4060話
「ありがとうね、ジャニス」
満面の笑みでそう言うと、フランシスは酒の入った瓶を一本抱えながら、上機嫌で帰っていった。
「……本当によかったのか?」
レイはジャニスにそう尋ねる。
どうしても酒が欲しいフランシスと、料理用や贈答用で酒を譲るつもりがなかったレイ。
そんな中、最終的にはジャニスが貰った酒のうちの一本をフランシスに譲ることで、話がついた。
「はい。……というか、正直なところ私が貰いすぎな気もしますし」
ジャニスがフランシスに酒を譲ったのは間違いないものの、何も無償で譲った訳ではない。
それどころか、ジャニスが驚く……いや、貰いすぎなのではないかと震えるくらいの金額を貰っている。
もっともフランシスは元々冒険者として成功した過去を持つし、現在は冒険者育成校の学園長を務めている。
レイ程ではないにしろ、金には全く困っていなかった。
また、レイが見つけた宝箱から出て来た酒は、金があれば買えるという物ではない。
幾ら金があっても、現物がなければそもそも購入することが出来ない。
そういう意味では、フランシスがジャニスに支払った金額が決して多すぎる訳ではなかった。
「その、レイさん。このお金……どうすればいいでしょう?」
「どうすればって言われてもな。フランシスから支払って貰ったその金額はジャニスの物なんだから、ジャニスが好きに使えばいいじゃないか?」
「私が好きに……ですが。これだけの金額を持っているというだけで、どうすればいいのか分からなくなります」
「あー……まぁ、そうかもしれないな」
レイの場合はこの世界に来た時、いきなりウォーターベアというモンスターと遭遇し、それを倒してギルムのギルドで売って結構な金額を入手した。
しかしそんなレイとは違い、ジャニスは冒険者でもない、ただのメイドだ。
それだけに、ウォーターベアを売って大金を入手したレイとは違い、これだけの金額をどうしたらいいのかと、不安になる。
ましてや、フランシスから支払われた金額は、ウォーターベアを売った金額の何倍……それ以上の価値があった。
一介のメイドでしかないジャニスにしてみれば、この金額をどうすればいいのかと悩むのはそうおかしなことではなかった。
これがレイなら、ミスティリングに収納しておくということが出来る。
そしてミスティリングはレイしか使えないようになっているので、もし万が一にも誰かがミスティリングを奪っても、収納してある物を取り出すことは出来ない。
そういう意味では、最強の金庫と呼ぶことも出来るだろう。
だが、当然ながらジャニスはミスティリングのようなアイテムボックスは持っていない。
ナルシーナのように、簡易版のアイテムボックスであれば、幸運に恵まれれば入手出来るかもしれないが、生憎とジャニスは幸運に恵まれるということはなかった。
かといって、この世界に銀行のような施設は存在しない。
レイとしては、国……とまではいかないまでもその地を治めている領主が銀行業をやれば儲かるのでは? と思わないでもなかったが、生憎とレイは銀行の仕組みについて詳しくはない。
いや、金を預けることが出来て、それを引き出すことが出来るというのは知っているのだが、それだけだ。
利子がどうとか、どういう風に預けられた現金を管理しているのかといったことは分からない。
イメージ的には巨大な金庫の中に札束が大量に置かれているといったものだが。
もしレイが領主に……この場合は一番親しいダスカーにだろうが、銀行について説明しても、ダスカーはその利便性は理解出来るだろうが、だからといって銀行を作るかと言われれば微妙なところだろう。
そもそも今のギルムは増築工事中で、人手は幾らあっても足りないのだから。
あるいはギルムの増築工事が終わり、その後の諸々……香辛料、地上船の工場、テイマーの学校、トレントの森に関する諸々といったものが終わったら、銀行に手を出してもおかしくはなかったが。
「取りあえず、部屋にでもしまっておく……のは、ちょっと不安か?」
「はい。金額が金額ですし」
レイの認識だと、いわゆるタンス預金と呼ぶべきもの。
