第4話


 埼東病院はベッド数約300床の総合病院である。

 地上4階地下1階のそれなりに巨大な建物で、上から見ると「コ」の字型をしており、開いた部分が東に向かって中庭を包み込んでいる。


 ふつうの外来患者や家族は東門からはいって正面玄関へ進むが、スタッフや業者や救急などは北の通用口および救急外来へむかう。

 拓斗が最初にこの埼東病院を訪れた理由は北の救急外来から稲葉に付き添ってであったが、きょうはすなおに東側正面玄関へ。

 自転車置き場に原付を乗りつけ、ブレザーを取り出してヘルメットをもどす。

 ずいぶん飛ばしてきたので身体は冷えていた。


 ひどく古びた、言われてみればいかがわしいカネでつくられたにちがいない造作のエントランスを通り抜けると、時間帯のせいか意外に閑散としていた。

 病院特有の臭気に眉根を寄せ、狙われた獣のように周囲をうかがった。

 犯罪傾向をもつ者に特有の被害妄想が底流していたかもしれないが、拓斗に注目している者など金輪際いなかった。


 人事的リストラクチャリングが進んでいるようで、必要最低限の人材さえ枯渇しているかのようにみえる。

 エレベーターわきに病院案内のプラスチックプレートを見つけ、しばらく睨めっこした。やはり青木は北側病棟にいるはずだと確認した。

 案内図によれば、救急関連は建物の北東部に集中しているようだ。

 4階の中央手術室、3階の放射線科、2階の集中治療室、1階の救急外来、地下1階の解剖室と霊安室、というように、エレベーターを導線としてと密に連結した配置になっていることがうかがわれる。


 業務用のエレーベーターの隣に、患者用の狭苦しいエレベーターがあるので乗り込もうとしたが、近くに階段があったのでそちらを使った。

 密室にはいるのが怖かった。


 階段を上がりきった目前を右から左へ、大あわてで走り抜ける若い看護師の姿を見つけて、ちょっとホッとした。

 あれはおととい、稲葉がこの病院に担ぎ込まれたときに対応してくれた看護師のひとりである、ということを思い出したからだが、彼女は拓斗のほうなど見向きもせずに走り去ってしまった。

 そちらに行こうとすると、こんどは逆方向にも見たことのある看護師を見つけて、すこしためらった。

 年増の彼女はちょうど更衣室から出てきたところで、不機嫌そうな面持ちだった。が、べつに忙しそうじゃなかったので声をかけようかと思う間もなく、彼女はむこうへ歩き去ってしまった。


 ──居心地がわるい。


 健康体な人間にとって、そもそも病院とはそういうものだ。

 「面会」という制度はある。にもかかわらず、見まわしてもそれらしい人影はない。

 考えてみればここはICU(集中治療室)と、それに準じる重症患者だけが収容されるフロアだ。当然に面会謝絶である場合が多い、と気づいた。

 考え込んでいると、さっきの若い看護師が再び忙しげに目のまえをとおりすぎていった。声をかければよかったが、気が引けた。

 彼女は人間ので、走りまわっているのかもしれないではないか? 病院の廊下を走って許されるのは、そのような要件でしかあり得ないと思う。


 遠慮がちにあとについて行くと、彼女は拓斗の追跡にも気づかずナースステーションに駆け込んだ。

 差し出がましいことをするのは気が引けたので、隣接して置かれているベンチに腰かけた。堅いベンチだった。

 尻の痛みの代わり、その位置からはナースステーションの会話がすべて聞き取れた。顔を上げてみれば、正面にある棚のガラスに反射して、人間の動きまでつまびらかだ。


 雑然とした一室には、三人の看護師。

 さっき更衣室から出てきた中年の看護師の姿もある。

 それからもっと年上らしい太めの看護師がひとり。

 彼女らはそれぞれ忙しげに立ち働いている。

 ひと区切りつくまで、すこし遠慮していよう、という拓斗の思いはただの「逃げ」だろう。

 時計を見ると午後4時をまわっていた。


「先輩、心電図波形がきれいに表示されないんですけど」


 若手の看護師が言った。彼女は手元の記録用紙のようなものをいじりながら、遠慮がちに答えを待っていた。

 ふりかえった年増のが、意地のわるそうな声で答える。


「心電図波形? 交流雑音ハム基線の動揺ドリフト、電波障害、筋電図の混入、患者の体動、アーティファクトはいろいろと考えられるわよ。まず原因を究明することね。モニターや、電気器具のアースの接続不良、接着不良、患者の体動、振戦。あんたの場合、アバウトな接着不良が原因じゃないかしらねえ」


