3221話

「レイ、ちょっと来てくれ!」


 ダスカー達が来た翌日、レイがセトやニールセンと共に朝食を食べていると、不意に冒険者の一人がレイの名前を呼びながらやってくる。


「どうした?」

「いいから、ちょっと来てくれ! 昨日のマジックアイテムで閉じ込めた黒い円球の様子が変なんだよ!」

「……は? それはちょっと早くないか?」


 黒い円球……いや、穢れが炎獄に捕獲され、餓死するにはそれぞれ個体差があるものの、それでもまだ早いと思えるくらいの時間ではある。

 なのに、何故昨日の今日でそんなことになったのか。


「おかしいな」

「だろ? だから、とにかく来てくれよ。俺達が見張っている時に何か妙なことになったら……」


 その言葉から、レイを呼びに来た冒険者の男がミスリルの結界で何か不測の事態が起きないかどうか、見張っていた者なのだろうとレイは思う。


(いや、俺達って言ってたから、別にこの男が一人だけじゃなくて、他にも何人かいたんだろうけど)


 とにかく、何かが起きたのは間違いない。

 そうである以上、レイとしてもこのままゆっくりと朝食を楽しむといった真似を続ける訳にもいかない。


「分かった。ならすぐに行くからちょっと待ってくれ」


 そう言い、まだ残っていたサンドイッチを無理矢理口の中に押し込む。

 美味いと評判の店で購入したサンドイッチだけに、レイも本来ならこうした乱暴な食べ方はしたくなかった。

 それこそ、出来ればもっとしっかりと味わって食べたかったのだが、今の状況を思えばそのような悠長な真似をしている訳にもいかない。

 レイは口の中にサンドイッチを詰め込んだまま、自分を呼びに来た男に引っ張られて、ミスリルの結界のある場所に向かう。

 とはいえ、同じ野営地の中だ。

 すぐに目的地に到着するが、そこでは話を聞きつけたのだろう。

 野営地で寝泊まりしているオイゲン達研究者が集まっていた。


(黒い円球が本当に餓死するならいいんだろうけど、そもそもミスリルの結界がまだしっかりと動いているのかどうかも分からないんだぞ? もしミスリルの結界が壊れて黒い円球が外に出たらどうするつもりだ?)


 オイゲン達がいるのは、ミスリルの結界のすぐ側だ。

 密着しているといった表現も決して間違いではないだろう。

 そんな場所にいる中でいきなりミスリルの結界が解除されたり、黒い円球が何らかの手段で抜け出したりした場合、とてもではないが研究者達は回避出来ないだろう。

 研究者の側にいる助手もそれに巻き込まれるだろうし、密集している以上は護衛もろくに動けない。

 自殺行為なのでは?

