第5話


 ウロチョロしていると、行き止まりにぶつかった。

 左に配管室、右にリネン室。とりあえず覗いてみた。

 怪しい点のいっさいない、配管室とリネン室だった。


 ばかげたことに時間を潰しているのかもしれない。

 引き返して、こんどこそ看護師に接触しようと思ったとき、むこうからだれかが駆けてくる足音が聞こえたので、あわてて薄暗いリネン室に身を隠した。

 反射行動とはおそろしい。

 直後、背後のドアが開いて、ふりかえる拓斗の眼前に見おぼえのある看護師。


「あ、こんにちは」


 そう言う以外になかった。

 雷のように叱責されるかと思いきや、どうやら彼女はそんな状態ではないようだった。

 泣いている。さっきの若い看護師だ。


 きっと先輩の苛めに耐えられなくなったのだろう。

 このリネン室で泣きたいなら、よろしい泣くがいい、オレは去る、邪魔はしない。

 と思ったのも束の間、拓斗はすでに彼女のターゲットとして、ロックオンされてしまっていた。

 彼は押し倒され、その胸で彼女は泣いた。


 こういう非常識なことをしても許されるんだから、女って得だな。

 と考える彼自身はおととい、稲葉の死を知らされた瞬間、涙こそ出なかったものの、しばらく呆然として立ちすくみ、惚けていた。

 それをごく表面的な言葉で慰めてくれたのが彼女だった。

 だからギヴ&テイクの構造上、この関係はアリなのかもしれない。


 そんなことを思いながら、本能的に慰めてやる。

 広瀬を除いては、基本的にフェミニストのイケメンを演じることのできる男、それがDJタクトだ。

 すると彼女は怒濤のように、内部告発と個人的な愚痴をごっちゃにして、まくしたてた。


「あたし小児科がよかったの。ほんとうは保母さんになりたかったんだけど、でも小さい子どもの生命を助けてあげて、それでその看護がしてあげられればいいなと思って、だからこの病院に移ったの。まえにいた小さな病院では、小児科が廃止されちゃったから」


 少子化で全国的に小児科が衰退していることは事実である。

 看護師のスカウトなど日常茶飯事の業界で、とくに正看護師という資格を持っている売り手市場の彼女は、さぞかしいい給料で買ってもらったはずだ。

 しかし敵もさるもの。「小児科」目当ての彼女を採用し半年ほどそこで使ってやってから突如、有無を言わさず数の少ない過酷なICUへと転属させた。

 まさしく狐と狸の化かし合い、どっちもどっちではないかと思うのは、拓斗だけだろうか?


「小児科じゃ、こんなことなかったの。でもICUはとっても怖いところで、現実に瀕死の人の看護がこんなに大変だなんて思わなくて、いっそ院内感染であげればその患者はんだけど、でもまたすぐに、つぎがくるの」


 可愛いこのも一皮剥けば冷酷なナースなのだ、としみじみ思った。


「ホントはもう辞めちゃいたいんだけど、この病院の看護部長ってすごく怖くてね、勝手な都合で辞めたら大変なことになるみたいなの。先輩に聞いたけど、よっぽどのことがないかぎり辞めた看護師はんだって」


 この病院ならそのくらいのことはやるだろう。


「だからね……あたしね……それでね……」


 女のくりごとは延々と垂れ流され、際限というものがない。

 いいかげんに聞き飽きてきた拓斗は、華奢なうなじを軽く撫でてやりながら、男性的な包み込むようなセクシーボイスで言ってやる。


「よくがんばったね、いい子だ。がんばれ、。神さまはいつだって見守っているからね。……それでマーさん、ICUに緊急入院してる青木正広くんは、いま、どんなあんばいなのかな?」


 拓斗の胸でゴロニャンとなっている看護師を、巧妙に誘導する。

 すでに魅了された看護師は、あらゆる事柄を口走る勢いで言った。


「青木くんはね、ICUのいちばん右のベッドで集中治療されてる。残念ながら、まだ意識不明の昏睡状態。心電図に対する注意、水分の出納の厳密な管理、心拍数モニターや心電図のモニター、とくに頭部X線写真による確認は怠らないように、って言われてる。意識レベルは術後、安定するまで最低二時間ごとにチェックすることになってるんだけど、彼はスペ患だから、いまも引きつづきJCSとかを使ってチェックしてる。え? ああ、JCSっていうのは、ジャパン・コーマ・スケールの略。意識判定はJCSやGCSで行なうの。痛覚刺激に対し払いのければ百点、払いのけなければ二百点、みたいに。頭蓋内病変を有する患者の意識障害の程度を測定するものよ。覚醒障害の重傷度を三段階に大別するの。いわゆる三・三・九度方式ね。百点とか二百点とか三百点みたいに三桁がつづくと、けっこうヤバイみたい。二時間前の検査では百点だったかな。意識レベルはあいかわらず低調よ」


