3222話
「あ」
ミスリルの結界を見ていた者の誰かが、そう呟く。
だが、その言葉を気にした者はいない。
何故なら、今の声が上がった理由を皆が知ってるからだ。
半透明のミスリルの結界に捕らえられていた黒い円球が、黒い塵となって完全に崩壊したことによる声だった。
(考えられる可能性としては、やっぱりミスリルを使った結界だからだろうな。……研究者達にしてみれば、自分達が観察出来る時間が少なくなるという意味でミスリルの結界は好ましい物ではないかもしれないけど、俺……というか、穢れと戦う方にしてみれば、これは悪い話じゃないか)
ミスリルの結界は基本的に誰でも使えて、しかも捕らえた穢れが死ぬのが炎獄よりも早い。
実際に穢れが現れた時に対処する者達にしてみれば、それは寧ろありがたいことでしかなかった。
(試すとすると、やっぱり野営地にいる冒険者達だろうな。もしくは研究者の護衛か? もっとも、ミスリルの結界を一つ作るのに、一体どれだけの金額が必要なのか分からないけど。せめてもの救いは、使い捨てじゃなくて再利用が可能といったところか)
これが使い捨てであれば、ミスリルを使い捨てにするということになり、費用対効果という意味ではもの凄く悪いものになるだろう。
使い捨てになる部分がミスリルではなければ、もしかしたらミスリルは再利用出来るかもしれないが。
「レイ、頼む」
オイゲンの言葉に、レイは頷く。
一体オイゲンが何を要求してるのか、それを理解した為だ。
そのままミスリルの結界……正確にはそれを生み出しているマジックアイテムの大きな釘を手にし……地面から引き抜く。
瞬間、黒い円球を覆っていた半透明の結界が消える。
一応、何があってもいいように、レイはミスリルの釘を抜いた瞬間後ろに跳び退く。
いきなりレイが目の前に現れた研究者が驚くのが背中越しに伝わってくるものの、レイはそれに構わず、何があってもすぐ対処出来るように準備をしながら結界の消えた場所に注視する。
十秒、二十秒、三十秒……一分、二分、三分。
それだけの時間、じっとミスリルの結界のあった場所を見続け、不意に黒い円球が復活するといったようなことがないと確認し、レイは安堵する。
「ふぅ、どうやら本当に黒い円球は消滅したみたいだな」
「そうだな。個人的には複雑な気分だが、とにかく次だ。本当にミスリルの結界を使えば穢れはレイの炎獄よりも早く死ぬのかどうか、検証しよう」
「だが、どうするのだ? もう炎獄に捕縛されている穢れは、かなり弱っているぞ?」
レイがオイゲンとその辺りの話をしていた時、まだゴーシュはいなかった。
だからこそ、レイの言葉に疑問を抱いて尋ねたのだろう。
そんなゴーシュに、レイは一度炎獄を解除して、動き出した穢れに何らかの餌……別に本物の食べ物ではなく、それこそ地面に落ちている石や木の枝、もしくは必要なくなったゴミでもいいので投擲し、それによって穢れを回復させるといった話をする。
「馬鹿なっ! 本気か!?」
レイの説明を聞いてそう叫んだのは、ゴーシュ……ではなく、ゴーシュと一緒にギルムで寝泊まりしている研究者の一人。
ギルムに来た当初はともかく、今となっては研究者達もレイの強さを……そして敵と判断した相手には力を振るうことを躊躇しないということは十分に理解している。
それでもそう叫んだのは、レイが口にした内容が到底理解出来るものではなかったからだ。
叫んだ後でしまったと思った研究者だったが、オイゲンとの会話でその話題が出た時に聞いていた者達からは、お前の気持ちも分かるといった視線が叫んだ男に向けられる。
「本気だ。ここで少し無茶をしないと、ミスリルの結界の本当の効果は分からないだろう? なら、俺がどうにか出来るうちに試してみた方がいい」
そう言われると、レイの話した内容の突拍子のなさに叫んだ男も反論は出来ない。
実際に、レイが今ここにいるからこそ、穢れに餌を与えて元気にするといった真似が出来るのだ。
もしレイがいない状態でそのような真似をした場合……それこそ対処出来ないようなことになった場合、どうしようもない。
そういう意味では、やはりレイがここにいる時に試した方がいいというのは明らかだった。
「……分かった」
