雪だけが知っている

@atotasuku

1.

 冷たい窓に息を吐く。はあ、っと。途端に窓は白いキャンバスになった。ひとさし指で上に小さな丸、下に大きな丸を描いた。小さな丸のところには二つの目を描く。大きな丸のところには、絵本で見る鳥の足跡みたいな棒を左右に描く。

「雪だるま!」

 後ろで声がして、うたが目覚めたのだと分かる。何時だろう。付き合って三周年記念で彼女がプレゼントしてくれた時計を見ると、午前三時をさしていた。等間隔に並ぶ街の外灯のオレンジが窓に反射して鈍く視界に残っている。

「初雪だ」

 詩が呟いた。

 そう、僕らの街に雪が降った。

「ようやくだね。ニュースを見ていたけど、雪がなかなか降らなくて天気予報士さんが焦っていた」

 詩は窓の外の降り積もった雪を眺めている。先週の天気予報では今週のあたまには雪が降るとの予想だったけれど、結局土曜日の今日になるまで雪は降らなかった。

「でも珍しいね。詩がニュースを見るなんて。『あんなもの、経済学者が見るものだ』って言っていたのに」

 詩はニュースを見ない。まったく、見ない。映画とか音楽番組とかバラエティ番組とか、そういうものばかりを見ている。そんな彼女からニュースのニュの字が出てくることに静かに驚く。

「たまたま見ていただけだよ。その時間はニュースしか流してくれないんだもん」

「『ニュース』って言葉って、五分くらい見てるとゲシュタルト崩壊してくるよね。特にニュースの『ニュ』ってなんなの?よくわからない。『ニュ』だよ?『ニュ』だよ?『ニ』、に小さな、『ュ』を付ける発想って、なんなの。『ニュース』って言葉を最初につくった人って変態だと思うし、『ニュ』って言葉をつくった人なんか墓石に『ニュ』ってだけ書かれてる人に違いない」

「ははは!なにそれ」

 詩の言っていたことが何のことわからなくて、僕もよくわからないことを言った。

 寒い寒い、と言いながら詩はベッドから出ていってしまった。彼女の温度が消えてしまったベッドは途端に冷えていく。

「あたたかい珈琲を飲んで真夜中の散歩にでも出掛けましょうか」

 僕は詩とよく散歩をする。とりわけ真夜中の散歩はふたりの中でもお気に入りの時間だった。

 詩は僕の部屋の珈琲メーカーを自分の物かのような慣れた手つきで使う。

 もう三年だもんな。そりゃあ使い勝手もわかってるくるよな。

 詩と付き合って三年。互いの家を何度行き来しただろう。そうか、もう三年も経つのか。珈琲を淹れる彼女を見ながら、数字としてはわかっていたものが実感としてまざまざと蘇ってきた。

 もう、三年だ。

 詩と出会ってからの時間が急に押し寄せてくる。途方もなく長く感じる時間と、あっという間の一瞬が同居した、何とも不思議な時間の流れ。これから詩と過ごす未来の時間もそうやって続くのだろうか。

 結婚しようか。

 詩と過ごしている時に、その言葉が何度も浮かび上がってきてはいた。けれど、言えなかった。僕の人生が、僕と彼女の人生、になるということが想像出来ないのだ。ふたりの人生。それはきっとしあわせだろう。しあわせだけど、決心が出来ないでいた。このままがいいとさえ思う。この不安定なままでいたい、と。

 小さな棘、のことを考える。結婚生活は小さな棘を体に埋め込まれるようなものではないのか。相手に対して些細な苛立ちを覚えたとして。その時はぐっと堪えて笑えるのかもしれない。でも生活を続けていくにつれて、「小さな棘」は無数に体に埋め込まれていく。それがふとした瞬間、例えば言い合いをした時に、爆発するのではないか。そうして棘の痛みに狂った僕は相手を、詩を、一方的に傷つけてしまうのではないか。

 相手に対して、何も不満を感じていたくない。小さな棘を抱えたまま生活を続けていきたくない。

 付き合っているだけなら、簡単に別れられる。だって他人だから。好き、嫌い、で相手を見ていられる。けれど、結婚はそうはいかない。他人ではいられない。僕は、僕ではなくなり、詩と混ざり合った「僕」になる。そうなればちゃんと向き合わなければならない。いや、いまだって向き合ってはいるつもりだけど、それでも踏み入った話は、結婚のことは、お互いに避けていた。不安定で、だけどそれゆえの自由がある暮らしが、居心地が良いと思ってしまうのは僕だけだろうか。甘い考えなのは僕だけだろうか。

 正直なところ、僕が僕で、詩が詩の、いまがいい。小さな棘のない、今がいい。変わりたくない。僕は、僕でいたい。

 そんなことを考えているうちに当たり前のように時間は過ぎていった。

 結婚しようか。

 言葉に出さずに心で呟く。三年という年月に後押しされた言葉。三年という年月があれば自然と出てきてもおかしくない言葉。詩のことを好きだと思う。愛おしいと思う。けれど、結婚に踏み込めない僕は溜め息をひとつついた。ああ、僕は、どうしたいのだろう。

 詩の淹れてくれた少し深みに欠ける珈琲を(こういうことも結婚してしまったら小さな棘になってしまうのかもしれない)を飲み終えて、僕らは近くの公園に出掛けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る