「スペ患って、つまりスペシャルな患者のことだろ? どうしてあいつがスペシャルなんだ? べつに金持ちでもないし、有名人でもないぜ」


「それはね、まだ医療行為として認可されていない治療法が使われているからなの。もちろん、ちゃんと御両親の同意は得ているのよ。あ、心配しなくてもだいじょうぶ。確実に回復してきているんだから。マイクロ・サージェリーっていう高度な手術だったらしいんだけどね、この保険適用外の手術費用はクロベさんがほとんど持ってくれることになっているの。ああ、クロベさんっていうのはこの治療法を開発した製薬会社のことよ」


「クロベ? 聞いたことのない会社だなァ」


「あるわよ、絶対。CMだってガンガン流してるじゃない。クローバ・ファーマのことよ」


「ああ、それなら知ってる。へえ、超有名じゃん。昨今のの世界的大流行で、大儲けしてたよね、たしか」


 おかげで拓斗のような一般ピープルも名前くらいは知っている。

 クローバ・ファーマHD。

 日本の黒部薬品工業が中心となって欧米の老舗企業を買収し、世界的にも中堅どころから上位を狙う位置につけている、らしい。

 ……なるほど、だからクロベさんか。


「うん、世界トップクラスの研究開発力のたまものだって。それで大成功したもんだから、最近はとくにな治療が横行するようになったみたい。青木くんは収容時、脳に致命的な損傷があったみたいでね。それで緊急手術が行なわれたんだけど、あたしは全然タッチしてないから、内容についてはよく知らないんだけど」


 もはや籠絡されたともちゃんは、彼女が知るかぎりの情報を惜しげもなく提供してくれている。病院側としては使いづらい手駒であることだろう。

 このまま深いところまで掘り尽くそうとした、そのとき。


「キャーッ!」


 廊下のむこうから、女の悲鳴。

 ハッとして飛び起きる、ともちゃん。

 腐っても看護師、緊急事態を理解したら、やるべきことは決まっている。

 電光石火で、走り去るともちゃんの背中を、もたもたと追いかける拓斗。

 なにが起こったというのだ、いったい?




 ICUは、ナースステーションのちょうど裏側にあたる位置に配置されていた。

 駆けつけた拓斗の眼下にはウェットマットが敷かれ、そのむこう側に横開きのドアが半分ほど開いていた。

 銀色の取っ手をつかんで、それを大きく開けた。

 瞬間、その雑然たる様相に混乱する。


 ホルムアルデヒドで消毒されたICUの空気は、消毒用アルコールと汚物のような微妙な臭気の混合気。

 三枚の移動カーテンで仕切られたICUには、三人の患者が横たわって──いなければならないはずだが。


 いちばん左には、目立つ紺色のビニールテープと透明ビニールの間仕切りで区域化ゾーニングされた、どうやら感染性の肺患者。

 ビニール・テントの出入り口のところには粘着マットと速乾性消毒薬手洗い装置、ゾーン内専用のガウンとスリッパが置かれていて、まるで危険人物のような扱いを受けている。


 その隣には、完全に意識がないらしい老人。

 ゲッソリと痩せこけ、種々のコードによってベッドに縛りつけられている。このように、カテーテル、チューブ、ドレーンなど無数のラインが交錯した状態でベッドに縫いつけられた患者を、スパゲッティ・シンドロームと呼ぶ。

 哀れな「生ける屍」だ。


 だがなにより拓斗にとって問題なのは、いちばん右のベッドだった。

 消去法を用いるまでもなく、そこには青木がいなければならない。

 その周囲には、いま、ともちゃんと先輩が並んで立ち尽くしていた。

 あまりの事態に、どうしたらいいのかわからず惑乱しているようだった。


 破壊された窓、乱れた病床、飛び散った点滴の輸液、無理やりに引き抜かれたチューブやカテーテルから迸ったのであろう、点々たる血。

 己が目を脳が否定する。

 対抗するように、眼球がこれでもかと「アオキ・マサヒロ」という名札の貼られた人間不在のベッドを示す。

 よもや彼は、自力でスパゲッティ・シンドロームから脱したのであろうか?


「うそ。CVC(中心静脈カテーテル)まで引き抜かれてる」


 経験豊かな先輩看護師は、ベッド横に落ちた血のべっとりと付着している真っ赤なチューブにおそるおそる手を伸ばしたが、思い直して引っ込めた。

 すぐに先生を、とふりかえって駆け出したともちゃんは、そこに拓斗を見つけて叱りつけるように、


「勝手にICUにはいってはいけません。外に出てください!」


 女はふたつの顔をもっている。

 立入禁止の「区域」から押し出された拓斗は、同時にすでにこの埼東病院にはなんの用もないことを認めた。

 彼の求める患者は、脱走したのだ……。


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