不承不承といった様子で頷く男。
そんな男を見たレイは、他に自分の提案……穢れに餌を与えてから元気にしてから改めてミスリルの結界の運用を試すというのに誰も反対を口にしないのを確認してから、レイは改めてオイゲンに視線を向ける。
「それでオイゲン、穢れが一匹だけで炎獄に捕らえられている場所はどこにあるのか分かるか?」
「分かるが……炎獄はレイが使った魔法なのだから、レイも分かるんじゃないか?」
「いや、色々な場所で炎獄を使ってるから、完全には覚えていない。それなら、観察する為に何度も、それこそ毎日のように穢れを見ているオイゲン達に聞いた方が確実だろう?」
レイの言葉に納得したのか、それとも反論しても意味はないと思ったのか。
とにかくオイゲンが頷く。
「分かった。では、これからすぐに案内しよう。……こっちだ」
そう言い、オイゲンはレイを連れてリザードマン達が寝泊まりする生誕の塔の方に向かって歩き出す。
レイとセト、ニールセン――ただしニールセンはセトの毛の中に隠れているが――以外に、オイゲンや他の研究者、助手、護衛、冒険者といった面々もその後に続く。
そうして向かったのは、野営地からそんなに離れていない場所。
そこにはオイゲンが言ったように、穢れが一匹だけ炎獄に捕獲されていた。
「黒いサイコロか。……まぁ、こっちにとって都合がいいけどな。黒いサイコロにミスリルの結界がどう影響するのか、しっかりと確認しておきたいし」
「私もそう思ったので、ここに案内した。穢れはその形状によって能力が違うかどうかは分からない。だが、形状が違う以上はそこに理由があると考えてもおかしくはない筈だ。であれば、ここで試しておきたい。レイはそれで問題ないか?」
「ああ、それでいい。……それで黒いサイコロに向けて餌を投げるのは誰がやる?」
そう言うレイに、何人かの冒険者が立候補する。
自分がここで行動することにより、少しでも穢れへの対処がしやすくなると、そう思っての行動だった。
「一応言っておくが、穢れに餌をやるってのは攻撃をするというのと同じことだ。そうした場合、当然ながら穢れに狙われることになる」
「分かっている。今まで俺達が何度穢れとやり合ってきたと思ってるんだ? 安心して任せてくれ」
黒いサイコロに攻撃するのに立候補した冒険者の一人が、レイに向かってそう言う。
その言葉にレイも納得する。
実際、その言葉は決して間違ってはいないのだ。
今まで何度となく野営地は穢れによって襲撃されている。
その対処は勿論レイがやっていたが、レイが妖精郷にいる時はレイが野営地までやってくるまで、冒険者達が穢れの相手をしていたのだ。
今更黒いサイコロの一匹を攻撃して引き付けるといった真似をするのに、そこまで混乱するようなことはない。
勿論、穢れを甘く見るといったような真似をするつもりはない。
万が一を考えれば、すぐに対応出来るようにする必要がある。
冒険者を見れば、その言葉通り決して油断をしているようには思えない。
そのことに安堵しながら、レイは頷く。
「分かった。じゃあ、任せた。……やるぞ」
その言葉に周囲にいる者達……特に黒いサイコロに攻撃をする者達が頷いたのを確認すると、炎獄を解除する。
必死になって炎獄を破壊しようとしていた黒いサイコロは、いきなり攻撃する対象が消えたことによって炎獄のあった場所から前に出る。
もしこれで黒いサイコロに自我の類があれば、一体何があったのかと戸惑ってもおかしくはない。
あるいは炎獄が消えてそこから脱出した場所に多くの者がいるのを見て警戒してもおかしくはなかった。
しかし、穢れは基本的に自我の類がない。
それこそプログラムされた通りの行動しか出来ないロボットのような、そんな存在だ。
炎獄からいきなり出て、そこにレイ達がいても特に驚いたりするようなことはせず、そのまま空中を移動する。
「やるぞ!」
冒険者の一人が、空中を移動している黒いサイコロに向かって木の枝を投擲する。
回転しながら飛んでいった木の枝は、あっさりと黒いサイコロに命中し、黒い塵となってその身体に吸収される。
黒いサイコロは今の木の枝を攻撃と判断したのだろう。
木の枝を投擲してきた冒険者に向かって近付いていく。
