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「子どもが、出来たよ」
地面に視線を移したまま、彼女は言った。
雪は外灯のせいでオレンジ色に見える。掌に落ちてきた雪を見ると、小さいがすぐには溶けない。これは
子どもが出来た。彼女はいまそう言った。それはつまり…そういうことだ。そういうこと。結婚するということ。僕が、僕じゃなくなること。詩が、詩じゃなくなること。彼女は、視線をこちらに向けて、
「驚いた?」
と訊いた。
「うん、驚いた」
僕は詩の視線に耐えきれず、
「そうかもなって思うことがあって。病院に行ってみたら、『おめでとうございます』って。はは、困っちゃうよね、おめでとうございますって言われてもさ。おめでとうございますって、立場と状況によって、おめでとうじゃなくなる場合もあるってのにさ…。
いま病院に通っているの。待合室にはテレビが一台あって、アルコールの匂いといつも決まった音楽が流れている。いつも行く時間にはニュースしか流れない。字幕付きのテレビ。流れてる音楽はスピリチュアル的な感じのやつでさ、」
笑いながら、でも言葉の端々に不安が滲んでいるのを隠しきれないで、詩は喋り続けた。別にいいんだよ、彼女は言う。聞かなくても意味はわかった。産まなくてもいい、ということだ。
「ちゃんと気をつけていたんだけどね。若気の至りというやつかな。違うか、はは。できちゃった結婚なんてガラじゃないもんね。お腹の子が大きくなっちゃうと中絶出来ないんだって。だからいま言わないとって。私はだいじょうぶだから、だいじょうぶだから」
詩は言い終わると、にっ、と笑ってまた雪を棒でいじりはじめた。
妊娠しても詩は詩のままだった。なぜだろう、そう感じた。彼女は子どもを身籠もっても、清々しいほど彼女のままだ、と。
「さっきの珈琲、もう少し苦いほうが好みでしょう?いつも行くあの珈琲屋さんのは、もっと味に深みがあるもんね。色々試してはいるんだけど、なかなか難しくてさ、試行錯誤してるからもうちょっと待っててね」
下を向いているから詩の表情は見えない。ぜんぶ、気づいているのかもしれない。結婚に踏み切れないことも、珈琲の好みも、音楽や映画ばかりではなく一般常識としてニュースを見て欲しいと思っていることも、ぜんぶ、気づいているのかもしれない。だけど彼女は、彼女だった。
僕が変わりたくないと思うのと同じように、彼女も変わりたくないと思っているのかもしれない。けれど、いまの彼女はそれさえも受け入れている気がした。それなのに、彼女は変わっていない。
「雪、降り止まないね」
詩が空を見上げた。その視線を追うように僕も顔を上げた。灰色の空から小さな雪が幾片も降っていた。雪はまるで妖精のように舞い落ちてくる。それが外灯に照らされ、オレンジ色に染まっていった。
「あ、」
どちらが声に出したのかわからない。
僕は、詩は、僕らは、その光景を生涯忘れない。
か
わ
ら
な
い
た
め
に
か
わ
る
言葉が、降っていた。
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