06 筆
決裁書類に社長がサインをしている。万年筆をさらさらと動かす音がかすかに聞こえてきた。
なんかこう、サイン一つとっても無駄な動きないよなぁ。
今彼の手にあるのは万年筆だけど、羽ペンとかも似合いそうだな。
書類の作成はパソコンがメインになってるけどこういうところは直筆のサインだ。書類の偽造を防ぐには手書きの方がいいんだろう。
なんてことをつらつらと考えていたら社長に書類を差し出されたからあわてて受け取った。
不備がないか、一応確認しておく。
まぁリカルドが自分の名前を書き間違えるなんてこと、天地がひっくり返ったってないだろうけど。
……そういや、最初にリカルドの名前を見た時、スペルミスかって思ったっけな。
普通リカルドは英語の「
よく使われる人名って、国によってスペルが同じで発音が違うとか、ちょっとスペル変えてるとか、そんな感じだ。
ちなみにおれの名前のレッシュも、姉のシャロンもフランス系らしい。別に親はフランス人じゃないけど。響きが好きだったのかもな。
で、リカルドの名前のスペルだけど“Lychard”だ。
そういやリの発音もRじゃなくてL読みだな。
「何か間違いがありましたか?」
リカルドが尋ねてくる。
「あ、いえ」
短く応えて社長を見る。
今は特に厳しい顔はしていない。魔王モードじゃないってことか。
「ところで社長の名前のスペルはなぜ“Lychard”なんですか?」
なんとなく今なら答えてくれそうな気がしたから、聞いてみた。
「母の希望だったそうだ」
リカルドは目を細めて言う。それがどんな感情を表しているのか、判らない。口調が砕けているし声音も特に怒ってるわけでもなさそうだけど、喜んで話そうとしているわけでもないってことか。
「母が子供の名前は“Lychard”というスペルにしてほしいと強く主張したそうだ。出産後数日で亡くなったが、亡くなる直前まで私の名にこだわっていたらしい。普段は自分の希望を言わなかった母の願いを、父は断り切れなかったのかもしれない」
「どうしておふくろさんがこだわったのかは……」
「結局、父も聞けずじまいだったそうだ」
リカルドすら判らないものをおれが判るはずもないけど、きっとおふくろさんの中では、強い意味があったんだろうな。
「愛されてた、ってことだな」
「そうかな」
「あぁ、きっと」
おれの言葉にリカルドは「そうか」と相槌をうって、微笑した。
穏やかな笑みだった。
「……さぁ、仕事に戻りましょう」
リカルドは万年筆を片付けて、パソコンに向かった。
おれも手渡された書類を手に、社長室を後にした。
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