とはいえ、家の中に置いておくということを考えれば、ちょっとした金額……レイの認識だと数万から数十万程度ならともかく、数百万、数千万、数億……といった金額になると、それを家の中に置いておいて大丈夫か? と思わないでもないのはレイにも理解出来たが。
それこそ泥棒が入ったり、家が火事になったりといったことになった時、タンス預金の場合は盗まれたり、燃えたりする可能性が高い。
ならどうするかとなると……
「その、レイさん。これ……預かっていて貰えませんか? レイさんに預かって貰えれば、安心出来ますし」
ジャニスが選んだのは、レイに預けるということだった。
「いやまぁ、それは構わないけど……俺もいつまでもガンダルシアにいる訳じゃないぞ? それにダンジョンの攻略とかもあるから、ジャニスが金を使いたい時に俺がいない可能性もある。それでもいいのか?」
「はい、それでも私が持っているよりは安心ですから」
ジャニスの言葉の正しさはレイも理解出来た為、渡された酒の代金をミスティリングに収納する。
「一応……本当に一応だが、預かり証的な物でも書いておくか。俺が忘れるということもあるし、返した時に実は金額が合わないとか、そういう面倒はごめんだし」
「そうですね。分かりました。では、すぐに書きましょう」
ジャニスにしてみれば、わざわざそのようなことをしなくてもレイのことは信じている以上、預かり証のような物は必要ないとも思えたのだが……それでレイが安心出来るのならと、預かり証を……いつ、幾ら預けたのかを二枚の紙に書く。
渡されたそれを、レイは確認する。
そのどちらにも同じことが書かれているのを確認すると、レイは酒の代金が入っている布袋に預かり証を折り畳んで入れると、ミスティリングに収納する。
「これでいいだろ。金が必要になったら、あるいは俺がガンダルシアでの仕事を終わって帰る時、言ってくれ。そうしたら返すから」
それはつまり、レイが帰る時にジャニスもレイもその件を忘れると、この金についてはすっかり忘れられることになるのだが。
ともあれ、レイのミスティリングに収納しておけば、その件についての安全度という意味ではこれ以上ない程に安心出来るのも事実。
「そうしますね。ありがとうございます」
そうしてジャニスの酒の代金は一段落したのだった。
「おはよう、レイ。今日も暑いな」
冒険者育成校の職員室に入ると、教官の一人がそうレイに挨拶をしてくる。
「ああ、おはよう。暑いのは……俺は特に問題ないな」
「マジックアイテムだよな? 羨ましいな」
「ダンジョンの宝箱から出てくるかもしれないぞ? 宝箱の中からは、思いもしない物が出てきたりもするし」
そうレイが言うと、近くにいた別の教官が口を開く。
「そう言えば、昨日レイの宝箱から、また酒が出たって話だったな。羨ましい」
「あ、それは私も聞いた。羨ましいわよね。私も結構ダンジョンに潜っているつもりだけど、お酒なんて全く出ないのよね」
レイと教官の話に、近くで話を聞いていた女が羨ましそうに……本当に心の底から羨ましそうに言う。
女にとって、レイが宝箱から入手した酒については、それだけ羨ましかったのだろう。
「その辺は完全に運だな。貴重なマジックアイテムや酒が欲しいのなら、今以上に多くダンジョンに潜って、より深い階層を探索出来るように実力を付ける必要がある」
「……分かってはいるんだけどね。でも、そう簡単にそういうことが出来る訳じゃないのも事実だし」
女の言葉に、周囲で話を聞いている他の者達も同意するように頷く。
「実力のある者がより多くの宝を入手する。それは冒険者として当然のことだろう?」
そう言うレイの言葉に、冒険者達は同意しつつも微妙に不満な様子を見せるのだった。
「レイ、模擬戦をお願い出来るかしら?」
模擬戦の授業中、教官の一人がレイにそう聞いてくる。
既に生徒達の模擬戦については終わっており、生徒達は今は身体を休ませていた。
レイに模擬戦を挑んで来た女の教官も、生徒達に対する模擬戦が終わったのを見計らってレイに模擬戦を挑んで来たのだろう。
その女が、朝にレイが宝箱から酒を見つけたという話をした時、心の底から羨ましがっていた女だと気が付いたレイは、特に疲れていないこともあり、女の言葉に頷く。
「分かった。じゃあ、早速模擬戦をやるか。……ちなみにどういうルールでやる?」
