(ほんとうのことでもある)が功を奏したか、元来臆病な青木は錠剤を三粒ほど受け取って飲み下した。乾いた皮膚にはりつくらしく、何度も喉を鳴らしながら。
一方、拓斗は考えていた。
これからどうしよう。青木をこのまま、ほうっておくわけにはいかない。拓斗はもう二度と、親友を死なせるつもりはないのだ。
常識的に、いまこれからどうすべきかはわかっている。
現行犯の人間を逮捕することは市民の権利であり、条件つきながら義務でさえある。
だから父が法曹関係である拓斗のなすべきことは当然、法律に則った身柄の拘束と告発である。
あまりにも分別くさい、したがって安っぽい知識によれば、その点は疑うべくもない。
だが分別というものは、バカな人間でもないかぎり、いつかはその心に訪れるべきものである。
しかし、もしこうした異例の瞬間、拓斗の心に『愛』が芽生えなかったなら、いったい愛ってなんなんだ?
これほど自然発生的な、したがって純粋な愛は、一生のあいだにそうたびたび訪れるものではない。
その愛に、したがうのだ。
「逃げようぜ、マーさん」
「え?」
予期していなかったらしく、青木は首をかしげた。
そもそも「チクる」つもりはない。
本来はソッコーで病院へ連れて行くべきだが、残念ながら現状それは警察への出頭と同義となる。
ではどうするか?
藤原先輩なら、こうする。
だから拓斗も、そうするのだ。
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