だが、そんな黒いサイコロの動きを止めるように、別の冒険者が同じく木の枝を投擲する。
最初と同じく木の枝を黒い塵として吸収した黒いサイコロは、攻撃対象を変えて移動を始め……次の瞬間には石を投擲されて、再度攻撃対象を変えた。
そうした行為を始めて、数分。
黒いサイコロはひたすら木の枝や石、中には先端が欠けた短剣を投擲されたりしながら、あっちに行ったりこっちに来たりといった行動を繰り返す。
「で、レイ。これはどのくらい続けるんだ?」
「さぁ? 黒いサイコロが完全に回復したら、俺も問題はないと思う。けど、それが具体的にいつになるのかと言われても……分からないというのが正直なところだな」
レイは穢れと何度も戦ってきたが、だからといって穢れの生態にそこまで詳しい訳ではない。
具体的にどのくらいの間、穢れが黒い塵を吸収すれば完全な状態になるのかと言われても、分からないとしか言いようがなかった。
「……なら、いつまでこれを続けるんだ?」
「さぁ? それこそ穢れの研究をしていたオイゲンやゴーシュ達なら、どのくらいで完全な状態に復活するのか分かるんじゃないか?」
「そんな訳がないだろう。私達が観察していた穢れは炎獄に捕獲された穢れだ。その状況でどのくらいで完全になるかを調べろというのは無理があると思わないか?」
オイゲンの言葉にゴーシュも……いや、近くにいた他の研究者達も同意するように頷く。
そんな様子に、レイもなるほどと納得するしかない。
「つまり、そういう訳で……こうして見て、どうにか元気になったと判断するまでだろうな。もっとも、それを判断するのが難しいんだが」
こうして行動をしている黒いサイコロは、炎獄に入る前と出た後、そして餌を与えて黒い霧として吸収した後で移動速度が変わったりはしない。
元気になったことで移動速度が上がったり、もっと何らかの特殊な行動でもするのならいいのだが、生憎とそのような行動をする様子は全くなかった。
そうなると、やはり勘か何かで判断するしかないのも事実。
「分かった。なら、その勘はレイに任せる」
「俺が? まぁ、それに任せるのならそれでいいけど、それこそオイゲンやゴーシュのように研究者の方がそういうのに向いてるんじゃないか?」
レイも自分はそれなりに勘が鋭い方だと思う。
しかし、そんな自分の勘よりもしっかりと研究をしていたオイゲンやゴーシュの、研究者としての勘の方がこの場合相応しいのではないか。
そう言うレイだったが、それを聞いた二人は揃って首を横に振る。
「今回のように色々と特殊な場合は、やはりレイの……腕利きの冒険者の勘を頼った方がいいだろう」
「私もオイゲンの言葉に賛成だ。悔しいがな」
そう言うゴーシュは、本当に心の底から悔しそうな様子を見せる。
その言葉通り、本来なら自分の予想でその辺りの判断をしたいのだろう。
そこまで大きなことではないが、これも一応穢れの研究をしてきた成果を見せる場所というのは決して間違ってはいない。
しかし、ゴーシュは……オイゲンもそうだが、自分の判断で黒いサイコロが元気になったのかどうかをしっかり確認するといったことが出来る自信がなかった。
だからこそ、レイに任せるという判断をしたのだろう。
ここで自分が下手に口出をした結果、黒いサイコロをミスリルの結界に捕獲するという実験に失敗したら、研究者として不味いという判断もそこにはあるのかもしれないが。
「分かった。なら、俺の判断でやらせて貰う。……こうして見ると、大分元気になったように見えるんだけどな」
動きそのものは変わらないものの、何となく……本当に何となくだが、そんな風に思えるのだ。
そんなレイの言葉に、本当か? といった視線が集まる。
もっとも、そのような状況であっても嘘だろうと口にする者はいない。
オイゲンとゴーシュがレイに任せると決めた以上、その邪魔をするようなことをすれば、研究者達を率いている二人に睨まれかねないからだ。
「そんな訳で、俺の判断なら問題ないと思うけど……やってみていいか?」
ミスリルの釘を見せつつ、レイはそう尋ねるのだった。
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