「普通にやってちょうだい」
女が言う普通にというのは、レイが模擬戦で行う際の普通だろう。
つまり、武器は模擬戦用の槍を一本だけで使い、セトが参加することはないといったやり方だ。
「グルゥ……」
自分の出番がないと知ったセトは、残念そうに喉を鳴らす。
セトにしてみれば、どうせなら自分も模擬戦をやりたいと思ったのだろう。
「えっと……じゃ、じゃあ、俺と模擬戦をやってくれないか、セト!」
そうセトに声を掛けたのは、ニラシス。
どうしてもセトと模擬戦をやりたい訳ではなかったのだが、セトが残念そうにしてるのを見て、思わず声を掛けてしまった形だ。
ギルムの行き帰りでずっと一緒だったこともあり、ニラシスはセトに愛着を覚えているらしい。
もっとも、ニラシスも元からセトを嫌っていた訳ではなかったので、そういう意味ではそこまで注目すべきことではないのかもしれないが。
「そうか。じゃあ、セトのことは頼むな」
レイはニラシスにそう言うと、模擬戦を挑んで来た女と少し離れた場所まで移動する。
女の手には長剣が握られており、既にレイとの模擬戦に集中してるのが、その表情から理解出来た。
(薬が効きすぎたか?)
朝のことを思い出しながらそう思うレイだったが、すぐにそれならそれで構わないかと思い直す。
レイの目的は、冒険者を鍛えることだ。
……その冒険者というのは、冒険者育成校の生徒達だけではない。
冒険者育成校で教官をやっている者達も含まれているのだ。
実際、今までレイは他の教官との模擬戦を何度も行ってきたし、時には教官達のパーティを相手にして、レイとセトで模擬戦をやるといったこともあった。
そういう意味では、この模擬戦がそこまで珍しいという訳ではないのだが……ただ、レイと向き合う女の目は、今まで何度か行ってきた模擬戦の時よりも、明らかに真剣な色がある。
それは今までの模擬戦が真剣ではなかった、遊び半分だったという訳ではない。
ただ、それでも今日はいつも以上に真剣な様子を見せているだけだ。
……そんなに酒が気に入ったのかと、そう突っ込みたくなるレイだったが、実際にそれを口にするつもりはない。
理由はどうあれ、ここまで女が貪欲に勝利を求めるというのは、レイにとって決して悪くないことなのだから。もっとも……
「ふっ!」
女が鋭く呼気を吐きつつ、長剣――こちらも模擬戦用に刃が潰されている物だが――を手に前に出る。
女にしてみれば、人生で最速……とまではいかないものの、それでも上位に位置するだろう出来の動き。
速度に乗ったままレイに向かって長剣を振るい……何かに当たったと思った瞬間、特に手応えもないまま、一瞬前まで手の中にあった長剣の柄の感覚がなくなる。
「え?」
「残念だったな」
長剣を振るった体勢のまま、一体何が起きたのか訳が分からないといった様子で声を上げる女。
それに対して、レイは槍を手にしたまま、上を……上空を見ていた。
本来なら、レイは自分から視線を逸らしているのだから、その隙を突けばいい。
だが、女は……自分が何をされたのか、理解しつつもレイの視線を追う。
すると、その視線の先……上空にあったのは、クルクルと回転しながら空中から落ちてくる様子の長剣。
その長剣がどのような長剣なのかは、女も当然のように理解していた。
つい先程まで自分が握っていた長剣なのだろうと。
「嘘……」
そう口にする女だったが、今のような状況になるのは別にこれが初めてという訳ではない。
これまでに何度かレイと模擬戦をやっており、その時に同じような経緯で負けている。
あるいは自分ではなくて、他の者達が同じような状況になっているのを見たこともある。
だからこそ、その行動の意味は理解出来る。
出来るものの……それでも実際に自分がやられれば、一体何がどうなってこうなったのか、理解出来ない。
本当にいつの間にか自分の手の中から武器が消えているのだから。
柄をしっかりと握っていた筈なのに、それをどうやればこうなるのか分からない。
分からないながらも、女はまたレイにあっさりと負けたと、そう自覚するのだった。
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