「はい、あの、すいません。でも」


 若い看護師の言い訳に耳を傾けず、先輩看護師は皮肉っぽくつづける。


「このまえの貼り替えのときも、いくら同じ位置に貼らないようにって言ったって、RとFをあんなに近づけて貼ったら、カウンターショックのパドルはどこに置くのよ?」


「す、すみません。電極の色ばかり注意してたら気がまわらなくて。でもあの、きょうは負荷心電図の誘導でST変化を観察しているから、貼り替えできないって」


 遠慮がちに反論する若手。

 すると経験豊かな、どうやら師長らしい野太い声が割り込んで、


「発信器の電池切れじゃないの? それ、例の患者クランケ? あれはだから、記録はきちんと保存しておきなさいよ。バイタルサインのモニターは多いほうが、あとで鑑別するときに有利なんだから」


 スペ患、つまりスペシャルな患者のことか。

 拓斗は本能的に、それが青木のことであろうと予測をつけていた。

 どうしてそういう予測をつけたのかはわからないが、同時にたぶんちがうだろうなとも思っていた。この日本では、国民がどんなことを考えようが自由なのだ。

 ふたりの看護師が声をそろえて応える声に、再び耳を傾ける。


「はい、師長」


「はい師長じゃありません。なんなの、この一昨日づけの看護記録は。たった一行『アラーム四回。その他著変なし』ですって? バカ言ってんじゃありません。アラームは著変があったから鳴ってるんでしょうが」


 当夜の準夜勤だったらしい先輩看護師はあわてて、


「でも師長、あの患者はモニターのアラーム感度をかなり敏感に設定してますから」


「だから消音のスイッチを押しに4回、ICUとナースステーションを往復したってわけね。これを狼少年現象というのよ、知ってる?」


「はあ……でも、記録すべきことはしました。もっぱら呼吸数モニターがアラームしましたけど、これは胸壁に張りつけた薄いカフの内圧変化から呼吸数を計算するだけの、あくまで参考的な指標じゃないですか。頻呼吸を起こす疾病まで推理するのは、あたしたちの仕事じゃありませんよ」


 いったい青木の身に、なにが起こっているのだろう?


「門前の小僧習わぬ経を読む、なんて言われないようにしなさいよ」


「でも、ホントにあんなんでいいんですか? 脳疾患の場合でも酸素分圧は80ミリHg以上あればじゅうぶんだって……それなのに200前後で安定してるなんて、変じゃないでしょうか。それにしては酸素中毒の症候は出てませんけど」


「いいんだよ、あの患者は。クロベさんの新薬実験……検査なんだから。脳の損傷を、高濃度の酸素で治療してるんでしょう、きっと。じっさい、ずいぶんと迅速に回復してるじゃないの。すでに頭蓋内圧も灌流圧も安定しているし……」


 いいプリケツをした師長を中心に、喧々囂々、議論はつづいている。

 専門用語をまじえて、「伝染性」とか「普遍的予防措置」とか「CDC基準」とか並べ立てられているうちに、げんなりしてきた。

 すべからく教師(看護師長)から生徒(看護師)への薫陶、指導。

 どの業界でも必要な手銃のさなか、まじめに聴いている後輩と、聞き飽きたと言わんばかりにあくびをする先輩が好対照だ。

 すると見とがめた師長殿、


「それからあんた、食事エッセン長いわよ。……SNSにアップしても恥ずかしくないメニュー? あんたの食事になんて、だれが興味あるの。看護師は内診カーテンの時間に居合わせればいいってものじゃないんだから。……救急車の音が聞こえれば駆けつける? それじゃ間に合わない場合だってあるし、ICUの患者はつねに救急車に乗っているようなものなのよ。そのへんの自覚を新たにしてもらわないと困るわね。まったくなにを考えてるんだか、近ごろの若いもんは。いえ、あんたの場合はもう若くないんだから、もっとちゃんとしなさいよ」