 そうレイは思ったが、今までの炎獄とは違う状況である以上、オイゲン達も研究者としてこの状況を見逃す訳にはいかなかったのだろう。


「ほら、どいてくれ! レイが来たぞ! ここで邪魔をすれば、レイに排除されるぞ!」


 その研究者達の近くにいた冒険者の男が、レイを見るとそう叫ぶ。

 自分を呼びに来た男が俺達と口にしていたのを考えると、叫んでいるのが自分を呼びに来た男の相棒なのだろうとレイにも理解出来た。


「って、おい。それはどうなんだ?」


 レイが来たという言葉を聞いた研究者達が一気に道を空けたのを見て、レイがそう突っ込む。

 面倒がないという点では、レイにとっても悪くない。

 だが、レイが来たと言われてこうして即座に道を空けるといったような真似をされると、レイも微妙な気分になってしまう。


「いいから、ほら。向こうがこうして道を空けてくれたんだ。なら、さっさと行こうぜ。何かあった時、レイがいないと対処出来ないかもしれないんだから」


 レイを呼びに来た男は、そう言いながらレイを引っ張っていく。

 そんな相手の様子に、レイは微妙な気分になる。

 とはいえ、男の言ってることも分かる以上、それに対して不満を口にするといったことはなかったが。

 ともあれ、レイは人混みの中を無理矢理進むといったような真似をしなくても、無事にミスリルの結界の前に到着した。


「レイ」


 レイの存在に気が付いていたのか、いなかったのか。

 オイゲンは自分の隣にやってきたレイに向かってそう声を掛ける。


「それで? 黒い円球が餓死する兆候を見せたと聞いたが?」

「ああ、そうだ。……見ろ。餓死……という表現はどうか分からないが、もう崩壊が始まっている」


 その言葉に半透明になっている結界の中に視線を向けるレイ。

 するとそこには、オイゲンが言うように身体が黒い塵になって崩れていく……いや、それこそ崩壊という表現が相応しい様子になっている黒い円球の姿があった。


「これは……確かに妙だな。やっぱりミスリルの結界だからか?」

「私もそう思う。他に考えられるとすれば、昨日色々と実験をしたので、それが負担になった可能性もあるが」

「負担? うーん……そう言われるとその可能性もあるけど、やっぱり一番可能性が高いのはミスリルの結界だからだと思う。それで、どうする?」


 どうする? と視線を向けられたオイゲンだったが、そこにあるのは難しい表情だ。

 オイゲンにしてみれば、出来ればこのまま黒い円球が死ぬ様子を見たい。

 だが同時に、ミスリルの結界が本当に現状の理由なのかどうかも分からない以上、出来ればそっちの確認もしたい。


「何故ミスリルの結界の中にいる穢れが、この黒い円球一匹だけなのだ」


 不満そうな様子で呟くオイゲンだったが、レイはそれに対して難しい表情を浮かべつつ口を開く。


「元々、結界のマジックアイテムがきちんと作動するかどうかを確認する為のものだったしな。万が一の時のことを考えれば、複数の穢れが入ってる炎獄で試す訳にもいかないのはオイゲンも分かるだろう?」

「むぅ」


 不満そうな、それでいて黙るしかないような正論を口にするレイにオイゲンも反論出来ない。

 もし今この状況で自分が何か不満を口にしたりした場合、自分でもみっともない光景だと理解しているからだろう。

 あるいは言い訳がましい様子を他の者達に見せたくないのか。

 その辺りの理由はともあれ、今となってはまず目の前のミスリルの結界にいる黒い円球をどうにかするように考えるのが先だった。


「それでどうすればいい?」

「どうすると言われてもな。……俺としては、このまま死ぬに任せてみて、もし本当にこれで黒い円球が死んだら、他の炎獄を解除してもう一度ミスリルの結界を試してみたいと思う。……ああ、ただし本当にミスリルの結界が炎獄よりも餓死させる効果が高いかどうかを確認する為には、ミスリルの結界を再度使う前に何らかの餌を与えて穢れを元気に戻す必要があるだろうけど」


 ざわり、と。

 レイの言葉を聞いていた者達がざわめく。

 ミスリルの結界を使って試すというはいい。

 だが、その効果をはっきりとさせる為に、わざわざ穢れに餌を与えて元気にしてからミスリルの結界を使うのは……と、そう思ったのだろう。

 穢れの危険性は、ここにいる者達なら知っている。

 幸いなことに、相手の動きがそこまで速くないこともあり、穢れによって死んだ者はまだいない。

 レイが言うような真似をしたら、それも絶対ということではなかった。


「ちょっ、本気か!?」


 オイゲンの側にいた研究者の男が、レイの言葉を聞き、慌てて尋ねる。

 そんな言葉に対応するのは、レイ……ではなく、オイゲンだ。


「当然だろう。ミスリルの結界の実験を確認する為には、穢れが万全の状態でなければ意味はないだろう」

「いえ、ですが……」


 まさかオイゲンにそのように言われるとは思っていなかったのか、レイに不満を口にした男はろくな反論も出来ずに黙り込む。


「レイ、それでどこで実験をやる?」

「まず最優先なのは、今回のように穢れが一匹の場所だ。複数の穢れを逃がすような真似は出来ないしな」

「そうなると……候補はあまりないな」


 野営地の近くにある炎獄は、その多くが複数の穢れが捕獲されている。

 一匹だけの穢れが捕らえられている炎獄というのは、どうしても少ない。


「最悪の場合は、二匹の穢れのいる場所になるか。……オイゲンにしてみればそっちの方が嬉しいのかもしれないけど」

「否定はしない。……さて、じゃあ……まだ穢れが生き残っている炎獄で、一匹のものはどこだったか」

「向こうの方ですね。ただ、そろそろ死んでもおかしくない頃なので、解放するのなら急いだ方がいいかと」


 オイゲンの言葉に近くにいた研究者……先程レイに本気かと言ったのとは別の人物がそう言い、生誕の塔のある方を指さす。


「ああ、そちらにあったか。そうなると、この穢れがきちんと死んだのを確認したらそちらに行くか。……それとも、ここで死ぬのを待つよりも前に、新しい実験の候補の炎獄を解除して、餌を与えて元気にするか?」

