第3話
リビングでツィゴイネルワイゼンを弾く福子に、これ以上、耐えることはできなかった。
午後3時をまわった時点で、拓斗は家を飛び出した。
駅ふたつすぎた「ひがしさいとう」駅で降り、学校まで20分の道程を30分かけるペースで、ゆるゆると歩き出した。
きれいな町並みだ。
足下にはカラーブロックが敷き詰められ、左右には釣り鐘形の街灯、どこかの街の宣伝用リーフレットから抜け出したようなあか抜けた町並みになっている。
埼玉県の東部に位置する
ここにきて、なにがしたいのだろう?
午後3時20分。いまから学校へ行っても、なすべきことはない。
──学校がいや? そういうわけじゃない。
学校で拓斗の大事な悪友たちの話をするクラスメートが、教師が、人間がいやだ。
どうしてこんなことになったんだろう。
考えるまでもない。不運な偶然だった。あまりにも不運が重なりすぎた。
そうなんだろう、青木?
拓斗はしだいに、亡き稲葉から在りし青木へと、その焦慮の矛先を移していった。
そしてそれは、またしても沈鬱な思索を呼ばざるを得なかった。
あえて言うなら、風が吹いていた。
ゲーセン「シアトル」に向かって。
店内には予想どおり、顔見知りの怠惰な不良たちがとぐろを巻いていた。
煙草のニオイのくすぶる店内をグルリと見まわし、奥まったスロットコーナーで
彼の背後に立ち、いわゆる符牒を言う。
「ドクター、不眠症に悩んでるんですが」
ドクターことゲンさんは、見なれた拓斗にチラッと視線を走らせると、
「ワンシートでいいんだろ?」
スロットマシンのあいだ、巧妙に隠されていたセカンドバックから64錠の睡眠薬を取り出した。
拓斗はあらかじめ内ポケットに入れていた万券を二枚差し出し、
「ええ。──それから、これは次回までに用意してもらえればいいんですが、クサを10グラムほど」
彼は軽くうなずいて、内ポケットから大事そうに手帳を取り出し、なにやら書きつけた。
「納入は?」
「べつに急ぎません。来週でいいです」
「わかった」
手早くスケジュール欄に書き込む。これが噂の「ネタ帳」であろう。
ネタ帳は、覚せい剤などのネタ屋のリストを書いた手帳のことで、これさえ持っていればいつでもドラッグを手に入れることができ、売人になってそれを売りさばけば、けっこうな金になる。
ゲンさんのネタ帳に千金の価値がある所以だ。
「ついでに原チャをちょっと貸してもらえるとうれしいんですが」
「ああいいぜ、お得意さん。勝手に使いな。ただしガス満タンで返してくれよ」
ビジネスライクな取引をきれいに終えたゲンさんは満足そうに手帳を懐にもどすと、返す手の動きで原付のキーを手渡してくれた。
むろん、こういう取引はいつだってきれいでなければいけない。
「どうもです。返すときは?」
「ここにいなかったら、電話してくれや。けど、そんなに遠出するつもりじゃねえんだろ?」
「ええ。ちょっと埼東病院まで行ってくるだけですから」
一瞬、ゲンさんの表情が険しくなった。
わけが聞きたかったので簡単に事情を説明すると、彼はさらに眉をひそめてこう言った。
「なに、ダチが
「はい?」
こんどは拓斗が反問する番だった。
埼東病院が、いったいなんだというのか。
ゲンさんは、すぐには語り出さなかった。じっとスロットマシンのクレジット表示を見つめているので、察した拓斗は急いでメダル貸出機に走った。
ゲンさんは、その新たな原資をマシンに投入しながら言った。
「──まあ、こいつはあくまでも噂話なんだけどな」
長い話だったが、拓斗の理解によると以下のようにまとめられる。
巨大な総合病院で救急指定病院でもある埼東病院は、じつはそうとうの悪玉が理事長を勤め、院長や医長もそれに倣った人物が歴任している悪の巣窟だ。
その罪悪を並べ立てれば、まるで全国各地で報道された医療事件の新聞見出しを軒並み列挙したような気分になる。
保険金詐欺ニセ診断書疑惑、遺産相続がらみ安楽死疑惑、麻酔ミスによる医療裁判操作、カルテ偽造、架空請求、二重カルテ、薬物横流しなどの黒い噂は後を絶たず、民法七〇九条(医師の故意・過失の犯罪性規定)や刑法一三四条(医師の守秘義務)違反は日常茶飯事、医師法一七条(医師以外の医療行為の禁止)違反まである。
廃棄物処理法にも違反、管理表を偽造して感染性廃棄物を一般ゴミや産業廃棄物に混ぜて捨てている。臨床試験の費用負担を保険側にまわす。訴訟が起きて当然のプリミティブなミステイクを隠蔽する。エトセトラエトセトラ。
ゲンさんの知り合いの看護師が勤務している、3年前に新設された老人科は、とくにひどいところだ。
とはいえ最近は、危機管理も強化している。
「架空請求」「付け増し請求」「振替え請求」「二重請求」など、監査をすればほぼまちがいなく不正を立証できる「ブラックゾーン」から、レセプトの検査や病名などの不適切、作文的に辻褄が合わないが緊急処置の可能性も否定できない、いわば正当とも不正とも言いがたい「グレイゾーン」へとパラダイムシフトを図っているらしい。
「という流言飛語は、なかなかどうして火のないところに煙は立たずだぜ」
と、暫定的医療ジャーナリスト・ゲンさんは締めくくった。
かくのごとく縷々並べ立てられて、愕然とした。突如として青木のことが心配になった。なんてトコロに入れられてしまったんだろう、あいつは。
「あの、友だちが集中治療室にはいってるんですけど、そこでは?」
「ICU? そりゃすこしはマシだな。あの病院はコスト削減に躍起だから、ほとんど慢性的に人手不足の状態にある。だけど救急科を兼務するICUだけは、けっこう恵まれているらしいんだ。もちろんハードな職場だから、だれもやりたがらない。当直の医師はICUだけでなく病院全体を任されるような過重労働にあるようだから、終始不機嫌なんだってよ。せいぜいその医者に気に入られて、奇跡的な善意に期待するしかねえな」
あの日、稲葉を殺した態度のわるい医師に期待するなど、とんでもない話だった。
「わかりました。ありがとうございました、またお願いします」
「おう」
ゲンさんに軽く会釈を残し、拓斗は大急ぎでシアトルを飛び出した。
さすがに胸に学校指定のワッペンをつけたブレザー姿で原付を乗りまわすわけにはいかないので、シート下のヘルメット・スペースに上着を突っ込む英断を下した。
寒がりの彼としては、これは非常な決意を要する行為であった。
考えてみれば、まだ一度も見舞いに行っていない。
青木もきっと寂しがっているだろう、と欺瞞的に考えた。
じっさいは寂しがっている余裕などないはずだ。
月曜日、病院から出る段階ではまだ「重体」だった。
いま、2サイクルの助けを借りて、拓斗は悪夢の病棟へと走る。
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