 痛烈な一言に、「先輩」の持っていたディスポーザブルガウンがポトリと床に落ちた。

 このとき思わず笑ってしまった「後輩」はバカだった。

 おっと、きょうはME機器管理室のチェックがはいる日だったわね、あたしも立ち会わないと、とつぶやきながらナースステーションから出てくる切れ者らしい師長のプリケツを、拓斗は黙って見送った。

 本来なら名乗り出るべきだったが、なんとなく状況の推移を観察したかった。

 視線をもどすと、予想にたがわず、先輩による後輩いじめが開始されていた。


「わかったの、あんた、もちろんわかったんでしょうね。え、なに? あんたバカじゃないの、パーシャルボリュームとかいまさら聴く? 画素ピクセルレベルのアーティファクトじゃない、基本でしょ、こんなの。心電図からしてそうよ、近似第Ⅱ誘導の概念も知らないで、よく学校卒業できたわね。だいたい杜撰なのよ、あんたの看護記録は。機械じゃないんだから。『呼吸苦なし、深大性』の文字だけ並べておけばいいってわけじゃないのよ」


「でも、先輩……」


「でももヘチマもない。そういえばあんたこのまえ、輸液や輸血で左腕使ってるのに左腕から採血したでしょ。だからパニック値が出るのよ。それだけじゃないわ、あんたの悪癖で治らないのがラベルの貼りまちがい。血液科に文句言われて恥ずかしい思いするの、あんただけじゃないんだからね。それから例のスペ患、リアルタイムの緊急化学検査にまわすのに、採血量が少なくて血小板が浮遊してたんですって? 血清KやGOTやLDHが、異常な高値を示したって言われたわよ。あんたのドライケミストリー的把握って、リトマス試験紙の時代から、すこしも進歩してないらしいわね。あらゆる検査マーカで一度は失敗しないと気がすまないの? あ、そうだ、このまえの感染性廃棄処理のとき、注射針を再使用リネンのビニール袋に入れたでしょ。そんなものを入れたら外力で貫通して、袋に穴が開くでしょうが。耐貫通性容器って知らないの? 感染性注意のテープが貼ってある、あの容器にちゃんと入れなさいよ。ほんと脳みそはいってるの? 記憶力ってものがまるでないんだから、この娘は。非番になるとやたら派手な秘密のアッコちゃんのクセに」


 かわいそうな後輩に反論の余地を与えず、先輩は怒濤のごとく重箱の隅をつついていた。

 拓斗にはさっぱり意味不明だったが、どうやら涙ぐんでいるらしい若手に向けて、年長者からの愛の鞭には手加減がなかった。


「ひっく……」


「泣いて許してもらえる時代はすぎたのよ、バカな子ね。あんただってダテや酔狂で戴帽式やったわけじゃないでしょ」


「でも先輩、最近は戴帽式すたれてて、高等看護専門学校クラスくらいしかやって……」


 よけいなことを言わなければいいのに、と外野の拓斗さえ思った。


「なんですって? あたしが最近の看護師じゃないって言いたいのね! きーっ! 若いだけの無能のくせに、あんたごときがICU配属なんて世も末だわ。このまえも死んだでしょ、肺浮腫でICUにはいってた患者。気管切開部に付着していた菌を下気道に突っ込んだの、あんただって知ってるんだから。循環系ショックや合併症や日和見感染ならまだしも(?)院内感染で死ぬなんて可哀相に。菌交代によるスペクトラム外耐性菌のせいにしてすましたけど、どんな健康な人間だって傷口にバイ菌突っ込まれれば感染するに決まってるんだから、あの感染症はあきらかに医療ミスよ。あんたが殺したのよ、この人殺し、バカ、間抜け、おたんこなす、変態、淫乱症、みそっかす、ノータリン、あっちょんぶりけ!」


 超キビシー先輩が機関銃のようにまくしたてる誹謗中傷は、もしかしたらただの真実なのかもしれない。

 拓斗はここに、けっしてこの病院にだけは入院すまいと誓った。

 それにしても後輩はプリティだが、患者として厄介になるのだけは御免だ、と思いながらナースステーションをあとにした。


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