「いや、こっちで確実に死んだのを確認してからの方がいい。ミスリルの結界の実験はこれが初めてだ。そうである以上、まずはしっかりとこれで死ぬのを確認してから試したい。もし向こうで炎獄を解除して穢れが回復している間に、こっちで何か問題が起きたら対処が難しいし」


 穢れは移動速度が遅いので、軽く攻撃をして引き付け、引き付けている者が疲れたら別の相手に攻撃して貰って穢れに追われる役を変わるという方法がある。

 それが穢れの対処としては一般的なのだが、それでも何か不測の事態が起きないとも限らなかった。


(可能性は低いけど、相手は穢れだ。用心はした方がいい)


 そんな風に思いつつ、レイは改めてミスリルの結界に視線を向ける。

 オイゲンを始めとする研究者達と話をしている間にも、ミスリルの結界の内部に存在する黒い円球の身体は黒い塵となって崩れていく。

 既にレイがここに来た時と比べても半分にも満たない大きさになっていた。


「これ、やっぱりミスリルの結界だからだと思うか?」

「まだこの一例だけである以上、何とも言えない。だが、炎獄での時と比べても明らかに早いのを考えると、恐らくレイの予想はそう間違ってはいないと思う」


 オイゲンは複雑な表情を浮かべる。

 自分達が研究をしても、まだ観察の状態だったせいで何も進展がなかったのに、ミスリルの結界によって予想外の展開とはいえ、変化が生じたのだ。

 自分達の研究よりも、錬金術師の作ったマジックアイテムの方が穢れの研究を進めるという意味で有効なのではないか。

 そんな風に思ってしまうのは、おかしくない。

 もっとも、だからといって自分達がこれで研究を諦めるといったことは全く考えていなかったが。


「取りあえず……うん? ああ、ゴーシュ達か」


 レイが何かを言おうとしたのだが、不意に野営地に何台もの馬車がやって来たのを確認し、そう呟く。

 その馬車に誰が乗ってるのかは、それこそ考えるまでもなく明らかだった。

 それでも少し驚いたのは、レイが知ってるのと比べるとゴーシュ達がやって来る時間はいつもより早かった為だ。


「恐らく、マジックアイテムの件について気になっていたのだろう。……そこまで気になるのなら、ゴーシュ達もこの野営地で寝泊まりすればいいものを」


 少しだけ自慢げにオイゲンが言ったように見えたのは、恐らくレイの気のせいではないだろう。

 自分の行動が正しいと知り、だからこそ自分達の方が早くミスリルの結界による穢れの異変に気が付けたという思いがあったのは間違いない。

 レイにしてみれば、そんなところで競ってどうするのかといった思いがあったのだが。

 半ば呆れた様子をレイが見せていると、やがてゴーシュが助手と護衛を連れてレイ達のいる場所に近付いてくる。

 ミスリルの結界の周辺にはレイを含めて多数の者達がいて、そのような者達を見れば何かがあったのは間違いないと予想するのは難しくない。

 ゴーシュは周囲に集まっている者達を掻き分けるようにしてレイ達の側に到着し……


「これは、一体……何がどうなっている?」


 ミスリルの結界の中にいる、半ば崩壊仕掛けの黒い円球を見ながらそう言う。


「何がどうなっていると言われても、見ての通りだとしか言えないな」

「見ての通り? それは私も分かる。だが、これは……一体何故こうなったのか、それを聞いているのだ」

「ミスリルの結界の効果、としか言えないな」


 レイの言葉に、ゴーシュは唸る。

 ゴーシュもまた、何故このような状況になっているのかを予想は出来たのだろう。

 そもそもミスリルの結界以外に普段と違うところはないのだから、その原因をミスリルの結界に求めるのは難しい話ではない。

 それでも即座にミスリルの結界が原因といったことを自分で口にしなかったのは、ゴーシュとしてはそれを認められなかった……いや、認めたくなかったからだろう。

 その理由は、当然だが自分達がギルムで寝泊まりしてるので、ミスリルの結界による異常を最初から見ることが出来なかったからというのが大きい。

 そんな自分の悔しさを押し殺しながら、ゴーシュはミスリルの結界の中で崩壊している黒い円球をしっかりと見るのだった。

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