第4話 公子帰る

 俺たちがタバコ畑を横切る間、ずっと誰かに見られているような気がしていた。俺たちは中腰のままタバコの葉の間を走った。公子は「こっち」と言って俺を畑の端まで連れて行った。その先は林だった。俺たちは林の中を全速力で走った。自転車があれば町まで1時間くらいだが、徒歩だと3時間くらいかかる。坂道を転がり落ちるように2人でとにかく走った。


 途中で木陰で休んだ。ズボンには草の種がたくさんついていて、靴も泥だらけになっていた。服は汗でびしょびしょだった。俺たちはそこで初めてキスをした。俺にとっては人生初めてのキス。恥ずかしくて俺の顔はきっと不細工だっただろうと思う。「きれいになったね」

 公子は笑った。

「私はすごく汚い子なの」

「そんなことないよ」

「私はあの屋敷の男の人全員の相手をさせられてるの」

 公子は寂しそうに言った。

「大丈夫か?」

「もう慣れた。でも・・・夢もないし生きてても仕方ないって思う」

「これから幸せになろうよ。俺と二人で」


 それから、また全力で走った。俺たちは夢中だった。自分たちが自由に向かって走っているという、高揚感があった。不思議だけど犬は追って来ない。誰も気が付いていないみたいだった。俺たちは笑い合って、走り続けた。もう1時間は経っていた。町までの道の真ん中くらいまで来ただろうか。


 俺たちは調子に乗って走っていた。顔は笑顔だった。もうゴールが目の前のような油断があった。その瞬間、急に地面にぽっかり穴が空いて、体が宙に浮かんだ。


「わぁぁぁ・・・」 


 俺は声を上げた。気が付いたら、あれよあれよという間に中に転落してしまった。かなり深くて這いあがれそうになかった。そう、誰かが落とし穴を掘っていたんだ。しかも、地面には鋭利にとがらせた竹が刺さっていて、俺は厚手の服を着ていたけど、大ケガをしてしまった。あまりの痛さに気を失ってしまった。


 目が覚めると、俺は病院のベッドに寝かされていた。一人だった。公子はいなくなっていた。助かったんだろうか。俺はやってきた看護士さんに尋ねた。


「すみません。ここはどこすか?」

「ここは〇〇病院です。気を失ってましたからね」

「全身が痛くて・・・」

「イノシシの罠に落ちたみたいですよ」

「すみません。一緒に落ちた女性は?」

「搬送された時はお一人でしたよ」

「一緒に落ちたんです・・・女の人と」

「じゃあ、別の病院に搬送されたんでしょうね」


 せっかく出会えたのに、また引き離されてしまったんだ・・・。

 退院したら必ず会いに行こう。角田さんの家に行けば公子はいる。


 俺は3か月後に、ようやく回復して職場復帰した。

 すぐに角田さんに詰め寄った。

「妹の公子を返してください」

「何言ってるんだ。公子なんて知らない」

「あなたが私の父から買った女の子です。僕の妹なんです」

「何言ってるんだかわからないよ。君はケガして頭がおかしくなったんじゃないか?」

「家を調べさせてください。そしたら納得しますから」

「いいよ。いくらでも調べてみれば。君の気が済むまで」

 角田さんは笑った。


 俺は角田さんの家に言った。部屋がいくつあるかわからないほどの大豪邸だ。俺は朝から晩まで、それこそ、天井裏から、軒下まで全部覗き込んで調べた。

 そこは、角田さん夫婦と夫の両親の4人暮らしで、若い女性なんか痕跡もなかった。写真すらない。


 公子は煙のように消えてしまったんだ。

 俺は幻を見てたんだろうか?

 一人で森の中を走り回っていただろうか。そして、イノシシの穴にドボン。


 それから、俺は30年。あの古いトタン屋根の小屋で公子の帰りを待ち続けている。

 しかし、いまだに彼女は尋ねて来ない。俺は女性と付き合ったことは一度もない。

 彼女以外は欲しくないから、いい寄って来る人はいたけど、すべて断った。 

 

 でも、不思議なことに、同じ職場に勤めてる角田兄弟の娘たちが公子にそっくりなんだ。娘たちは父親にも母親にも全然似てない。俺は娘のうちの一人に結婚を申し込んで、許しをもらった。俺は50近いけど、悪い噂はゼロ。真面目で通っているし、長年勤めてコツコツ貯めた金もある。


 もらい受けるのは、一番、公子に似てる子だった。目が大きくて、ストレートの黒髪。スタイルが良くて、男ならだれでも惚れてしまうような美女だ。


 もうすぐ、公子は俺の元に帰って来る。俺が待ち望んだ大人になった公子がもうすぐ俺の腕の中にすっぽりと納まる。絶対公子の娘だ。俺はそう確信している。公子はそれを知っているんだろうか。


 公子の過ごした日の当たらない一生。名前もない人生。俺ですら公子が本当に存在したのか確信が持てなくなっている。親父も俺が30代の頃にすでに亡くなった。弟妹たちも行方知れずだ。だから、我が家で起きていた犯罪を知っている人は、もう、誰もいない。


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俺の妹 連喜 @toushikibu

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