ライフ・ワーク5

瑞樹(小原瑞樹)

高揚と落胆

 それは9月のとある平日の夜のこと。いつものように仕事を終えて帰宅した田原智子たはらともこが郵便ポストをチェックしたところ、チラシやDMに混じって角2封筒が1通投函されているのに気づいた。智子は不思議に思って封筒を裏返したが、そこでどきりとして目を見開いた。そこに見覚えのある会社名が印字されていたからだ。


文栄社ぶんえいしゃ


 智子はその会社名から目が離せなかった。文栄社。それは智子にとって重要な意味を持つ名前だった。なぜならそれは、智子が新人賞に作品を応募した出版社だったからだ。

 

 智子は作家を目指しており、今から3年前、小説の新人賞の応募先を探していたところ、偶然文栄社の存在を知った。文栄社はすでに50回以上新人賞を主催している老舗の出版社で、賞自体も知名度が高かったため応募を決めた。

 

 しかし、知名度が高いということは倍率が高いことの裏返しでもあり、智子の作品はあっさりと一時落ちしてしまった。落選直後はひどく落ち込み、二度と応募すまいと思っていたのが、道を閉ざしてはいけないと思い直し、昨年2度目の応募をした。結果、一次は通過したものの二次で落選。予想していたので1回目ほどは落ち込まず、来年また頑張ろうと考えていた。


 そして三度目の挑戦となる今年。今度は最終選考まで残れたのだが結果はやはり落選。今度こそは、と期待しただけに落胆も一入だった。その出版社から郵便が届いたのだから、智子が動揺するのも無理もなかった。


 急いで家に入り、鞄を放り出して封を開ける。まさか選考結果が覆ったなんてことはないだろうが、それでも中身を確かめずにはいられない。智子は恐る恐る文書を取り出して見たが、文書の表題を見た瞬間に顔をしかめた。


「自費出版のご案内……?」


 本文に視線を落として内容を確認する。何でも、文栄社は最近になって自費出版事業を始めたらしく、新人賞に応募した作者に案内を出しているのだという。候補作品は編集部で厳選しているため、ぜひとも前向きに検討されたい……。そんなことがつらつらと書かれていた。


 文書を最後まで読み終えた後、智子は頭からもう1回読み直した。内容が思い違いではないことを確かめた後、困惑した顔で天井を仰ぐ。


 自費出版。文字通り、作者が自分で費用を出して作品を出版する方法だ。自分の作品がその候補作として選ばれたという事実をどう受け止めればいいのだろう。編集者が作品に価値を見出してくれたと好意的に解釈してよいのだろうか。それとも、編集部で厳選したというのはセールストークに過ぎず、実際は賞に落選した全員に案内しているのだろうか。そんな懐疑的な考えが頭をもたげ、智子はその誘いに飛びつくことができなかった。

 

 とはいえ、案内を受けたことで心が揺らいだのも事実だ。智子はしばらく考えた後、案内文書に記載されたアドレスにメールを送ることにした。出版を承諾するわけではなく、まずは詳しい話を聞こうと考えたのだ。




 それから1週間後、智子の自宅に再び文栄社から郵便物が届いた。封筒の表面に「見積書在中」というスタンプが押してある。智子が送付を依頼したものだ。


 メールへの返事は翌日の午前中に来た。応対してくれたのは松下という編集者で、智子の疑問点に一つ一つ丁寧に答えてくれた。出版までの流れ、提携する書店、宣伝方法、印税の取り扱い……。具体的な話を聞けば聞くほど夢が広がっていくようで、智子の気持ちはどんどん出版の方へ傾いていった。ただ、金額がわからないと判断のしようがないので、まずは見積書を送ってもらうことにしたのだ。


 智子はドキドキしながら封筒を開けた。果たしていくらかかるのだろう。夏のボーナスも入ったことだし、2、30万円くらいなら出してもいいけど……。だが、見積書に書かれた金額を見た途端、智子の期待は見事に裏切られることになった。


『999,900円』


 智子はしばらくその金額から目を離せなかった。ほぼ100万円。智子の予想よりも遙かに高い金額がそこに記載されていた。しかも提示された部数は300冊。たった300冊のために、車を買えるほどの金額を出せというのか。智子は最初、自分が詐欺を受けているのではないかと思った。


 ただ、その後ネットで調べたところ、自費出版の金額が高いのは既成事実のようだった。編集、流通、宣伝、人件費、保管費用など、諸々の金額を合算するとどうしてもこのくらいの金額になるらしい。自分がふっかけられているわけではないことは理解できたが、それでも智子は落胆を禁じ得なかった。出版に向けて膨らんでいた気持ちが、瞬く間に萎んでいくのを感じる。


 正直出せない金額ではない。大卒で就職して今年で6年目。一人暮らしではあるが外食はせず、趣味にお金をかけることもない。だから必然的に貯金は増えており、100万を出したとしても家計に致命的なダメージはない。でもそれだけの大枚を叩いたところで、売れる保障などどこにもないのだ。これが10万20万なら記念として割り切ることもできるが、今回は桁が違う。


 智子は深々とため息をつくと、同封文書を見もせずに見積書を床に放り投げた。

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