長い水曜日
第2話
拓斗は自室に引きこもり、忌まわしい記憶とともに過ごす時間をのたうちまわりながら、かろうじて「自分を客観視する」境地に達した。
あまりにも正確な経験主義に基づいた記憶が、頭の内側から彼自身を攻め立てる。
それら一連の出来事を説明するため、すべては神が、なにかの記念日を祝って実施したビックリ・パーティの一環だったんじゃないだろうか、と思ってみたりする。
ふと、光り輝くオー・マイ・ゴッドが目のまえに現れて「サプラーイズ」と宣いながら、箱のなかから元気な青木と稲葉を取り出すのではないか、と。
即座に冷笑した。
神か。そんなものは、クリスチャンというわけのわからない信仰で自分を汚してくれた、父さんにでも任せておこう。
如才ない父は、事故当日の夜、電話してくれた。裁判官として、いまは博多に赴任している彼は穏やかな口調で、ゆっくりと言った。
「
彼がなにを言いたいのかわかった。
だがその点に関して、拓斗はかたくななくらい懐疑主義者だった。
もちろん辛辣なヴォルテールは語った。
「神が存在しようがしまいが、どうしてもそれは考え出される必要があった」と。
つまり十八世紀までに「なにを論じるべきか」については、おおむね考え尽くされている、といってしまってさしつかえない。
もちろんいまでも「神」を必要とする者はいるのだろうが、それは拓斗に関係ないはずだった。解決された「神のムクロ」を解することのできる拓斗には。
それなのにどうして父が神を必要とするのか、そこがわからない。
こんど藤原先輩に訊いてみよう。
──そうだ、先輩に助けを求めるんだ、と思いついて電話してみたが、いつもどおり電波の届かないところにいらっしゃった。
緊急時だけはチョク電しますからね、必ず出てくださいよ! という盟約は、無視以前の問題だった。
ありえない。あのひとだけは……。
ぶつぶつ言っていると、こんどは妹から電話がかかってきた。
拓斗の自宅は東京に近い埼玉の、かなり広いブルジョワな環境にあったが、つねに居住者が不足している。
父は関門海峡のむこうに単身赴任だし、妹は全寮制の名門女子高でお嬢さまぶっている……らしい。
「もしもしお兄ちゃん? たいへんだったね」
ベロニカ
「ああ、たいへんだったよ。てか、なんで知ってんだ? ニュースになるほどの事件じゃないだろ」
「ばあやさんが電話してくれたよ!」
拓斗は深く嘆息した。
そういう世故に長けたところは、たしかにばあやの出番だと思った。
この広すぎる家で、もっとも存在感を放っている母親からは、まだ一言もかけてもらっていない、いたわりの言葉。
鎌倉の「貴族」出身である母親、拓斗いわく「マグダラの福子」は、頭がおかしいからだ。
ややブラコンの気がある妹から、丁寧なお悔やみと葬式に行けない謝罪を受け取ってから、静かに通話を切る。
ふと思いだした。
かつて拓斗は、旧約聖書についてつぎのような疑問を父に投げかけたことがある。
「ねえ、どうして神がヨブを試されたとき、すべてを取りあげたのに妻だけは残されたの?」
苦難に耐えるヨブを堕落に誘う彼の妻は、聖書の中の「三大悪妻」のひとりに数えられている。
父は苦笑して、こう答えた。
「神はヨブを試されたあと、すべてを二倍にして返されただろう? もし神がヨブから妻を取りあげていたなら、神はヨブにふたりの妻をお返しにならなければならなかったじゃないか。そのようなおそろしいことは、神ですら、あえてなさる気にはならなかったんだろうね」
拓斗は断固として、この完璧なる解答を実感した。
もって、上島
階下に降りた瞬間、その母親の顔を見つけて気絶しそうになった。
事故の顛末の一部始終を知っているはずなのに、ひとことも慰めやねぎらいの言葉がない。
そんなもの最初から期待はしていないが、彼女は息子にどんな変事が起ころうと、ただ自分自身の日常生活だけを淡々とくりかえすことのみが至上命題のようだった。
実家に「ばあや」さんがいるくらいの名門で、その女子は明治まで華族女学校(後の女子学習院)にかよっていた。
二十世紀の混乱期、イタリアから嫁入りしてきた美女マリーサの思想信条から、カトリック系私塾の聖エリザベート女学院に方針替えし、一大勢力を築き上げた。
その点、妹も恩恵にあずかってはいる。
こうして「キリシタンが聖女の名をば冠せし、華族女学校の椅子にかゝつて育ち、お花のお茶の歌の画のと習ひ立て」ていた福子であるから、当然のように「生活? そんなものは召使に任せておけばよい」という性格に育まれた。
ユダヤ教の指導者だったパウロは「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞いて回心し改名したが、パウロ拓斗は「父と子と聖霊よ、なぜわたしの母はわたしを迫害するのだ」という心の声にしたがって回心し、無宗教となったのかもしれない。
幼き日より、頼れるのは自分だけだった。
といっても、母が虐待や強制など積極的な迫害を試みたというわけではない。
むしろその逆、徹底的に無関心・無干渉を貫こうとした精神さえ理解することができれば、適当な対応策を立てるのはそれほど困難ではなかった。
幼稚園児時代、子どもが子どもらしいことをすると母は苛々したし、気に触ることをすると「この子どもたちは馬鹿じゃないの」とヒステリックに喚いたこともあった。母の賛意なしには何事も行なうことができず、もって引っ込み思案になっていた時期もある。
だがその原因は唯一、拓斗と妹の「子どもじみた行為」が「母の生活」に抵触してしまったときだけにかぎられていた。
近づきさえしなければ、あの猛獣はけっして噛みつくことはなかった。
もともと彼女は、拓斗たちに干渉したりされたりすることをきらっていただけだったから、慎重にジッとしていれば母の怒りが落ちることはなかったのである。
──いま、彼女は冷たい視線で、テーブルの端に投げ置かれた封筒を一瞥だけした。
なんらかの意味があるらしい、ということを理解して一瞬、目をこすった。
市内から速達郵便で届いた白黒の封筒は開封済みで、宛名は世帯主だったが、特段のご指名にあずかって拓斗の名も横に並んでいる。
母親は、世帯主の配偶者という特権で、勝手にその封筒を開けたらしい。
差出人は──。
「稲葉……え、もう?」
あまりにも短文すぎる内容に、経緯を忖度する必要があった。
月曜夕方、死亡。
火曜日、たぶん検視か解剖。
水曜午前、病院から直接出棺、午後イチでそのまま荼毘に付した。
──早くね?
「会葬はご遠慮しますってあるわ。常識的な判断ね」
きょう、はじめて聞いた母の声がコレだ。もって瞑すべし。
拓斗が絶望的な気分を味わって気が遠くなったのは、しかし一瞬だった。コレは、いつもの母親でしかない。
「常識?」
「死因が自殺や変な事故とかで、大々的に弔問客を集めるような葬儀じゃない場合、ふつう家族や近親者だけで、二~三日で骨にするものよ」
耳朶を打つ冷気。
たとえそれがいかなる真実を
必ず、かの暴虐邪知の妻を除かねばならぬ……以下略。
「変じゃねえよ! なんも知らんくせに、黙ってろ!」
あんたが訊いたんでしょ、という冷たい視線に貫かれて、息子の沸騰は瞬時に鎮火した。
家族葬の事後報告は通常、葬儀後、三日から一週間で行なわれることが多いが、これといったルールはなく、付き合いの近い順に迅速に行なわれる場合もある。
とくに拓斗の場合、現場に居合わせた以上、最速のタイミングで知らせたということなのだろう。
簡素な文面で死亡日時と葬儀報告、弔問や香典については辞退されている。
──こうして稲葉剛は、一枚の紙になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます